川沿いの桜並木を歩いていると緩やかに足が止まった。一本だけ既に満開のそれは、白く淡い紅色を帯びた花を精一杯咲かせている。  
 ふと、彼女のようだと思った。笑うと白い肌にほんのり紅が差す。それこそ花が咲くような可愛らしい笑顔をみせる。
 もうすぐだ。
 桜の花が咲き綻び始めると、あの日が近いと毎年思う。
 

 桜の道をしばらく往くと、テラス席のソファで既に酒を煽り始めている見知った集団が目に留まった。

「カクチョ―、遅かったな」

 三途は既に半分になったグラスを揺らしている。機嫌のいい声だった。足早に近づくと、早く席に着けと言わんばかりに望月が空いているソファを手で叩く。「遅くなった」緩く手を上げると蘭と竜胆もそれに応えた。テーブルの上には灰皿や前菜と一緒に日本酒が置かれている。桜を眺めながら花見酒とはコイツらにしては中々粋な試みだ。

「意外と早く終わったんだな。あ、グラス一つ」

 竜胆が店員に声をかけると、すぐさま追加されたグラスに酒が注がれた。三途の乾杯を合図にオレは酒に口をつける。一仕事したあとの一杯はやはり上手い。美しい景色を眺めながら酒が飲めるのもまた格別であった。しばらく桜を肴に酒を飲んでいたところで、望月がそういやぁと話を切り出す。

「さっき話してたんだが、今週末取引先でパーティがあるって話。オマエも行くか?」 
「悪い、今週末は……」
「カクチョーなんか用あんの?」
 珍しい、と竜胆はオレを見る。
「誕生日なんだ」
「は?オマエの?」
「いや、オレのじゃない」
「あー、オマエの連れ?」
「……そうだ」

 個人的な用事で誘いを断るのは多少気が引けたが、彼女にとって一年で一番大事な日を無碍にすることはどうしてもできなかった。
 いつまでも仲良くやってんなー。聞こえてきたのは何度も聞いた、三途の呆れを含んだような声だった。ことあるごとに、オレは三途や蘭たちに意見を求めていた。誕生日もクリスマスも彼女に何を贈ればいいのかわからないからだ。あれやこれやと聞くたびに、同じような台詞をいつも吐かれている。

「オマエらも長いしいい歳だろ。そろそろやらねェの?プロポーズとか」
「あー、確かにそういう話聞かねぇな」

 三途と蘭の言葉に話は思わぬ方向に転んでいく。――プロポーズ。全く考えていないわけでは無かった。長いこと、同棲を続けている彼女との関係をいつまでも先延ばしにするわけにもいかないと思っていたからだ。しかし、仕事柄彼女を危険に晒す可能性もある。それに、オレの肩書きのせいで周りから白い目で見られてしまうくらいなら籍など入れない方がいいのでは、とも考えていた。
 ……いや、違うな。家族というもに、羨望と同時にある種恐れに近いものを抱いている。それがオレの本音だろう。家族は早々に失った。なにもかも、無くす方が多い人生だ。深い孤独の中に居たオレは家庭の温かさや憩いというものをとうに忘れてしまっている。そんなオレが家族というものを持ち得るのだろうか。そんな疑問を微かに抱いていた。だからオレは情けないことに「結婚して、オレと先のことまで考えれるか?」と、彼女へ問うことに二の足を踏んでいる。

「……」

 わかりやすく黙り込んだオレに三途は一笑すると、

「喧嘩の時は容赦なく突っ込んでくのに女のことになるとてんでダメだな、オマエ」

 そう言って、ソファの背もたれに両腕をだらりと広げた。
 まぁ図星だ。多勢に拳一つで向かっていくのにはなんの躊躇もない。それのに、彼女にそんなことを言おうとでもすれば喉に小骨でも引っかかったように何も言えなくなる。喧嘩屋などと恐れられていた男が聞いて呆れる。オレは小さく息を吐き、杯を煽った。
 殊更、恋愛毎に疎いオレには全てが難題であった。蘭のように歯の浮くようなセリフを軽々しく口にすることもできず、竜胆のように上手く女性をエスコートできる自信もない。衆目の前で手を握るどころか、肩を抱くことすら出来ない。こんな堅物のどこがいいのか?そう聞いてしまいたくなる時もある。しかし、仮にオレが名前をどうして好きなのか?と問われたらうまく説明出来る自信もない。唯一であったイザナを失い、喪失感を抱えていた自分の隣にずっといてくれたのは名前だった。彼女の人柄に触れ、心を開いていくうちに、春風が流れ込むように温かい気持ちが広がっていった。そうして心の奥に心地よく埋め込まれてしまった気持ちには、説明などつけられないものなのだろう。
 

 彼女が将来をどう考えているのか。その答えを知ったのはつい先日のことだったように思う。

 大きな紙袋を抱えていつもよりめかし込んだ様子の彼女は、深夜といえる時間に帰って来た。

「どこか言ってたのか?」
「友達の結婚式だよ、三次会まで行ってたから疲れちゃった」

 ピアスを外してテーブルに置くと「つかれた―」と言いながらソファに腰かける。よほど疲れているのか、足を伸ばしてオレの方までだらりと寄りかかる。ゆるく巻かれた髪が首筋に触れる。彼女にしては珍しく、アルコールの匂いが微かにした。いつもより饒舌な彼女は久しく会っていなかった友人との会話を楽しそうな口振りで語っていた。結婚式の余興、二次会のビンゴ大会で当たった景品、三次会での友人へのサプライズ。笑顔を浮かべながら途切れることなく話し続ける彼女に、オレも自然と口元が緩む。

「ねぇ聞いてよカクちゃん。友達のドレス、すごい可愛かったの」

 そう言ってふにゃりと笑い、スマホの写真を差し出した。彼女の目はきらきらとしていてその姿に憧れがあるということは見てとれた。

「名前も、似合うん、だろうな」

 慣れないことを言おうとすると、どうも上手く口が回らない。台詞が上滑りしているようで無性に気恥ずかしくなった。

「うーん、どうかな?」

 スマホの画面を閉じながら笑ってる彼女からは遠慮や誤魔化の様なものを感じた。その表情になんともいえない後ろめたさが頭をもたげる。オレはそろそろ決心を固めるべきだと思い始めていた。

 
 迷いを滲ませた表情に、蘭は煙草を咥えながら、

「結婚適齢期の女そのまんまってのも結構やべぇぞー」

 と、もっともなことを言う。

「兄貴がそれ言うか?」
「オレは全員セフレだからいーの」
「それこそただのクズだろ」
「三途く〜ん、甲斐性ナシでこの前も女泣かせてたクセによく言うわ」
「アァ?なんで、テメーがンなこと知ってんだよ」

 一触即発の空気が漂う。こうなると収拾がつかないのはいつものことだった。オレは大きく咳ばらいをした。

「そろそろ、なんとかしようとは思ってはいる……」

 最後の方は尻すぼみになってしまった言葉に、蘭は小さく笑った。

「ま、オマエはさ、オレらの中で唯一まともなんだから早いとこ決めちまえば?結婚なんて深く考えた方が負けだろ。なるようになんじゃねぇの?」

 一度言葉を切ると、皺ひとつないスーツのポケットを漁りだす。

「そういや、この前オトクイサマにもらったけどいらねぇからやるよ」

 向かいの席から放られてきた飛来物を片手でキャッチする。くしゃくしゃのそれを広げると煌びやかな夜景を背景に客船が描かれている。

「クルーズチケットらしいぜ」

 手元の紙切れには、確かに賑やかな字でペアクルーズチケット御招待と書かれている。

「これでオトコみせろ〜?カクチョー」

 口の端を吊り上げて得意気な笑みを見せた。 助かる。と、端的に礼を言ってオレは静かに覚悟を決めた。

「カクチョ―の結婚に乾杯だな」
「モッチーそれまだ早いだろ。ま、オレらも応援してるから」

 竜胆の突っ込みとエールにオレは軽く笑みを返す。彼らの顔を見渡すと、大体が人の悪い笑みを浮かべているが心なしか勇気をもらえたような気がした。「乾杯」と静かに酒を飲み干す。背中を押してくれた彼らに感謝したい。
 辺りはチラチラと照明が灯り始め、淡い光源の中、桜がぼうっと薄暮に浮かび上がる。今年の誕生日は丁度、満開になるころだろうか。春を慶んで咲く桜のように、オレも彼女が喜び笑う顔がみたい。
 

 給料三ヶ月分。手の内にある小さな箱に目を落とす。彼女は喜んで受け取ってくれるのだろうか。名前はいつも何かを贈っても、そんな高いもの受け取れないよと目を細めながら答えるのだ。せっかくお前のために買った物だからと、渋々受け取らせても、たまに使っているようだが大抵部屋の隅に飾られる。金は気にするな。仕事をやめてもいい。そう言っても名前は首を縦に振らず満員電車に揺られながら日々労働に勤しんでいる。この時期は忙しいから残業かも。今朝も疲れたような顔で零していたから、今日も夜は遅いのだろう。
 プロポーズに付随して結婚、家族といった今迄ぼんやりとしていたものが急に輪郭を帯びてくる。名前との生活は毎日楽しいものだ。仕事で荒れたとしても、帰れる家があるだけで踏ん張れる。「カクちゃん、おかえり」と名前が出迎えてくれる。それだけでいい。貧乏で荒んだ暮らしを送ってきたからこそ、慎ましいながらも誰かと寄り添い、共にいれる生活が一番幸せであることをオレは知っているつもりだ。今となっては慎ましさと対極のような暮らしではあるが、彼女とならどんな生活であっても幸せな日々を過ごせる自信がある。
 大事に小箱をポケットにしまい込んだ。箱に収まる指輪を彼女に渡した時、どのような反応をしてくれるのか。名前のことだからきっと、面白い表情をみせてくれるに違いない。



 クルーズ船はまさしく豪華客船のような造りであった。クラシカルで気品のある船内を満たすようにジャズピアノの演奏が優雅に流れ、あちこちの卓に我々と同じようなカップルの姿が見える。

「ご飯美味しいね。こういう料理久しぶりかも」
「あぁ、美味いな」

 机の上に並べられたフレンチ料理は確かに美味い。けれども、彼女の作った料理の方が何倍も美味いと思った。同棲を始めた頃、彼女は料理は得意ではないと苦笑いしていた。無理しなくていい。そう言ったのに、「え〜、いいよ美味しくないかもだけど作らせて」と眉を下げて笑っていた。仕事で毎日疲れているだろうに、先に寝てろと言っても帰りの遅いオレを出迎えて温かいメシを食わせてくれる。一度、二度、大事な人を失ったオレも、今では一緒にメシを食べられる人がいる。またいつか、と描いていた温かい光景だ。それを叶えてくれる名前はオレにとって何より大切だった。
 食事も終盤になり、軽快な音楽と共にサプライズのケーキが運ばれてくる。「え、カクちゃんが用意してくれたの?」ありったけの喜びを表現したような表情の彼女に肯首する。今が想いを伝える好機に違いない、とばかりに左手でジャケットのポケットに忍ばせた硬い小箱を探り出す。

「じ、実は……」
「お写真お取りしましょうか?」

 ふいに横から聞こえてきた言葉に出鼻をくじかれる。少しだけ前のめりになっていた身体を元に戻し、ポケットに入れた手を再び外へ出す。曲がってもいないであろうネクタイを整えて無駄に居住まいを整える。「撮りますよー」店員の声に、名前は椅子ごとオレの横につく。ふわりと香水が香った。オレが、オレのために付けて欲しいとささやかな独占欲を秘めて渡した香りだった。その香りごと包み込むように華奢な肩をしっかりと抱く。名前は少しだけ驚いた表情でオレをみると、すぐさま気恥ずかしそうに視線をレンズへと戻した。


 船の甲板へ出ると、眩いばかりの夜景が広がっていた。暗い海にぽつんと浮かぶオレたちを幾千の光の粒が取り囲む。

「すごーい!東京湾の夜景ってこんなに綺麗なんだね〜」

 名前は弾むような足取りで看板の先に向かっていく。船首まで辿り着くと、くるりと振り向いた。長い髪を海風に靡かせながら悪戯っぽい笑みを湛えている。

「ねぇ、カクちゃん。タイタニックできるよ!」
「やらないからな」
「言うと思った」

 あからさまに不貞腐れたような顔で呟く。本人には言えやしないが、彼女が時折見せる子供っぽいところがオレは可愛いくて気に入っている。

「ほんとにさぁ、タイタニックみたいに沈没したらどうする?」

 突然の問いだった。よくわからないが、「オレが死んでも、何があっても名前を守る」とでも言えれば格好がつくのだろう。……やはり、こういうことを言うのは照れ臭い。

「名前だけでも助ける」

 結局かっこいいことは言えなかったが、偽りのない本心だった。

「えー! 自分だけ生き残るのなんてやだよ〜」

 名前はバシバシと遠慮なくオレの腕を叩いてくる。ついでにオレの筋肉を確かめるように触る癖があるところが面白い。こうして何てことない話を二人でしている時が、なによりも幸せに感じる。
 一生大事にする
 オレと結婚してくれ
 言うなら今なのだろうか。乾いた口を湿らすように唾を飲み込んだ瞬間、彼女が呟いた。

「死ぬ時はカクちゃんと一緒がいいな」

 思わず彼女を見やると曇りの無い目でオレを真っすぐに見つめている。至極物騒な物言いなのに、その裏にある愛情はしっかりと伝わった。

「沈没しても死んでも、今みたいにカクちゃんが側に居てくれたらそれでいいや」

 海がざわめく音、続けて耳に届く柔らかい声。馴染み切った彼女のそれは心地いい。
 誰よりも大切で、何よりも失いたくなくて、この先もずっと傍で笑っていて欲しい。「死ぬ時は一緒がいい」彼女からのプロポーズめいた言葉を反芻すると小さく笑いが込み上げる。名前となら深い絆で結ばれた家庭を築ける、そう思った。
 彼女の両肩にやんわりと触れ、距離を縮める。

「オレと一緒にこの先を生きてくれ。オレの、嫁になってほしい」

 見つめ合っている時間は数秒にも永遠にも感じられた。すると、名前は突然後退る。両手から遠ざかってしまった彼女は、目を見開き、口に両手を当てて本気で驚いている。まだ寒さの残る海上の風がそうさせているのはわからないが、少しだけ紅潮していた頬の色が更に増した。

「ええぇぇ?嘘でしょ?」
「オレが嘘をつくような男に見えるのか?」
「いや、見えないけど……あの、びっくりした」

 未だ動揺が残るのか、名前は挙動不審な動きをしながら目を瞬かせる。夜景を映しとって煌めく瞳には段々と水の膜が張る。

「カクちゃん……」
「返事が、欲しい」
「そ、そうだよね……」

 よろしくお願いします。その答えを最後まで待たず、彼女を思いきり抱き締めた。腕に収めた彼女は肩を震わせて泣いている。「カクちゃん、……カクちゃん」と涙声で縋りつくその背を宥めるように軽く叩く。

「名前、誕生日おめでとう」

 するりと頭を一撫でする。彼女はゆっくりと顔を上げ、綻ぶように笑った。
 結局、指輪も渡すタイミングを逃してしまったが、後で大切に左手の薬指にはめてやろうと思う。
 今はただ、抱き締めた愛しい温もりを飽きるまで感じていたい。この先も生涯をかけて守るから、美しい花はいつまでも枯れることなく、この腕の中で咲き続きてほしい。

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