▼ そして世界が回転する(山+伊+桂+妙)
太陽の恩恵を受けたような天気の良い日。
キラキラと光る日射しがシャワーのように降り注ぎ、体の中から温めてくれる心地よい休日の午前十時。
山崎の休日の過ごし方といえば昼頃まで布団にくるまりダラダラと過ごすのが常なのだが、今日は久しく見なかった陽気に誘われて早々と床を離れていた。
部屋の中と外では空気が違う。混じり気のない透明感に満ちあふれていて気持ちが良い。何度か深呼吸をしてみた。
ついでに散歩でもしようかと、山崎がアパートの裏手にある庭へやって来たのはほんの気まぐれに過ぎなかった。
「あのう……」
山崎が遠慮がちに声をかけるのはよく知る人物。
しかし、できればあまり絡みたくない人物でもある。
「ああ、山崎くんじゃないか。おはよう」
まるで清涼飲料水のCMのような爽やか満点の笑顔で振り返るのは、いつも山崎に必要以上の仕事をまわしてくる上司の伊東だった。
ただのそっくりさんであることを願ったが、どうやら本物のらしい。
「お、おはようございます……」
当たり前のように挨拶をされて余計に戸惑ってしまう。しかしこのまま無視もできない。
「あの……ここ、俺の住んでるアパートの庭ですよね?そんな場所で伊東さんは何をしてらっしゃるのですか」
遠慮がちに周りを見渡しながら尋ねる言葉遣いには動揺がみられるが、そんなこと気にしていられない。
ここは山崎のオアシスであり居住地でもあるアパートメント桂(通称ヅラパート)の裏庭だ。アパートの敷地内、それも裏手にあるため基本的には住人しか訪れることのない場所。そんな場所で何をしているのかと、ありったけの疑問をこめて尋ねれば、涼やかな瞳が眼鏡越しに山崎を見据えた。
「見て分からないかい?」
伊東がいかにも高級そうなメタルフレームの眼鏡に触れながら尋ね返してくる。日射しに反射して、眼鏡がキラリと光った。
「一般的に視覚からの情報量は膨大なものだと言われているよね。それをふまえて考えてみると、視覚に頼って生活している者が見て分からないのであれば、それは聞いても分からないだろうという仮説が成り立つと思うのだけれど、君はどう思う山崎くん?」
眩しいのか、フッと細められた切れ長の瞳は光に透けると薄茶色になった。その瞳を山崎に向けたまま伊東が首を傾げる。薄い唇は笑みの形をつくり、まるで子どもを諫めるかのような表情だ。
「……伊東さんのおっしゃる通りだと思います」
山崎は頬を引きつらせながらやっとの思いで答えた。
上司と部下という間柄で過ごしている以上、上司伊東の言葉に隠された真意を理解することなど山崎にとっては朝飯前だ。今の伊東の台詞は、
「面倒くせーからいちいち説明しねーよ!」
という意味である。
そんな嫌味を爽やかに言いこなす上司伊東。その笑顔を眺めながら、改めて面倒な男だと山崎は思った。いや、悟った。
「なんかすんません」
寝起きでボサボサの髪を手で梳いたあと、パジャマ代わりのジャージに手をつっこむ。
「別に、大したことじゃない」
伊東は笑みを浮かべたままだ。どうやら今日は大層機嫌が良く、これ以上の嫌味地獄はないようだった。内心ホッとしたがそれを顔には出さず、山崎はこっそりと伊東を瞳に映した。
賢そうな顔立ちに眼鏡という組合わせは、大抵の場合神経質なイメージを受けるものだ。
しかし伊東に関してはそれが当てはまらなかった。優しげな髪や瞳の色合いが受ける印象を和らげ、硬さよりも品の良さを感じさせている。普段の穏やかな口調もその印象に拍車をかけていた。
ただし、それは伊東と深く関わり合わない者だけが抱く印象であることを、山崎は誰よりも知っていた。
「ん?」
ぼんやりとしていた山崎の額や頬に冷たい粒がぱちぱちと当たる。フワリと視界を遮ったのはキラキラ光る透明な虹。
「悪い、濡れたかい」
「あ、ああ、いえ」
その感触が水だと気付くのに時間はかからなかった。
伊東の右手には水色のホースが握られていて、その先から放物線を描きながら水が出ている。それを庭全体にまいているようだ。
「あの、なんで伊東さんがここの庭に水をまいているんですか?」
「迷惑?」
「め、迷惑なわけないじゃないですか!なに言ってんですか伊東さん。面白いなーは、ははは」
一瞬返答に詰まってしまったが、笑って誤魔化すという荒技を実行する山崎。乾いた笑い声が庭に吸い込まれていった。
水が溢れ続けること数秒。
「君の言葉をよく覚えておくことにするよ」
優しげな伊東の微笑みに、山崎の背筋が凍った。
二人の男が静かな争い(というより片方が一方的にやられているのだが)を繰り広げている横で、黙々と草むしりをする長髪の男が一人いた。
つばの広い麦わら帽子を被り、付いている紐を顎の下で結んでいる。その姿は美人系と評される顔立ちに似合わないようでやけに似合っていた。
「―――山崎」
「……え?」
「ここだ山崎。お前の斜め後ろにいる」
「斜め後ろ……って、え!?桂さん!!」
山崎が不自然な姿勢で振り返ったまま目を丸くした。視線の先に管理人である山崎がしゃがみこんでいたからだ。
「あの、いつからそこに」
「お前がここに来る前からだ」
桂は抜いた草を掻き集めながら素っ気なく返答する。山崎の驚きに付き合うつもりはないようだ。
「え、いましたっけ?俺、全く気付かなかったっすよ」
「お前は庭に来てすぐ立ち止まり、そちらの方と話しはじめたからな」
桂は立ち上がると水をまいている伊東を目線で示した。そちらの方とは伊東のことらしい。
「上司の伊東さん」
「なんでしょう」
桂の唐突な呼びかけに、伊東がゆったりとした動作で振り返る。
「そろそろ休憩にしようと思うのだが、如何かな」
「そうですね。お言葉に甘えさせていただきます」
無表情のまま堅苦しい言葉でお茶に誘う桂。今から休憩をとるようだ。その誘いに伊東は柔らかく微笑み、承諾の意を返した。
水のアーチがパシャンと消えた。
山崎は口を開けたまま二人を見つめる。
桂に言わせれば「アホ面」伊東に言わせれば「知性の欠片もない顔」というような、何とも言えない顔だ。
しかし、目の前にいる二人の茶飲み友達的な雰囲気を目の当たりにすれば当然のことだろうと思う。
山崎を置き去りにしたまま穏やかに会話を続ける桂と伊東は初対面ではない。だからといって、こうも親しげに会話を交わすほど知り合っているわけでもないはずだ。
伊東は山崎の上司で、桂は山崎の住むヅラパートの管理人。二人には山崎しか接点がない。それなのになぜ――と、思考の狭間に沈んでいく山崎の耳に、聞き慣れた声が飛び込んできた。
「お茶の準備が出来ましたよー!」
高いが耳障りではない、可愛らしい女の子の声。
「あれ、山崎さんだ!おはようございます」
庭の奥からパタンパタンとサンダルの音をたてながら妙が歩いて来た。シンプルな服の上から可愛らしいエプロンをつけている。
「昨日は遅かったみたいだから、まだ寝てるのかと思ってました」
妙は山崎の前で立ち止まると、またフワリと笑った。
可愛い隣人に自然と顔が綻ぶ山崎だったが、ある事をふと思い出し、妙にそうっと顔を寄せる。
「あのさ、妙ちゃんも伊東さんが今日手伝うこと知ってたの?」
伊東には嫌味で返され、桂には聞けずじまいだった疑問だ。
山崎はここぞとばかり仲の良い妙にこっそりと尋ねてみた。
「知ってるっていうか」
妙は一旦そこで言葉を区切り、少々はにかむように微笑む。
「伊東さんに今日のことをお願いしたの私なんです」
山崎の中で、なにかが繋がった気がした。
パチリとピースがはまったような、そんな感覚。
伊東は山崎の隣人である妙のことを大層気に入っていた。
その事実を深く考えないまま受け入れていたのだが、よく考えれば分かりやすいことなのかもしれない。
つまり、そういうことなのだろう。
今、桂と共に妙と会話をしている伊東からは普段の冷やかな表情は見えない。
代わりに、なんとも優しげな笑顔を浮かべていた。
その顔が答えなのだと、山崎はボンヤリと不思議な気持ちで暖かな光景を眺めていた。
「そういえば桂さん、なんで俺を呼んだんですか?」
ささやかなお茶会に山崎も招待され、桂の部屋へ向かう間にある事を思い出した。
山崎が庭で桂の存在に気が付いたのは、桂が山崎に声をかけたからだ。
しかし、その後の展開に心をもっていかれていた山崎は、何の用で呼びかけられたのか聞くことすら忘れてしまっていた。
それは桂も同じようで、「ああ、それは」と思い出したように呟き、
「あそこにある草を端に寄せておいてくれ、と頼みたかったのだがな」
と、こんもりと盛られた雑草の山を指した。桂が先ほどまで抜いていた草を集めたものだろう。
「あー、あれか。いいっすよ。今やります」
山崎の返事は大層軽いもので、特に迷った様子もなかった。
掃除を手伝えなかったのだから、これくらいはさせてほしいという山崎の気持ちによるものだろう。
「先行っててください。俺、これやってから行きますんで」
山崎は踵を返すと、そのまま軽い足取りで雑草の山へと向かう。
「では頼んだぞ」
桂は山崎の好意を素直に受け取っり、いつもより優しい声をかける。
「頑張ってくださいね」
「はーい」
二人からの激励に、山崎は歩きながら軽く手を振り応えた。
「――よっ…と」
勢いをつけ、両手一杯に雑草を抱えたまま立ち上がる。見た目の大きさのわりに重さはあまり感じないが、量が量なだけに何度も往復していると、さすがに疲れがたまってきていた。
何度目かの往復のあと、立ったまま束の間の休憩をとる。ここでしゃがみこんでしまうと余計に疲れが身体中に染み渡ってしまいそうだ。
額に浮いた汗をぬぐいながら、山崎は横にすすっと視線をずらした。
山崎の視線が止まった先に、手際よくホースを巻く伊東の姿があった。
なぜか山崎と共に庭に残った伊東だったが、どうやら自分が使った物を片付けるために残ったらしい。なんとも律儀な男だ。そんな感想を抱きつつ、また視線をそっとずらした。
「よし、あと少しで終わりだ」
首から下は草だらけ。
しかしどうせ部屋着のジャージ、洗濯機に突っ込んで洗えばいい。
庭を綺麗にするのもヅラパート住人の務めだ。
そろそろ自主休憩を終えよううと体を伸ばした時、
「これで最後だよ」
残りの雑草を運んできた伊東と至近距離で目が合った。
「へ?」
間の抜けた声で驚く山崎。今日は驚いてばかりだ。
「随分と間抜けな声だね。一体なにに驚いてるんだ」
伊東は枯草だらけになった高そうな上着をパンパンとはたき、乱れた服を整えながら尋ねる。
「いや、そのう……伊東さんが手伝ってくれるとは思わなかったので」
このまま誤魔化しても良かったのだが、少しばかり迷ったあげく、山崎は素直に心情を打ち明けた。
「いつもは大量の仕事をこれでもかっ!てくらいまわしてくるじゃないですか。だから、まあ、そういう感じの方なのかと思っていたから意外で意外で」
迷ったわりにはストレートに暴露する本音。
今日の伊東は山崎の知っている伊東とは少し違っていたからかもしれない。
とにかく意外。それ以外に言いようがなかった。
「君は、僕をどんなふうに見ているんだい」
「そう、ですねー」
言いづらそうに視線を逸らし、ポリポリと頭を掻く。
「仕事に厳しく、部下にはもっと厳しい方かと」
言いづらいが、またしてもハッキリとした主張。
それは山崎が昨日まで伊東に抱いていた印象だった。
しかし思い切って言ってはみたものの、少しばかり言い過ぎたのかもしれないと慌てて横に立つ伊東を見やれば、当の本人は怒りというよりも心底驚いたという表情で山崎をまじまじと見ている。
「つまり君は、僕が大した理由もなく君に多くの仕事を割り振っていると思っているのか」
まばたきすら忘れたかのように山崎を見つめたあと、確認するかように尋ねた。
そんなふうに思われていたのだと、全く思ってもいなかったのだろう。
伊東の威圧感に気圧されながらも山崎が遠慮がちに肯定すると、その整った顔に「呆れた」という感情が浮かんでいた。
伊東が長く深く息を吐き、そして一言。
「僕は、使えないものは使わない」
面倒そうに髪をかき上げながら、それでも静かにはっきりと伊東は言い切った。
「時間の無駄で効率も悪い。その割に成果も上がらない。そんなことをするよりも、使えるものを限界まで使い込む方が実用的で利にかなっているし役に立つ」
一息でそこまで繋ぐと、また深く深く息を吐いた。
伊東が言外に語っていることが分からないほど山崎だって子供ではない。
上司の嫌味な台詞を解読することは得意技だ。
要するに今の台詞は、
「――誉めてます?」
山崎は本当に意外だ、と目を見開いた。
まさかの誉め殺し。
上司に誉められたのも初めてなら、こんな嫌味な誉め方をされたのも山崎にとっては初めてだった。
「客観的な事実を主観で述べただけだ。勘違いしないでくれるかな」
伊東は凝視する山崎の視線を遮るように眼鏡に触れ、肩をすくめる。
しかし否定はしない。
それは山崎の言葉を肯定しているも同義だろう。
山崎の中で柔らかな感情がじわりじわりと拡がっていった。ゆっくりと確実に。
「伊東さんって素直じゃないっすね」
「どうだろうね」
いつもより軽い口調は山崎の心境の変化によるものだろうか。
結局、人の印象などあやふやなものなのだ。
人は他人を見る時、自分の印象でその人を覆ってしまうのかもしれない。
内面を見ているようで、自分が期待する姿を押しつけているにすぎないのだ。
相手が期待を裏切る姿を見せた時、それが自分にとって好意的な姿ならば相手の印象は良くなるだろうし、逆に受け入れないものならば相手の印象も悪くなるのだろう。
良くも悪くも変わるのは、自分の気持ち一つだ。
「伊東さんがいつもそうなら、俺も頑張れるんですけどね」
「例えばどれくらいかな」
「そうだなー、二割増しで働けますよ」
「へぇ…」
山崎の冗談まじりの台詞に、伊東が口角をあげた。
こんな冗談が滑り落ちるのも、伊東の印象が山崎の中で良いものへと変わった証拠かもしれない。
そう変化した理由は山崎自身にも分からないが、至極些細な出来事の積み重ねの結果だろうと山崎は思う。
それだけ分かれば充分だった。
いつもより自然な様子で笑う山崎を観察するように見つめていた伊東は、微かに目を伏せ眼鏡を触る。
「君は」
「なんすか?」
ふっと微笑む上司伊東。
「君はまだ二割の余力を残して仕事をしているんだね。では来週から担当業務を二割増しにさせてもらうとしよう」
印象は変わっても本質は変わらない。
そんな単純なことを山崎はすっかり忘れてしまっていた。
「それはちょっと勘弁して下さい……」
相変わらず手強い相手に、山崎は速攻で白旗を掲げた。
「終わりましたー」
「お疲れ様です!…はい」
妙から労いの言葉とともに差し出された湯呑みを、山崎はお礼を言いつつ受け取る。
湯呑みから伝わる温かさが指先をじんわり熱くする。その柔らかな熱が疲れた体を癒し、今日が休日だったことを思いだせてくれた。
「――そういえば、妙ちゃんと伊東さんってどこで知り合ったの?」
今まで気にしたことはなかった些細なことが、今はなぜか気になってしまう。
これも心境の変化がなせるわざだろう。
「伊東さんと初めて会ったのは――確か」
「駅前の和菓子屋探しの時じゃないかな」
記憶を辿るように視線をさ迷わせる妙に、伊東が優しい声で言葉を繋ぐ。
「あ、そうです!そうそうあの時……」
なにかを思い出したのか、妙が恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「ん?なになに?何かあったの?」
「あの、私、道に迷ってたんです。美味しい和菓子屋さんがあるって聞いて行ったまでは良かったんだけど、全く見当たらなくて」
そんな妙に声をかけたのが伊東で、それが二人の出会いだったらしい。
「和菓子屋らしくない外観だったから違うって思い込んでたんです。それを伊東さんに教えていただいて」
「妙さんとはそれ以来の付き合いだ」
伊東がゆっくりと湯呑みを口に運ぶ。やはり今日は機嫌が良い。
「へー。で、今じゃあすっかり仲良しさんってわけですね」
お茶請けの饅頭を頬張りながら、山崎が素直な感想を述べる。
別にお世辞で言ったわけではないのだが、伊東が嬉しそうに目を細めた。少々照れているのかもしれない。
「もちろん仲良しですよ」
山崎の言葉を肯定するように妙が頷いた。
これには伊東も口元を緩め、微笑みを浮かべる。
なんとも平和な空気が流れるが、
「伊東さんって頼りになって、親しみやすくて。本当に親戚の叔父さんみたいな方です」
妙が笑顔で強烈な一撃を放った。
「ぶ!!」
「や、山崎さん!大丈夫ですか!?」
急にお茶を噴き出した山崎を、妙が心配そうに覗き込む。
「山崎。お茶は口から噴き出すものではない。口に含み、味わい、飲み下すものだ」
今まで静かにお茶を飲んでいた桂は、手で口元を拭う山崎に綺麗に折り畳まれた手拭いを渡した。
「大丈夫だよ大丈夫。本当、大丈夫だから」
桂から渡された手拭いで口元を拭きつつ、不自然な笑みを浮かべる山崎は片手を左右に振る。
まさか上司が間接的に振られてしまう現場を見ることになるとは思わなかった。
「――親戚の叔父さんか。そうか」
伊東がかろうじて答える。ダメージ大だが、平静を保とうとしているのが嫌というほど伝わってきた。
「それってあれだよね!親しみやすい男性ってことだよね!」
心のダメージを引きずっている上司を励まそうと、二人の会話に無理矢理割って入った山崎が慌ててフォローする。身体中、冷や汗だらだらだ。
「頼りがいがあるってことだよねー、妙ちゃん」
同意を求めるように多少引きつり気味ながらも笑いかけると、
「はい。伊東さんは本当に頼りになりますし、話しやすいです」
妙がにこやかに頷いた。
とっさに出たフォローの言葉だったが間違っていなかったようだ。
その言葉に伊東も自分を取り戻したようで、山崎はそっと胸を撫で下ろした。
美味しい菓子屋の話題で盛り上がる二人の様子を眺めつつ、山崎は湯呑みに残っていたお茶を口に含む。
トラブルはあったものの、今はとても良い雰囲気だ。
乾いた口内に水分が染み渡り、やっと心から落ち着けた気がする。
そんな時だった。
その絶妙なタイミングを狙ったかのように、
「――つまり伊東さんは便利で使い勝手が良いだけで恋愛の対象にはなりえない存在、ということか」
と、桂が本当にさり気なく、伊東にとどめの一撃を言い放った。
びしりっ、と音が聞こえそうなほど固まる伊東。
そんな上司を目の端に捕らえた山崎は唸る。
これ以上はもう限界だった。
「や、山崎さん!?」
再びお茶を盛大に噴き出した山崎は、今の状況など頭の片隅にもないかのように笑い転げた。
人の印象などあやふやなもので、人を好きになるのも嫌いなるのも簡単だ。
それならば、恋でも愛でも友情でも同情でも尊敬でも何でもいい。
どんな切っ掛けであれ理由であれ、好きな人が一人でも多い方が、きっとずっと楽しいだろう。
「今度呑みに行きましょうよ――先輩も誘って」
笑いの余韻の中で目尻の涙を拭いながらかけた言葉に、「今日のことはヤツに言わないでくれ」と溜め息混じりに伊東がぼやく。
その隣には目の前で起こっている光景など意に介さないようにお茶を啜る桂がいて。
傍らには心配そうにタオルを握り締める妙がいて。
好きな人は多い方がいい。
そう思って、また笑った。
そして世界が回転する
2009.09.07.
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