ガチャリと浴室を開けると薄荷の甘く爽やかな香りが漂っていた。とっておきのバスボムを投げ入れたバスタブには星雲のような泡にキラキラが散って、万華鏡のように色彩が混ざり合っている。
もう冬も近い。服を脱げば鳥肌が立ち出すこの季節、一刻も早くこの贅沢なお風呂に身体を浸してぬくぬく極楽気分でも味わいたいのに、現実はそうもいかないのだ。
私は今、バスタオル一枚を纏い、片や春千夜くんはほぼ全裸で浴室の入り口に佇んでいる。下半身はフェイスタオルで見えない様になっているけれども私の目ん玉は上下左右を行き来して本当に目のやり場に困っていた。
「ねぇねぇ、春千夜くん……。やっぱりまた今度にしない?」
「名前さん、何でもしてくれるっていいましたよね?」
ニコリとそれはそれは綺麗な笑みを返されて、私は二の句を告げなくなる。いや、それはそうなんだけど……いっそここから逃げ出してしまいたい。とはいえ、こんなことになったのも全ては私が悪いのだから何も文句は言えやしない。
私が春千夜くんとの約束を破る、なんてうっかりをしなければよかっただけの話なのである。
『本当にごめんなさい』
『全然大丈夫ですよ。気にしないで下さい』
電話の向こうの春千夜くんはいつもと変わらぬ調子でそう告げる。それが殊更私の申し訳なさを助長した。その日の私は家族と土曜のショッピングモールを満喫し、明日のデート何着てこうかな!なんて気分よく洋服を物色していた。
そんな時に突然鳴り出した電話は春千夜くんからで、通話ボタンを押すと電話口の向こうから心配そうな声が聞こえてくる。
『名前さん、あとどれくらいかかりそうですか?何かに巻き込まれてませんか?』
『……?』
嫌な予感がして、慌てて鞄から取り出した手帳の今日の日付には”春千夜くんとデート!”と見事に書かれている。まずい!一日勘違いしてた!それからはもう顔面蒼白平謝り状態となった。
『ほんとにごめん……この埋め合わせは何でもするから』
『…………わかりました。でも本当に気にしないで下さいね』
わかりました。の前にたっぷりとあった間にほんの少しだけ違和感を感じたけれど、そんなことはすっかり頭の片隅に追いやられてしまった。それが、こんなことに繋がるとはその時思いもしなかったのだ。
「名前さん、何でもしてくれるっていいましたよね?」
もう一度、長い睫毛を瞬かせて上目遣いで私を見る春千代くん。春千夜くんの上目遣いに私は滅法弱い。そう確かにあの時、私は「何でもする」と言ったのだ。でもそれは純粋に申し訳なく思った気持ちからの発言で、こんな不純なことになるとは思っていなかったのだけれど。
「ハイ、イイマシタ」
「じゃぁ、一緒にお風呂入ってくれますよね?」
「……ハイ」
もう一度言う、私は春千夜くんの上目遣いに弱い。それとは別に春千夜くんから是が非でもはい。と言えという謎の圧を感じて了承以外の選択肢は消え去った。
数日間の旅行で家主たちが不在のこの家には春千夜くんと私しかいない。両親不在の間に勝手に彼氏を家に連れ込むだなんて多少の罪悪感もある。それでも彼氏との初めてのお泊りにドキドキとちょっとした後ろめたさを含んだ甘い高揚を感じて、私は大層浮かれていた。今日は春千夜くんとたくさん一緒にいられる。私のウキウキとした気持ちは最高潮だった。
家へ迎え入れ、ご飯を食べてゆっくりし始めたところでなぜだか『名前さんと一緒にお風呂に入りたいです』だなんて言い出して、流石にお断りしようとしたところでこの有様だ。お泊まりということで色々覚悟は決めていたつもりだったけれど、この展開は予想外である。
まだ身体の関係も一切ないのに明るい所で裸を見られるなんていろいろすっ飛ばしているんだけどな……ぽたりぽたりと天井から落ちてくる雫を見ながらこっそり溜息をついた。
全てを諦めて、春千夜くんに椅子に腰かけるよう促した。スポンジに水とボディーソープを含ませて春千夜くんの背中をするすると撫でていく。他人の背中を流すなんて友達ときゃーきゃー言いながらお風呂に入った修学旅行を思い出して懐かしい気持ちがよみがえる。
「気持ちいいですか?」
「はい、気持ちいいです」
心地よさそうで穏やかな声が聞こえてくると、この背中も流しがいがあるというものである。少し線は細いけれども、がっしりと広い肩幅はやっぱり男の子だと思い知らされる。指でなぞった肌は白くてつるつるで、私を含めてそこらの女の子よりよっぽど綺麗なんじゃないかと思う。シャワーで泡を流して、そのまま髪の毛を濡らす。スポンジを手渡して、身体の前面はさすがに自分で洗ってもらうことにした。
シャンプーを手に付けて春千夜くんの髪をわしゃわしゃと洗い出す。長くてさらさらの髪の毛は濡れた髪でももつれることなくつるつるだ。
「春千夜くん髪の毛ほんとに綺麗だけど何かしてるの?」
「特に何もしてないですよ。シャンプーとかもこだわりないですし」
「え〜、うらやましいなぁ。毎日トリートメントしてるのが馬鹿らしくなってくるよ」
シャンプーを流し、トリートメントを丁寧に馴染ませて手櫛を通しながら流していく。湯気に乗って春千夜くんからいつもの私と同じ香りがした。当たり前のことなのに何となくくすぐったく思って口元が緩んでしまう。
「はい、終わったよ」
口元を引き締め直して洗髪の終了を知らせると春千夜くんは振り返る。
「名前さん交代です」
「じ、自分で出来るから大丈夫。春千夜くん先にお風呂入ってなよ」
「……ダメです」
顔は笑っているのにものすごい圧を感じて私はそそくさと椅子に座り、無駄に背筋を伸ばした。背後に感じる春千代くんの気配に心臓が飛び出しそうになりがらも、巻いていたタオルから背中をさらけ出す。
「お湯、熱かったら言ってくださいね」
そうして指先が触れた瞬間、背中がわかりやすく跳ねてしまう。
――今日、この後そういうことするのかな、それともしないのかな。
彼氏とお泊まりといえば避けては通れないような事である。頭の中には邪な考えが次々と浮かんできて何ともいえない気持ちになった。
一度だけ、そういう雰囲気になったこともあった。一緒に学校の課題でもしようかと私の家に来たときだ。両親のいない家、二人きりの部屋。まぁ色々と条件は揃っている。
ひと段落して、麦茶を準備してお菓子をつまみながら少し休憩でもしようとなったときだった。結局対して進みもしない課題を放り投げるように春千代くんの隣で他愛もない話をして、ふと会話が途切れた。少しだけ視線を彷徨わせて、吸い寄せられるようにキスをする。唇が軽く触れて離れると、その後少しだけ気恥ずかしくて笑ってしまう。それがいつもの私たちだった。けれどその日はそれだけでは終わらなくて、段々と深くなるキスに慌てふためいているうちに気付いたら床に押し倒されていた。
春千夜くんとならいつかは、なんて私だってそう思ってた。けれど、いつもと違うギラギラした目と突然変わった雰囲気に今すぐ大人になる心の準備も整わなくて、やっぱり怖いと怯えの方が勝ってしまう。
「待って!せっ、せめて後もう少しだけ待ってほしい……」
私は堪らなくなって春千夜くんの身体を押し返す。震える私に気づいたのか、ゆっくりと身体をおこした春千代くんは申し訳なさそうに口を開く。
「すみません。オレ、焦っちゃって」
うぅ……春千夜くんごめん。少しだけしゅんとした春千夜くんに罪悪感がほんのちょっと顔を覗かせる。たった一つだけれど、どうやったって埋めることの出来ない年の差に春千夜くんが焦りを感じているのはなんとなく気付いてた。ドキドキと鳴る自分の心臓の音と、少しばかり早い蝉の鳴き声が今でも耳にこびりついている。
夏がもう直ぐそこまでやってきている、という頃の話だ。
それにしても私の身体の背面を手際よく洗っていく春千夜くんはびっくりするほどいつも通りで、不純な気持ちを抱いていたのは私だけだったのかもしれない。背中を滑るスポンジはふわふわで自分で洗うより何倍も気持ちがいい。
「他の人に背中洗ってもらうのって気持ちいいんだね」
「そうですね。オレもこういうの久しぶりです」
「え、他にそういう女の子が居たってこと?」
少しだけ刺々しい言い方になってしまったのは許してほしい。そりゃぁ春千夜くんはモテそうだから元カノの一人や二人いたかもしれないし……。ぐるぐると嫉妬心が渦を巻きそうになった瞬間、ふふっという笑い声が背後から聞こえてくる。
「違いますよ。兄の背中を流したことあるって話です。昔のことですけど」
「あ、そうだったんだ。なんか、ごめん……」
「ヤキモチ焼きました?」
「……焼きました」
素直に白状すると、後ろから顎を掬い取られて触れるだけのキスをされる。
「オレは名前さんにしか、こういうこともしないんで大丈夫です」
春千夜くんから向けられる視線は甘ったるくて、その目に見つめられると単純な私はすぐにきゅんとしてしまう。こんなことでヤキモチを焼いちゃうなんて馬鹿だなぁと自分でも思うけれど、春千夜くんは見た目も性格も百点満点なのだからどうしても心配になってしまうのだ。けれど、本当はそんな心配もいらないくらい春千代くんが私のことを大切にしてくれていることも知っている。
春千夜くんは私のことを本当に大事に扱ってくれていた。それはもう過保護なくらいに。20時前迄には絶対家に帰そうとするし、デートの帰りは必ず家まで送ってくれる。「もうちょっと一緒にいたいな」って家路に向かおうとする袖を引いたとしても「ご両親が心配しますから」なんて言われてしまうのだ。
そもそも、私たちが付き合うことになったのは二個上の幼馴染で家が隣のムーチョ君がきっかけだった。ムーチョ君の隣にいつも控える春千夜くんはさらさらの髪をなびかせ、綺麗で女の子みたいだなというのが最初の印象だった。
実際に話してみても物腰は柔らかいし東京卍会に所属しているなんて初めは信じられなかった。だから、お付き合いをするようになって、ムーチョ君に二人で報告したとき「名前さんのこと、ちゃんと大事にします」そう男らしく言ってくれたことに私は目を見開いてびっくりしたものだ。
そんな頃もあったなぁ。あの頃より少しだけ、春千夜くんの後ろ髪も伸びている。
二人で湯船につかるとお湯が滝のように勢いよく溢れていく。「名前さん、こっち」そう言って春千夜くんは私の身体を背後から抱き寄せる。往生際悪くバスタオルを身につけてはいるけれど、生身の箇所に直接伝わる肌の感触が生々しくて顔がみるみるうちに火照ってくる。春千夜くんは何とも思わないのかな…?少しだけ振り向いて春千夜くんの顔を覗き込む。
お化粧もしてないのに御人形みたいに長いまつ毛が水分を含んでつやつやと光っている。いつもマスクをしているけれど、こんなに綺麗な顔を隠して勿体無い……しげしげと見つめていると春千代くんは口元を手の甲で隠してしまった。
「名前さん、そんなにじろじろ見ないでください……」
「だってマスク外してるの貴重だし、綺麗なんだもん。春千夜くんの顔」
「名前さんの方がずっと綺麗だし可愛いです」
私はう゛っ と言葉を詰まらせた。恥ずかしげもなくそんな台詞を言われて、何て返したらいいのかわからない。なのに、顔は勝手に緩んでふにゃふにゃとしてしまう。お世辞だとはわかっているけれど、彼氏にそんなことを言われて喜ばない女の子は世界中探したっていないと思う。
「そんな顔されたら食べたくなっちゃいます」
「たた、食べ、たべる??」
春千夜くんの顔がみるみるうちに迫って、ぱくりと鼻先を噛まれる。パシャパシャとお湯を跳ねさせながら明らかに動揺した私を見てふふふっと声を漏らしている。
楽しげに笑っている春千夜くんはいちいち私の心を翻弄するのが本当に上手だと思う。
「ふーっ……」
段々と気が抜けてきた私は遠慮なく春千夜くんにもたれかかり、気の抜けたため息をこぼしていた。
「あーあ。もっと一緒にいれたら良いのになぁ」
あったかいお湯に心も緩んでついついいつもは言えないような言葉が口をついて出てしまう。
「オレも、名前さんともっと一緒にいたいです。早く大人になって名前さんのこと独り占めしたい」
「独り占めって結婚ってこと?」
「そうなればいいな……って。気が早いですね」
「ふふっ。私もそうなったら嬉しいなぁ。一緒に住むおうちはもっと広いバスタブでテレビもあったらいいなぁ。子供と一緒にお風呂に入って、広いベッドで川の字で寝たりしたいね」
なんて。こんな話はまだまだ夢想だなんてお互いわかってる。けれど、そんなあったらうれしい未来の話はとてもワクワクするし、今の私たちはこんな話ができるくらい仲良しなんだって実感できる。
「名前さんとの子供だったら絶対可愛いです」
その言葉に私はすっかり頭の外に追いやっていた今夜のことが思い浮かんで、一気に顔が熱くなる。
「名前さん」
優しい声のあと頬に唇がちゅっと触れた。触れられたところから春千夜くんの熱が広がっていく。
私たちはまだまだ子供だ。けれど、春千夜くんも同じ気持ちでいてくれることが嬉しくて私も頬に軽くキスを返す。春千夜くんは一瞬目を丸くしていたけれど、名前さん、ほんと可愛い。と嬉しそうに言うものだから私の体温はどんどん上昇してしまう。やさしい腕に包まれてどうしようもないくらい贅沢だ。こんなに大事にしてくれる春千夜くんにならもう、全てをあげてしまってもいいのかもしれない。
二人の間にはゆったりとした時間が流れていた。
他愛もない話をしながら春千夜くんが私を抱き込む手をやんわり握ってみる。傷一つない指は細長くて、丸い爪は綺麗に切り揃えられている。
ムーチョくんは「コイツ、ケンカ強いからなんかあったら守ってもらえよ」なんて物騒なアドバイスをくれたけれど、とてもケンカばかりしてるとは思えない綺麗な手だ。
「ねぇねぇ、暴走族って色々と大変なんじゃないの?殴り合ったり、上下関係とかいろいろ」
ムーチョくんも昔っから悪い人たちとつるんではいたけれど、私の前でそういう話はしないからかイマイチその辺の事情はわからない。春千夜くんも多分、意図的に私にはそういう話をしないようにしている。
「殴り合いもありますけど、大したことないですよ。それに隊長は良くしてくれるんで上下関係もあってないようなもんです」
「そっかぁ。ムーチョくん、信頼してる人には優しいもんね。でも春千夜くんってぱっと見女の子みたいだし、何かあったら大丈夫なのかなって心配だよ」
「オレのことは何も心配しなくて大丈夫です。名前さんに何かあってもオレ絶対守り切れる自信ありますから」
それに、と言葉を切った春千夜くんはゆっくりとお腹に回した腕に力を込める。
「名前さんのこと、この場で簡単に抱けるくらいにはオレもちゃんと男なんですよ」
「……え?」
ただならぬ空気を感じて振り向こうとするのに、そのままの姿勢でおしりに硬いものがぐりぐりと擦り付けられる。思わず身を縮こまらせると、耳元には熱のこもった吐息がかかって段々と追い詰められている気分になる。
「春、千夜……くん?」
ポカンと開けてしまった口にぬるりと何かが捩じ込まれる。数秒遅れてそれは春千夜くんの舌なのだと気がついた。
「ふっ、んっ……んん」
鼻から息が漏れて全てを余すことなく食べ尽くされる。どうしよう、こんなキスを私は知らない。ぴちゃぴちゃと鳴る音が浴室に反響してお風呂のせいなのか春千夜くんのせいなのか、のぼせ上がって頭がくらくらとしてくる。
「はるっ、ちよくん……息できないよ」
肩で息をしながら視界が滲んできた私は、春千夜くんの手を両手でぎゅっと握った。
「名前……」
いつもより低くて掠れた声が耳を伝った。後ろから首筋を舐められて、混乱と羞恥が頭を埋め尽くして肩を震わせる。素肌の上を滑り出した春千夜くんの手はもう遠慮をしないといいたげで、私はもうそれを止める術をもたなかった。つやつやのまつ毛奥、艶ののった綺麗な瞳がぎらりと光る。
「今日は何でもしてくれンだろ?今までお預けくわされた分、覚悟しろよ?」
ぴしり、と固まった私を嘲笑うようにあまりにも優しいキスが降ってくる。
あぁ、これが春千夜くんの本性なんだと、私はこの時初めて身をもって知ってしまったのだった。