幼馴染に借りた本に和紙で作られたしおりを挟み、それを静かに閉じた。
夜を静かに過ごすのは久しぶりかもしれない。
職場を改装するという理由で仕事は暫く休みとなり、妙は久方ぶりに自由な時間を満喫していた。
立ち上がり、小さな飾り棚の上に本を置く。
その横に視線を流せば、妙の好きな色合いの小さな機械があった。携帯だ。
基本的に夜は仕事であるから、親しい者たちはこの時間に連絡をしてこない。
それは休日であっても同じで、あまり夜遅く連絡を取り合うことはなかった。
特にあの人は、と妙は携帯を手に取る。
最後にあの声を聞いたのはいつだったのだろうか。
桜が咲き始めた頃だったかもしれない。
花見がしたいと言っていた。
手のひらの携帯に視線を落としていた妙は、それをそっと元の位置に戻した。
☆
さみいな、と呻くように呟いた銀時はマフラーに顔を埋めた。
暦の上では春なのに、太陽が沈んでしまえば一気に空気は冷え込む。
暗い夜道を照らす月明かりがありがたい。
これで真っ暗だと余計に寒さを感じてしまうだろう。
仄かな白い光が心強かった。
少し背を丸めながらポケットに手を突っ込み淡々と歩く。
考えていることは一つだけだった。
何度考えても同じ答えにたどり着く。
やりたいことはたくさんあるのだが、順番をつけるなら一番はそれしかなかった。
ポケットの中で温かくなった手を空気にさらす。
手の中には携帯。
それを緩慢な動きで操作し耳にあてる。
一拍置いて鳴り始めるコール音。
もう何度も聞いたメロディに耳を傾けながら、銀時はもう一度「さみいな」と呟いた。
☆☆
妙が布団に入ろうとした時、携帯が着信を知らせた。
こんな時間に誰だろうと携帯を手に取り、そのまま動きが止まる。
ゆっくりと布団に腰を降ろしている間も視線はディスプレイに向いたまま。
あの人からだ。
月明かりに照らされた部屋の中、妙は急く心を落ち着けるようにゆっくりと通話ボタンを押した。
『あー、俺。銀さんだけど』
変わらない気の抜けた声に妙がふっと微笑む。
肩の力が抜けたのがわかった。
『遅くに悪りいな』
「構いませんよ」
『今日は休みか』
「はい。来週一杯までお休みです。お店を改装するらしくて。今、外ですか?」
『そー。仕事が終わって帰るとこー』
「お疲れさまです。体の調子はどうですか?」
『まあ、なんとか。早く布団に転がりてーわ』
聞こえる音に雑音が混じる。
歩きながら電話をかけているため、言葉と言葉の合間に浅い呼吸が混じって聞こえた。
『そっちは?あいつら元気してんの?』
「ええ。新ちゃんも神楽ちゃんも定春くんも、みんな元気ですよ。銀さんが帰って来るのを楽しみに待ってるわ」
『どーせ楽しみなのは土産だろ』
「お土産よりも、ですよ」
そう言いながら妙は視線を動かした。
木製の写真たての中で、別れの悲しみを弾き飛ばすかのような笑顔が銀時を囲んでいる。
出発の日に万事屋の前で撮ったものだ。
「どうされました。なにかありましたか」
『んや、なんもねーけどよ。最近連絡できなかったしな。そろそろお妙に忘れられてんじゃねえかと』
「そうですね。もう一日連絡が遅かったら忘れてたかも」
『マジでか』
「どうかな」
『え?お妙って浮気願望ありな感じ?』
銀時の声が若干大きくなる。
少なからず焦っているのだろうか。
内面が分かりにくい男なだけに、こういった反応が新鮮で妙は嬉しかった。
自然と口角が上がる。
「冗談です。浮気なんてしませんよ。銀さんじゃあるまいし」
『俺がなによ』
「浮気願望があるのはそっちでしょ、ってことよ」
『いやいやいや。そんなもん俺もねーからね』
「そう?そっちで可愛い女の子と仲良くして、私のことなんて忘れてらしたんじゃなくて?」
『ばーか。銀さんこっちで働きっぱなしだっつーの。チンコ立てる暇もねーくらい毎日忙しいわ』
「はいはい」
妙はくすくすと肩を揺らして笑う。
本当に浮気すると思っているわけではない。
ただ、こういう軽い言葉のやり取りが二人にとっては自然であり、遠く離れてもそれは変わらなかった。
「―――それで、こんな時間にどうしたの」
携帯を持ちかえ、妙は話しを促した。
用事がなければ連絡などしてこない男だと十分に分かっている。
『まあ、なんつーの。・・・やっぱ遠いよな』
そこで言葉が途切れ、浅い呼吸音が耳元で響く。
『そっちの今頃はもっと暖かいだろ?花見ん時とか。あいつらと飲み比べしてグダグタになったときだよ。あれって今頃だよな』
「そうでしたね。今頃でした」
『そーそー。なのによお、こっちはまだ朝も夜もくそ寒くて。俺今マフラーしてっからね。春なのにマフラーしてっから』
銀時の言葉は妙にとって意外だった。
まだ向日葵が咲いている暑い時期。
どうしても断れない仕事だからと、銀時は一人で旅立った。
あれから一度も帰って来ていない。
誕生日も正月も銀時は帰って来なかった。
しかし、離れて会えなくなっても銀時は変わらなかった。
距離が遠くなっただけで、他はなにも変わらないのだと言外に語るように。
だから、銀時が郷愁の念を抱いていることに妙は驚いてしまったのだ。
残された者達と同じような寂しさを銀時も感じていてくれたことに。
『知ってたけどな。遠いのも、しばらくは帰れねえことも。知ってて、そこ離れて。それでも大丈夫だと思ってたけどなー。三十路近くなって馬鹿みてえとは思うけどよ、あんまり大丈夫じゃなかったわ』
「銀さん・・・」
『でさ、お妙』
「はい」
『キスしよーぜ』
ぷっつりと途切れる会話。
銀時の唐突な言葉に反応できないまま数秒が過ぎた。
今までの話からどう辿ればその結論に辿り着くのだろうか。
妙は思案する。
しかし分からない。
続く言葉を模索していると、電話越しにくぐもった声が聞こえてきた。
『なんだよお妙。まさか照れてんの?かわいーとこあんじゃん』
言葉が震えている。
笑っているのだ。
電話の向こうで意地の悪い笑顔を浮かべる銀時が容易に想像できる。
からかわれた、と妙は思った。
「喉が痛いからキスなんて無理ですよ」
なんだか悔しくて、それ以上に可笑しくて、妙は同じようにやり返す。
『なんだそれ』
「だから、もしも風邪だとうつしちゃうからできないでしょ」
妙の声も震えた。
笑っていた。
遠くにいる銀時に風邪などうつるはずがない。
電話越しで風邪なんかうつらない。
そもそも遠く離れた二人には無理な話なのだ。
キスしようだなんて、これはいつもの銀時のふざけた冗談。
だから妙も同じように冗談みたいな受け答えをし、銀時が同じように返してくるのを微笑みながら待つ。
しかし声は聞こえず、代わりにすん、と鼻をすする音が聞こえてきた。
「お妙。キスしよっか」
今度は笑っていない。
「今からは無理だけどさ。もう少しだけ待ってろ」
妙は息を飲んだ。
震える唇を噛み締め、ふっと息を吐く。
「もう少しって私の誕生日くらい?」
無理やり口元に笑みを浮かべ胸元を握り締める。
それだけ言うのが精一杯だった。
別に誕生日だから帰って来いなんて言う気はない。
簡単に帰って来られないことも知っている。
だから、本当は寂しいのだと、ほんの少しだけ伝えるくらいの我儘は許してくれるだろうか。
妙が再び口を開こうとしたとき、電話の向こうの雑音が大きくなった。なんだか騒がしい。
「どうしました」
『ん、ああ、今駅着いたとこ』
「駅?銀さん仕事帰りでしたよね」
『そう、終わったから帰るんだよ。今からだとそっち着くのは・・・朝か。まあいいや、着いたら一応電話する』
「な、え?なに?」
『だから、こっちでの仕事が全部終わったからそっち帰るっつったの。寝ぼけてんのか?』
遠くで鳴り響くベル。騒がしくなる雑音。
「それで・・・電話を?」
『やっと帰れるからさー。そっちに着いたら一番初めになにしよっかなーとか考えてて。んで、お妙とキスしてーなと』
あまりに急すぎて気持ちが追い付かない。
瞬きをするたびに水分を溜めていく瞳が妙の感情を表していた。
『じゃあそろそろ切るわ。ちゃんと寝てろよ。風邪なんかひいてんなよ』
妙はうんうんと頷く。
銀時の言葉一つ一つが優しい雨のようで、妙の睫毛の先を湿らせていった。
「明日迎えに行きます」
『朝早いぞ』
「元々早起きですから。どうせ気になって寝ていられないわ」
『そこはさ、銀さんに早く逢いたいからって言えよ』
「銀さんに逢いたいです」
『いや、そんなふうに素直に言われるとね・・・』
妙の素直な様子に照れたのか、銀時が口ごもった。
『んじゃあ、また明日』
「はい。なにか用意しておいた方がいいものはありますか?」
『そうだなー。着いてからでいいや。・・・あ、』
「どうしたの?」
『そうだ、ゴム買っといてくんない?久々だから持ってなくてさ、やっぱキスだけってわけにはいかねーし』
「調子に乗るな」
☆☆☆
タタンタタンと車体が揺れる。
銀時はふっと目を覚ました。
窓の外は暗く、どこを走っているのか分からない。
窓ガラスに自分の顔が映っていた。
目の下にうっすらとくまができている。
仕事終わりにそのまま車内で夜を越すのは疲れるだけなのかもしれないが、それを選んだのは自分だ。
どうしても帰りたかった。
「どこよ、ここ」
何度目を凝らしても窓の向こうには闇が続いているだけ。
タイミングよく車内アナウンスが流れ始め、銀時は耳を傾けた。
『――――――』
告げられたのは何度か訪れたこともある町の名前。
もうここまで来ていた。
いや、帰っていた。
逆算すれば大体の時間が分かる。
もう夜明けが近い。
あの町も、近い。
銀時は窓際に備え付けられた小さなテーブルに肘を置き頬杖をついた。
深い闇がうっすらと青みを帯びていくのが見える。
不意に妙の言葉が甦った。
「逢いたい」
初めて聞いた妙の本音。
彼女はずっと、初めから今の今まで何も言わなかった。
行くなとも、帰って来いとも、寂しいとも。
それを特に何か思うこともなかった。
そういう女なのだと、銀時は知っていたからだ。
妙が身の内にひた隠していた本音を零した理由は、自分の帰郷が心から嬉しかったからだと自惚れてもいいだろうか。
「マジでキスしてーわ」
ぼそっと呟いた声は、軋む走行音に掻き消された。
愛の言葉を囁くなんて柄じゃない。
妙が望めば言ってもいいが、それは今じゃなくていい。
それよりも先に。
彼女が傍らにいるのだと実感するために、あのやわい体温に触れたかった。
"愛してる"より先の先
2011.04.29