ヅラパート | ナノ


 僕と彼女と隣人さん(桂編)

桂の朝は早い。
毎朝規則正しく同じ時刻に目覚め、顔を洗い、歯を磨き、服に着替えてから朝食より先にお茶を飲む。
シューシューと、ヤカンから漏れる音が静かな部屋へ響き渡っていた。

品の良い湯呑みから白い湯気が立ち上る。
自分一人しかいないというのに折り目正しく正座をしているのは、桂にとって足を崩すことの方が酷く疲れてしまうから。つまりこの姿は最もリラックスしている自然な状態なのだ。

「今日は晴れか……」

朝の一服を楽しんだ桂は湯呑みに残っているお茶をゆっくりと飲み干し朝食の準備にとりかかる。一人暮らしが長いこともあり、料理には多少なりとも自信があった。しかし、朝からその腕前を披露する気にはなれず、披露する相手もいないとなれば必然的に簡単なものとなる。
桂は旅館の定番メニューのような朝食を手早く作るとテーブルに並べ、再び熱いお茶を湯呑みに注いだ。


静かに両手を合わせて目を閉じる。一人きりであろうと欠かしたことはない、食事終わりの合図だ。
しっかりと手を合わせたあとは空になったお皿を台所へ運び、さっと洗う。洗った皿を拭き元の場所へしまうと、軽く手を拭きながらベランダへと向かった。
窓を開ければ気持ちの良い風が吹き込み、桂の長い黒髪が風に流れる。
こうして、桂の一日は始まるのだ。


ここは桂が管理する二階建アパートの一室。
近所に住む無邪気な小学生からは「ヅラパート」と呼ばれ親しまれている、「アパートメント桂」の一階、101号室が桂の住まう部屋だ。
玄関とは反対側にあるベランダからは、よく手入れされた庭が見える。隅には桂が手入れをする家庭菜園、反対側には大きな木が我がもの顔で鎮座している。そして、その木の下には物干し台がひっそりと置かれていた。基本的にここの住人は部屋のベランダに洗濯物を干すのだが、陽当たりが良いという理由でこの場所にも物干しスペースを作っているのだ。
トントントンと階段の音が聞こえ、土を踏む足音が近付いてくる。

「おはようございます」

軽やかで爽やかな澄んだ声が耳に気持ち良い。

「今日も晴れましたね」

セーラー服の上から可愛らしいエプロンをかけた微笑ましい姿で、202号室に住む志村妙が洗濯カゴを抱えてやってきた。

「おはよう。毎朝ご苦労なことだな」

桂が僅かに笑みを浮かべる。妙とベランダ越しに会話を交わすのも日課であり、楽しみの一つだった。
妙の持つカゴの中には姉弟二人分の洗濯物が入っており、独り身の桂にしてみれば結構な量に思えた。

「もう慣れました」

カゴを地面に下ろしながら笑う妙は高校生……というよりも若奥さんといった雰囲気だ。

「それに毎日洗濯してないとすぐにたまっちゃいますから」

手に取ったタオルが綺麗に干されて、パンパンっと皺がのばされていく。その光景を眺めていると手の動きを止めないまま妙が桂を見やった。

「桂さん。今日は本当に良いんですか?」

質問の意図が分からず一瞬言葉が遅れるが、しかしすぐに理解した桂が頷いた。

「ああ。この間の詫びだから気にしないでくれ」

桂の旧友がここへ遊びに来た時のことを思い出せば自然と眉が寄る。帰宅した妙と偶然顔を合わせた旧友の行動は理解し難いものだった。

「面白い方ですよね」

あれを面白いと言うのは妙なりの気の使い方なのかもしれない。しかし、悪い印象をもたれてないことに安堵した。

「本当にすまないな」

愛情表現の歪んだ奴で、と言うのは旧友の為に控えておいた。

「おかげで桂さんの手料理が食べられますから。感謝しなくちゃ」

こうやって話しながらも妙の前には次々と洗濯物が並び、風に揺れていた。ヒラヒラと舞う衣服から石鹸のような清潔な香りがして、それが妙によく似合っているように思える。

「たいしたものは作れないがな、遠慮せず食べに来ると良い」

桂の少々素っ気ない言葉はいつものこと。そこに優しさが込められているのを、妙はよく知っていた。

「桂さんが作ったものは何でも美味しいですから。羨ましいですよ」
「羨ましいか」
「はい、羨ましいです。……新ちゃんもね、料理が上手なんですよ」

口調はいつものままだが、その声から先ほどまでの元気は感じられない。そんな妙に桂は探るような視線を向けた。

「私、料理が苦手だから。桂さんや新ちゃんが羨ましいです。二人は何でも作れて、美味しくて。なのに私は卵焼きくらいしか作れないもの」

目を伏せて、仕方ないとでも言うように諦めたような笑みを浮かべる妙。羨ましい、という言葉にどれだけの想いがつまっているのだろうか。

「では、その卵焼きを作ってくれないか」

真っ直ぐ妙を見つめながら桂が言った。

「暇な時でいい。今日の夕食の時でもいいな」

妙の背中を見つめながら続けられた言葉。
洗濯物を掴む妙の手がピタリと止まり、妙がゆっくりと振り返った。

「……失敗するかも」

不安げな、それでも期待に満ちた表情で。

「構わない」

頼りない表情の妙を映したままハッキリと言えば、少女の顔が柔らかく綻んだ。つられるように、桂の整った顔が優しいものへと変わる。風がふわりと撫でていった。



「これを持って行きなさい」

帰り際、妙に別の旧友からもらったお茶の葉を渡す。それは各地を忙しく飛び回る旧友からのお決まりの土産で、妙の好きな銘柄でもあった。

「いつもありがとうございます」
「気にするな。アイツは俺にくれているワケではないからな」
「え?」

桂の意味深な言葉に妙が顔を上げ、くりっとした大きな瞳が桂に向けられる。

「……いや、深い意味はない。一人暮らしの量ではないから気にしなくていい」

わざとなのだと桂は理解していた。直接渡せば遠慮してしまうことを知っているあの男は、こういう形で土産を妙に渡しているのだ。

「アイツがここに立ち寄ったときに礼でも言ってやればアイツも喜ぶ」

妙は素直に頷いて、また嬉しそうに微笑んだ。


管理人の仕事はたくさんある。敷地内を常時綺麗に保つのも管理という仕事の一つだ。

「おはようございます!」

桂がアパートの入口付近を使いこんだほうきで掃いていると、妙の弟である新八が顔を綻ばせながら歩み寄ってきた。
姉の妙もそうだが、この姉弟は桂を見かけると本当に嬉しそうに表情を崩す。それが桂も嬉しかった。

「今日は姉とお邪魔させていただきますね」

今日は桂が二人に手料理を振る舞うことになっており、それは桂の知人が妙に迷惑をかけたお詫びという名目だった。こうやって毎回なにかしら理由をつけて二人を食事に誘うのは、普通に誘うと二人が遠慮してしまうからだ。受けるにしても断るにしても桂に気を使ってしまう、今どき珍しいくらい真面目な姉弟に桂は好感を抱いていた。

「ついでに山崎にも声をかけようと思うのだが」

唐突に山崎の名前をだすと新八が一瞬意外そうな顔をする。ぼーっと桂を見ていた新八だったが、すぐに破顔した。姉によく似た人懐っこい笑顔。
志村姉弟が隣人山崎に親しみをもっていることは管理人として保護者として二人を見てきた桂が一番分かっていた。そしてこの申し出を喜ぶだろうことも。

「山崎さん、魚が好きだって言ってましたよ」

返事の代わりに山崎の好物を嬉しそうに話す新八。思った通りだと、桂がふっと微笑んだ。

料理談義に花を咲かせていた新八と桂だが、新八の「あ!!」という声で楽しい会話は中断となる。学校の用事でも思い出したのだろう、新八は慌てた様子で走りだした。

「いってきます!」

走りながら振り返り、大きな声で挨拶をする新八。
桂は「いってらっしゃい」と口元を緩め、新八の笑顔を瞳に映していた。



念入りに掃いていたからだろうか、自分の名前を呼ぶ声で時間が経っていることに気が付いた。

「桂さん!」

制服姿の妙が階段を降りながら手を振る。

「今から学校か」
「はい。新ちゃんは日直だから先に。会いました?」
「ああ、さっきな。新八くんにも伝えたのだが、今日は山崎も誘おうと思う」

山崎の名前をだすと、妙は新八と同じような表情を浮かべた。年を重ねるにつれ違いがでてきたが、こうやって笑った顔は本当によく似ている。

「そっか、それなら早く帰って卵焼きを作らないと……」
「それは楽しみだ。だが早く行った方がいい」

新八を見かけてからどれくらい時間が経っているのか分からないが、のんびり立ち話しをする余裕はないだろう。妙が「あっ」と声をあげて頷いた。

「いってらっしゃい」
「いってきまーす!」

スカートのすそをふわりとさせて歩きだした妙が振り返る。幼い笑顔を浮かべながら、見送る桂に手を振った。

やはり、笑った方が良い。

手を振り返しながら、桂はそんな事を思っていた。


今でも思い出す時がある。
泣きじゃくる弟と、その手をしっかりと握り締めた姉。張りつけたような笑顔が痛々しかった。
しっかりと繋がれた小さな手は、全てを拒んでいるように思えた。
いつかその手が自然と離されればいいのにと、震える肩に手を置き、願った。
両親のいない姉弟を入居させてほしいと頼まれたのは二年も前だ。その人物について桂に語るべき言葉はない。桂にできることは、代わりに二人を見守ることだけだった。義務のような保護者役もいつしか大切ものに変わっていた。二人の成長を見守ること桂の楽しみとなり、平坦な日常に色をもたせた。そして、桂はなによりも妙と新八の幸せを願うのだ。

不意に顔をあげる。
ここからだと二階の通路がよく見えた。203号室の前で鼻の下をのばす山崎の姿も、彼が手を振り「いってらっしゃい!」と声をかける姿も。
桂は視線を逸らすと、再びほうきを動かし始めた。


「おはようございます!」
数十分後、山崎が猛スピードで駆け降りてくる。どうやら時間ギリギリらしい。

「隣人に見惚れたか」

山崎が桂の傍らを通る時、さきほどの光景をそのまま伝えた。どうやら図星だったらしく、山崎は「うっ」と言葉がつまらせて立ち止まり桂を凝視する。あんなところでニヤニヤしていれば誰にだって丸分かりだろう。しかしそのことには一切触れず、今夜の集まりのことだけ告げると、山崎はポカンと口を空けた。言葉の意味を飲み込めていないのだろうが、山崎に説明を受ける時間はないし桂もする気はない。

「仕事はいいのか」
「あああ!!いいってきます!!」

思い出された非常事態に慌てふためいた山崎は脱兎の如く駆け出した。
小さくなるスーツ姿を無表情で見送る。優しい面差しで人当たりの良い山崎を桂は気に入っていた。だからこそ志村姉弟の隣に住まわせているのだ。
しかしそれは山崎の知る由もないこと。全ては管理人の胸のうちだ。
自分一人になったアパートをじっくりと見つめ、桂は再び庭を掃き始めた。

今夜は住人が集まり、桂は手料理を振る舞う。山崎の為に作る気はないのだが、あの二人が喜ぶのならそれも良い。
その代わり、妙には卵焼きを御馳走になるつもりだ。一緒に作ってみるのもいいだろう。
一瞬だけ柔らかくなった表情。
青い空、気持ちの良い風、古びたアパート。
いつもの平和な一日が始まっていた。


「僕と彼女と隣人さん」
2008.11.10

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