フィルターを指で挟み少しだけ息を吸い込みながら火を点ける。
細くゆっくりと揺れながら昇っていく煙を目で辿りながら口からも煙を吐き出した。冬の空気は冷たい。肺の底が冷えるような感覚に身体が震えて頭もじんわりと血の気が引いたように冷たくなる。
 朝に吸う煙草は嫌いだ。酩酊したような頭でこれから始まる仕事を嫌でも思い浮かべてしまうし、退屈な一日が始まるからだ。
 会社近くの喫煙所は同じように周囲の会社から人が集まって、様々な会社の社員証を下げた人たちが密集していた。わけのわからない専門用語のような言葉を交えて談笑していたり、静かに携帯を覗き込んでいる人。そういった人たちを観察しながらぼんやりと煙草を吸うのが私の日課だった。
 最近は煙草を吸える場所が極端に少ない。私の会社でも嫌煙の波は流れてきていて、肩身の狭い思いをしながら収容所のように隔離されたこの屋外喫煙所で今日も煙草を吸うしかないのだ。

 私はいつものごとく、人間観察をしながら煙草を吹かしていると、見慣れない姿が目に入った。
 新入りがいる。私は隣にいる痩せた背の高い男の事をちらりと横目でみた。高そうなスーツを着こなして眉目秀麗という言葉がいかにも似合いそうな男。それでいて気怠そうな空気を纏いながら煙を吐き出す姿を見ると顔がいいな……まぁ、月並みな感想だがそう思った。日々観察をしながら様々な人に勝手に名前を付けていたので彼の事はイケメンさんとなんの捻りもない名前を付けることにした。


 今日も煙草を吸っていた。大体この時間、昼食の後は煙草が吸いたくなるので昼休憩が終わる頃の時間に喫煙所にやって来ている。高そうなスーツを着こなしているイケメンさんは今日も似たようなスリーピースのスーツを着ていて、同じように隣で煙草を吸っていた。昨日も思っていたが紫髪に黒のメッシュなんて一見おかしな髪型の筈なのにそう思わせないオーラがある。今まで見なかった人だから最近この近くの会社にでも転勤してきたのかな?見れば見るほど興味が沸いてきて、チラチラとみていたらバッチリ目があってしまい、私は何でもないように慌てて目を背けた。


 次の日も煙草を吸おうといつもの場所へやってきた。昼休みが終わろうとするその時間。隣にはまたイケメンさんがいた。今日は私の方が遅かったので別の場所で吸ってもよかったのだが、あいにく昼時で混んでいる喫煙所には彼の隣しか空いているスペースは無さそうだった。三日連続同じ時間に彼の隣に立っていると、ご近所さんのようなちょっとした親近感を勝手に抱いてしまう。
 スーツのポケットから煙草の箱を取り出して一本抜き取る。もう、後二本しかない。戻りがてらコンビニで買ってついでにコーヒーも買ってこよう。そう思いながらもう片方のポケットを探っていた。
 ……ライターが無い。
 煙草を握りしめたまま、記憶を今朝まで巻き戻す。あぁ、そうだ。朝リビングで吸ってそのまま机の上に置いてきたんだ……私はげんなりしながらもこのままここを立ち去るか、見ず知らずの人に火を借りるか少しだけ思い悩む。コンビニで煙草とコーヒーとライター買ってまた来ればいいか。そう思った時だった。

「火ィないの?」

 私は突然イケメンさんに声を掛けられ不自然なほど驚いてしまった。

「あ、ちょっと家に忘れてきたみたいで……」

 ぽそぽそと己の愚かな行いを吐き出しながらイケメンさんの顔を直視できずにそろそろと地面に視線を這わせる。

「これ、よかったらどーぞ」
「いいんですか?」

 顔を上げると煙草の煙を吐き出しながら、ジッポーを差し出した男が綺麗な笑みで微笑んでいた。……顔がいい。ジッポーを受け取りながらありがとうございます。と返すと続け様に「ん〜、でもその代わり」という声が降ってくる。

 その代わりってなんだ?たかだかライターの代わりに差し出せるものなんてないぞ?金か?金持ちそうなくせしてライター一回貸します代とかいうせせこましい事を言う男なのか?私は少しだけ身構えながら続く言葉を待ち受ける。

「連絡先、教えろよ」

 教えろよ。ってなんだ?普通人に物を頼む時は教えて下さいだろ、ととんでもなく自分本意そうな男だな思いながらも、私は目の前の男が見ず知らずの人間にわざわざ声を掛けライターを貸してくれるという神様ということを思い出し、わかりました。とおずおず携帯を開いて差し出した。

「名前は?」
「名前です」
「名前ね。よろしく」
「はぁ……」
 
 連絡先を交換し、携帯をポケットにねじ込んで煙草に火を灯す。ライターオイルのほんのりいい匂いが鼻腔をくすぐった。ジッポーなんて滅多に使わないけれど、久しぶりに使うそれは少し年季が入ってるようで洒落たものである。あまり手に馴染まないそれを少しだけ眺めてありがとうございました。と差し出した。
 しかしながら、そこに残されていたのは彼が最後に吐き出したと思われる煙だけで、既に人の姿は無く、文字どおり煙に巻かれたかのように居なくなってしまった。
 このライターどうすればいいんだろう。イケメンさんと名付けた彼はなんとも不思議な人だった。


『先程はありがとうございました。ライターいつお返しすればいいでしょうか?』
『明日の夜、19時に六本木で』

 返って来たメッセージに私は首を傾げていた。いやいや、喫煙所で返せば良く無いか?平々凡々な会社員の私に突然連絡先を聞いてきたりイケメンさんの行動は意味不明だった。まぁ何かしら彼なりの理由があるのだろう。明日本人から直接聞いてみればいい。私はイケメンさんと二人で会えるしラッキー位に思って、無理矢理納得することにした。


 翌日、彼は喫煙所には来なかった。私は一応持って来ていたジッポーを取り出して刻まれているranという英字を指でなぞった。らんという名前なのだろうか。会ったばかりで名前も知らないような男と会うなんて、降って湧いたような話に若干困惑しながらも言い知れない興味のようなものを彼に感じているのも事実だった。


 六本木の駅で合流した私たちは少しだけ歩いて地下に行く階段を降りた。着いた所はシガーバーで薄暗い店内にはジャズがかかり、レンガ造りの内装には年代物の海外のポスターが貼られている。奥には古い書物が並んだ棚、カウンターの奥には所狭しと並んだ酒瓶にブラウン管のテレビが置いてあり、レトロで洒落た雰囲気の店だった。
 彼はウイスキーを、私には飲みやすいカクテルを注文しカウンター席に腰かけた。

「これ、借りてたものです。どうもありがとうございました」

 私はジッポーを取り出し、軽く頭を下げて御礼を言った。彼は受け取ったジッポーの蓋を開いて流れるように葉巻を回転させながら炙りだす。私は手元を眺めながら初めて味わう少しだけ背伸びをしたようなこの空間に酔い始めていた。
 吸ってみれば?と手渡された葉巻を口に含んで息を吸い込んでみると、凄い量の濃い煙が肺に届いて呼吸が一気に苦しくなる。ゲホゲホと咳き込むそんな私を見て隣の男は腹を抱えて笑いながら、とんでもないことを言い出した。

「これ肺までいれないで口で吸うやつだから」
「そういうことは先に言ってください!!」
 
 ひたすら咳き込んで涙目になりながらジロリと睨みつけると、彼は愉快そうに口の端を吊り上げて目を細めながらも背中をさすってくる。本当にこの人は何がしたいんだ。



「こういうお店よく来るんですか?」
 
 落ち着きを取り戻した私は素性の知れない彼に当たり障りのない質問をした。

「一人になりたい時はよくココ使うかな」
「そんな所に私なんか呼んでいいんですか?」
「んー?べつにいいんじゃねぇの?」

 アンティークのアルコールランプの火がゆらりと揺れている。オレンジ色の灯に静かに照らされる男は長いまつ毛が白い頬に影を落としとても絵になっている。どこか掴みどころがないけれど人を魅了する魔性のようなものを感じ取っていた。
 彼は自分の名前を灰谷蘭だと名乗った。最近喫煙所の近くの会社に用事があってちょくちょく来るようになったこと、詳細は教えてはくれなかったが堅気ではない仕事をしていることまで教えてくれた。
 しばらく葉巻とお酒を楽しんでいるとブラウン管のテレビでは昔の白黒映画が流れていて、丁度女優と男優がキスをしていた。私は形のいい薄い唇で葉巻を咥える蘭さんの横顔を見ていてその唇でどんなキスをしてどんな風に愛の言葉を囁くんだろうと妙な想像をしてしまった。

「蘭さんって彼女いないんですか?」
「知りたい?」
「知りたいか知りたくないかで言えば知りたいですけど、別に言いたくないならいいです。でも、蘭さんが好きになるタイプってどんな女性なのかは気になります」
「じゃぁさ、名前はどんなのがタイプ?」

 あらためて問われると困ってしまう。今まで付き合ってきた男を思い浮かべるとそこそこ背が高くて、どこか余裕が合って少しだけ意地悪な人……そこまで考えてこれって蘭さんに思いっきり当てはまるじゃん。そう思ってしまったけれど、そういう男達と付き合って大体碌でもない目にあってきた。歳を重ねていつまでも地に足のつかない恋愛をしていてもしょうがないとわかっているから自分の理想像はそろそろ修正しないといけないと思う。

「誠実そうな人ですかね……」
「つまんねぇな」
「つまんないって言われても……。蘭さんもちゃんと答えて下さいよ」
「あんま考えたこと無いから特にねぇな。強いて言えば好きな女には煙草は吸って欲しくないな」

 自分は煙草吸うくせに。それに、お前はそういう対象じゃないとストレートに言われた気分だった。別に自分に関係があるわけでもなんでもないのに何だか少し癪に障った。それでも一緒に飲みに行くってことはいい暇つぶしの相手位にはなりそうだと思ってくれているということなのだろうか。変わらない表情でウイスキーを煽る蘭さんになんともいえずもやもやした感情が募った。



 天気予報では午後から雪が降ると言っていた。重苦しい雲が空を覆っていたけれど、今日は蘭さんが来ているからか少しだけ良い気分だった。彼は喫煙所に来たり、来なかったりで私はいつしか蘭さんの訪れを気にするようになっていた。
 彼は自分の煙草が吸い終わっても私が吸い終わるまで傍に居てくれることが多くなった。話し相手になってもらえるのも嬉しいけれど、忙しいであろう彼に長居をさせるのは申し訳なくなる。「忙しいと思うので先行ってもらって大丈夫ですよ?」と言うと「俺は名前に会いにきてるから」とさも当然のように返される。私は「なんか、すいません」と返すのが精一杯だった。この男は人を惑乱させるのが上手いと思う。会うたびに心が乱されていって蟻地獄に放り込まれた蟻のようにどんどん深みにハマっていってしまうのだ。


 あの日以来、何度もバーで飲んだり、喫煙所で話しているうちに彼とも大分打ち解けてきていた。家に珍しい葉巻があるからと蘭さんに誘われて初めて自宅に招かれた。超がつくほど豪華なタワーマンションに戦々恐々としながらも足を踏み入れ、リビングのソファで高そうなワインにオードブル、珍しい葉巻でおもてなしを受けていた。

「なんか高そうな葉巻ですね」
「味はそれなりなんだけどな」

 そういうと炙られた葉巻が私の口に突然突っ込まれ、火を付けられる。
 ゆっくり息を吸い込んで口内に広がる香味を味わいながら煙を溜めて吐き出した。

「あ、味わったことないような味がして美味しいかも……です」

 隣でその様子をじっと観ていた蘭さんは突然「やっぱやめろよ」と、私に吸わせた葉巻を取り上げるとぱくりと咥えて吸い出してしまった。今しがた私の唇に触れていたものが蘭さんの唇に触れていると思うと意識してしまって少しだけ顔が熱くなる。

「あの、私に葉巻すすめといて意味わかんないんですけど」
「名前のこと呼ぶ口実つくるためってわかんねぇ?」

 これはもしかして口説かれているのだろうか?それでも私は出会った時から意地悪でからかってくるような人の言葉をはい、そうですかと真に受けることがどうにもできなかった。
 私は返事をしないで自分の煙草の箱に手を伸ばす。

「だからやめろって」
「無理なものは無理です」

 それはどういう意味にとられたかはわからないけれど、それっきり何事もなかったのようにいつも通りお酒を飲んで話しながら二人きりの時間を過ごした。



 あれから、喫煙所で会うことも、しばらく連絡をとることも無くなってしまった。私の隣にぽっかりと空いたスペースに寂しさを感じながら蘭さんの顔を思い浮かべると、あの日のことが甦る。
 葉巻を勧めてきたと思ったらやめろといったり彼の考えていることがわからない。明確な言葉こそ無かったけれど。あそこで私が彼に応えていたら、もしかしたら、なんて続きがあったのだろうか。終いには私に会いに来ていると言っておきながら連絡が途絶えたり心が揺さぶられてしょうがない。
 私は少しだけ後悔し始めていた。そして今更気付いてしまった。なんだ、私蘭さんのこと好きなんじゃん。
 好きなタイプが誠実な男は今日限り、一ヶ月の命で終了した。やっぱり私が好きなのはそこそこ背が高くて、どこか余裕が合って少しだけ意地悪な人みたいだ。
 忙しいかと思い少し気が引けたものの、私は初めて自分から蘭さんに連絡をとって週末にまた彼の自宅で会う約束を取り付けた。「名前から連絡くるの待ってた」本当か嘘かわからないけれどそんな返事だった。



「俺と会えなくて寂しくなった?」

 ニヤニヤとソファに座り込む私の顔を伺いながら聞いてくる蘭さんは心底意地悪だと思う。残念ながら私は素直にはい、そうです。なんて言えないたちなのだ。

「悪いことしすぎてこの世から居なくなっちゃったのかと思って心配したんです」

 そんな可愛くない事を言いながら、今まさに煙草に手を伸ばしたときだった。

「名前さぁ、もういい加減煙草やめろよ」
「久しぶりに会ったと思ったらまたそれですか?嫌ですよ。唯一のストレス解消なんですから。それに口寂しくなるし」
「そういう時は俺のこと呼べばいいじゃん?」

 するすると手の形を確かめるように蘭さんの左手が私の右手を絡めとる。人差し指を弄ぶように絡ませるその動きがなんだか艶めかしくて手に変な汗がじわりと滲む。
 
「どういうことですか?」
「わかってんだろ?」

 薄っすら目を細めながら喉の奥でクッと笑うと、突然顔を寄せられてキスされた。固まる私をよそに蘭さんは耳元に唇を近づけて囁いた。

「言っただろ?好きな女には煙草吸って欲しくないって」


 
 ゆっくりと身を起こして、まだ隣で眠る彼の寝顔を眺める。昨夜、散々見せつけられた妖艶な表情など嘘のように少しだけあどけない寝顔だった。乱れた前髪を指で掬っていつものように撫でつけてやる。皺になったシーツを少しだけ伸ばして、私はベランダへ足を向けた。

 結局、私は煙草をやめられそうに無い。
 いくら蘭さんの頼みとはいえ社会のストレスと戦うための唯一の嗜好品を無くすことは難しい。
 朝の冷たい空気に身震いを一つして、思いっきり両腕を伸ばす。高層マンションの上層階は空が近くて空気が美味しい気さえしてくる。
 ガラッとガラス戸が開く音がして振り返ると、蘭さんが首を鳴らしながら歩いてくるところだった。

「おはようございます」
「おはよ」

 そう言いながらやんわりと肩を抱かれ、おでこに軽くキスをされる。関係性が変わった私たちにはなんて事ないはずなのに急に蘭さんと付き合った、という実感が湧いてきて心臓が変な鼓動を刻み始める。
 蘭さんはベランダの手すりに肘をつけながらゆっくりと煙草を吸い出した。
 私も手すりに身体を預けながら煙草に火をつける。朝に吸う煙草は嫌いだったけれども、夜を共に過ごした好きな人の隣で吸う煙草は格別な気さえしてくるから不思議である。そして、隣で煙を燻らせる蘭さんはやっぱり顔がいいなと思う。
 そんなことをぼんやり思っていると、横から突然伸ばされた手によって煙草が取り上げられてしまった。

「ちょっとなにするんですか?」
「だからやめろって言ってんだろ?」
「無理無理、絶対無理!」
「その分、蘭ちゃんがちゅーしてやるからな」
「もう、そういうのいらないって言って」

 その続きは彼の唇によって声にならなかった。唇をゆっくり食まれて苦味が残るであろう舌を丁寧に舐めとられる。執拗で甘いキスは昨日の夜を思い出させるようで腰の辺りがじわりと疼いてしまう。

「朝からしつこいですっ」

 私は抗議の声を上げて取り上げられた煙草を取り返そうと躍起になったけれど、蘭さんの身長に手が届くはずもなく虚しくそれは灰皿へと揉み消されてしまった。

「お前一日何本吸うの?」
「え?最低十本くらいですかね?」
「じゃぁ、あと十回キスしてやるよ」

 恨みがましく蘭さんのことを睨んでみたけれどそれも悪くないなと思ってしまう自分もいる。私が煙草をやめられるのはそう遠くない日かもしれない。

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