▼ 全てを掻き消す温度(山崎+伊東さん)
「重役出勤とはいい度胸だね、山崎くん」
口調こそ穏やかだが、眼鏡の奥にある目が全く笑っていない上司の台詞に山崎は凍り付いた。
「伊東……さん、おはようございます…」
肩書きで呼ばれることを嫌う上司をさん付けで呼び、これ以上機嫌を損ねないようにしたいのだがどうやら失敗したらしい。
「現在の時刻でおはようなら、僕の出勤時間ではなんと言うのだろうね」
「その…えーと…」
遠回しで分かりにくい嫌味は、この上司の特徴だ。
(めんどくさい人に捕まっちゃったな…)
山崎は心の中で重苦しい溜め息を吐いた。
そんな様子に気付いているのかいないのか、面倒な上司代表の伊東は理知的な印象を与えるメタルフレームに指をかけながら、
「めんどくさい…て思っている顔かな」
と微笑んだ。
その切れ長の目は、1ミクロンも笑っていない。
「めめめ滅相もございませんん!!めんどくさいなんて、そんな失礼なこと一瞬だってよぎりませんでしたよ!!一瞬も!!何を言ってるんですか伊東さん!!」
心を読まれたかのような言動に、大いに焦る山崎。
慌てて否定はするものの、内心は冷や汗ダラダラ。伊東の視線が痛すぎる。
愛想笑いを浮かべる山崎に、穏やかな雰囲気を称えたままの伊東が声をかける。
「人というものは、自分が隠している真実を他人から指摘された時、一切の思考を停止し無言になるか、あからさまに口数が多くなるかのどちらかだとは思わないかい、山崎くん?」
「……そう、ですね」
性格に問題のある切れ者の上司をもつと苦労する。
山崎は改めて自分の立場を呪った。
「あの、じゃあ失礼しまーす」
触らぬ神に祟りなし。
これ以上、この上司の機嫌を損ねると後々面倒なので、そそくさとその場から逃げる体勢をとったが、
「それ」
と呟かれた言葉を無視できず、渋々と振り返る。しかし伊東の視線は山崎にはなく、もっと下の方。
「それは、なんだい?」
伊東が指差す先には可愛らしい紙袋。
山崎が手に提げているそれは、およそ男が選ぶような柄ではないし持つようなものでもない。山崎の年代なら尚更不自然だ。
「君の…じゃないよね」
心底不思議そうな顔をする伊東。素の表情だろうか、いつもとは違う表情に山崎もつい見入ってしまう。
一般的にはいい男の部類に入るであろう上司には失礼だが、眼鏡に隠された素顔が意外にも童顔であることがよく分かる。山崎より幾つか年上のはずだが、見ようによっては年下にも見えるかもしれない。
だからといって、
「あれ?伊東さんって案外可愛い顔っすね!いやあ、眼鏡なのがもったいない!いや、眼鏡だから余計にいいとか?これが萌えってやつっすね〜!!」
などと、口が裂けても言えない。
冗談では済まされない。
「あー、これは自分のじゃないですよ」
上司に対しての返答は無難か一番だ。
山崎が伊東の様子をうかがいながら答える。
しかし、じぃ――と音が聞こえそうなくらい紙袋を見つめる伊東は無言なまま。
見つめるだけで材質から質感から何やら観察しているようにみえる。ただの紙袋を、だ。
(本当にめんどくさいな、この人……)
山崎が(心の中で)悪態をついた時、伊東が確信したかのように目を細めた。
「それ、妙さんのだね」
「は?」
ポカンと口を開け固まる山崎。
まさか、紙袋から持ち主を判断しようとしているとは思わなかった。しかも大正解。正直、怖い。
「よく…分かりますね」
ひくつく口元を動かし尋ねれば、伊東は当然といったような表情を浮かべる。これはいつもと同じ、よく見る顔だ。
「それが君のものじゃなければ誰のものか、て事だろ?まさか拾ったわけではないだろうからね。一番の可能性は恋人。もしくはそれに近しい間柄の女性ということになるが、君から女性の気配は感じられない」
断言されるが言い返せないのが悲しい。女っ気がないわけではないのだが、ないに等しいと言えるだろう。
「君と恋人関係以外で接点がある女性だと限定すると簡単だ。一番に思い浮かぶのは、君の部屋の隣に住む志村妙さん。彼女から渡されたものだと仮定すれば、全てがすっきりする。どうだい?」
「……お見事です」
だから、何?とは言えない。言いたいが言えない。
とりあえず、満足気な伊東に気の抜けた拍手を送ることにした。
「しかし、どうして妙さんの紙袋なんて持ってきたんだい?仕事で使うにしては書類も入らないし。ああ、何か入ってるみたいだね…」
自分の予想が当たり機嫌がいいのか、饒舌になる伊東が紙袋を少し覗き込むように見遣る。
「あ、お弁当です」
山崎の言葉に今度は伊東が固まった。
「…お弁当?手作りの?」
「あ、それと美味しいお茶もあるって…」
言いながら朝の光景を思い出しニヤケそうになる。
告白ではなかったが、それに匹敵するくらいの出来事ではないだろうか。
幸福感に浸る山崎を尻目に押し黙ったままの伊東。
しかし、口元を歪めたかと思うと静かに笑う。
「手作り…」
「まさか手作り弁当がもらえるなんて、思ってなかったですよ。いつだか僕が好きだと言ったのを覚えてくれていたみたいで」
「君が妙さんに好きだと言ったのかい?」
「まあ…そうなりますけど」
間違ってはいない。
鯖の味噌煮を好きだと志村姉弟に言ったのは山崎だ。
新八の手作り弁当と桂の美味しいお茶。それを紙袋に入れて持ってきてくれたのが妙で、なにも間違ってはいない。
「あの……伊東さん?」
おずおずと呼び掛けると、伊東の鋭く冷たい視線が山崎に注がれた。
「本当にいい度胸だね、山崎くん」
(えええええェェ!!)
いい歳をした涙目の男と、そんな男を冷ややかな視線で見つめる男。
周囲から浮いているのだが本人同士は気付いてないらしい。伊東然り、山崎に至っては命の危機すら感じていた。
「ああそうだ。君にやってもらいたい仕事が山積みなんだ。今日中に頼むよ」
山積みと今日中という単語が強調された。
つまり、機嫌を損ねた上司が部下に大量の仕事を押しつけて憂さ晴らしをするというやつだ。
忙殺。
瞬時にこの二文字が頭をよぎった。
山崎の一日は始まったばかりだったがある意味終わりかけている。
無意識に紙袋をぎゅうと抱き締めると、硬い感触と紙の音。それに、
「あ」
やはり今日は、そんな悪い一日ではないのかもしれないと山崎は思う。
腕に伝わるほのかな温かさはきっと隣人の温かさ。
こんな状況だということも忘れ、笑みが零れていた。
全てを掻き消す温度
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2008.11.20
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