ピンポーンと呼び鈴が鳴ったと同時に「オネーサーン」と呼ばれ、妙は「はーい」とドアを開ける。
そして固まった。
「オネーサン、お風呂がダメになっちゃったみたい」
上半身裸で腰にバスタオルを巻き、濡れた頭から水をポタポタと滴らせている少年。
そんな姿の少年が玄関先に居れば、それが普段から親しくしている隣人だとしても驚きに固まってしまうだろう。
「オネーサン?」
ハッと我に返れば眼前で手を振る神威と目が合う。
「ボーッとしちゃってどうしたの」
「神威くんっ!」
「わっ」
ぐいっと手を引かれ、神威は玄関の中へ引き込まれた。急な出来事に目を丸くするが、妙の顔を見て余計に驚いてしまう。
「オネーサン、怒ってる?」
いつも神威に優しい妙。そんな妙が難しい顔をしている。珍しくて、ついじっと見てしまう。
「怒ってない。呆れてるの」
「なんで」
「ちょっと待ってて」
そう言い残して、部屋の中を動き回る妙を目で追う。
「はい、これを身体にかけて」
「はーい」
「こっちで頭を拭いて」
「オネーサンがやってー」
渡された小さな毛布みたいなものを肩にかけながら妙におねだりする。妙は神威に甘い。それを神威は分かっていて甘えるのだ。
「お風呂の水が熱くなってなくてさー。飛び込んでから気付いた」
妙の前に座り、頭を緩く揺らされながら喋る。
「オネーサン家のお風呂に入っていー?」
「もちろん。もうすぐ沸くから待っててね」
「オネーサンが居て良かった」
「そうね。でも来るときは服着ないとダメよ。びっくりするでしょ?」
「あはは」
「笑いごとじゃないの」
もう、と溜息を吐く妙の手が気持ち良くて目を閉じる。こんなふうに頭を撫でられたことがきっとあった。むかしむかし、まだ神威が小さかった頃。
「桂さんには私から伝えておくからね。使えるようになるまで、うちのお風呂を使って」
「うん」
「神楽ちゃんにも伝えないと」
「もうすぐ帰ってくるよ」
「遊んでるみたいだから、お腹すいたーって走って帰ってくるかもね」
「酢昆布ないアルーとかね」
「新ちゃんが昨日買ってきてたような」
「あったよ。神楽と昨日食べたし」
そうなの、と妙が笑う。優しい雨のように降り注ぐ声が心地良い。
良いな、と不意に思った。この場所が、ここに居る人達が、この人が。それは神威にとっては不思議な感覚で、よく分からなくて。
「はい、終わり」
と、離れていく手を掴んでしまった自分がよく分からなくて。
「どうしたの?」
「さあ。どうしたんだろうね?」
分からないから、神威はまだ考えないことにする。
「あ、オレ着替え持ってきてない」
「それなら新ちゃんの用意しておくから。パジャマでいいよね」
「パンツも持ってきてない」
「う、うーん、今から取りに行く?」
「面倒だからパンツはいいや。今もはいてないし」
振り返ってそう言えば、顔を真っ赤にした妙に怒られて。それがなんだか可笑しくて笑ったら、結局妙も笑ってた。
『彼の居場所』
2015/10/16