夜が明けていない薄暗い空、僕らが見下ろす街もまだ静かに眠っている。深い夜と明ける時刻のその間、ひっそりとした空気を吸い込んで吐いて彼はへらりとした笑みを浮かべた。人を罵り、欺き、惑わすことを生きがいとしていた彼特有のニタニタとした笑みを見慣れていた僕には、彼のその情けない笑みに気味が悪くなって、そしてほんの少しだけ心に痛みが走った感じがした。そんな風に彼が笑うとは思っていなかった(勿論そんなこと僕の勝手な思い違いだったわけだけど)からか、そんな風に彼が笑うわけを僕は知っていたからか、心臓がまるでぎゅっと萎んでしまったかのような小さな痛みに、僕は彼の隣にいることが辛くなってしまう。
 そんな僕に気付きもせずに、そのへらりとした笑みから彼はまた言葉を紡ぐ。

「帝人君は、心はどこにあるか知ってる?心でも思いでも思考でも何でもいいんだけど、まとめて精神と呼ばれるものが一体身体のどの部位にあると思う?」

 今度は一体どんな話をするつもりなのか、心中を察するために横目に彼の表情を盗み見してみるがやはりさっきと変わらない顔をしている。
 へらり、へらり。嗚呼、なんて似合わない顔をしているんだろう。

「……頭、じゃないですか?」
「やっぱりそう思うよねぇ。俺も少し前までは同じように思っていたよ。」
「前までは?」
「そう、前までは。」

 君はこんな話を知っているかい、と彼は言った。それは、僕がこの世界に生まれてくる前の外国でおきた昔話である。
 アメリカのサウスカロライナ州に住む男がある日、拳銃をつかい自宅にて自殺を図った。弾は彼の頭を撃ち抜き、そのまま男は死亡。警察は現場の状況からして自殺だと断定し、事件には発展しないまま、彼の死は多くの悲しみを残して静かに葬られた。
 生前ドナー登録をしていた彼の心臓は同じ国内に住む男性へと移植されたが、その12年後、この男性も拳銃をつかい自宅にて自殺したという。心臓移植を行った男性に自殺の動機などは見あたらず、謎は謎のままこの男性もまた単なる拳銃自殺として片づけられた。
 しかしその後、一部のメディアなどでこのことが報じられ、それがきっかけとなりとある噂が広がった。それは「心臓の持ち主であった男性の『自殺をした』という記憶が心臓移植とともに後の男性へと転移し、彼を自殺へと追いやったのではないか」という、なんとも不可思議な噂である。このことに対し医学関係者たちは皆口を揃えて「記憶や精神というものを司る器官は脳であって、心臓が記憶を記録するなどありえない」と言い、不可思議な噂を「非現実的だ」と笑った。
 考え、思い、記憶は頭の中へと保存され、そして行動や感情を操るのは脳である。それは当たり前のように知られている常識であり、そして同時に事実であった。医学関係者たちが言ったことは確かに道理にかなったことであったが、ではアメリカでの不可思議な事件は何故おこってしまったのか。その真相を知るものは誰もいないのである。たとえそれが事件の当事者であっても、もしかしたら分からないのかもしれない。

「ねぇ、帝人君。」
「はい。」
「俺はこの話を初めて聞いた時ね、それでも心は頭にあるという考えは一ミリも揺らがなかったんだよ。俺は不思議なことは大好きだけど、非現実的なことは信じないようにしているからね。」
「そう、なんですか。」

 でもね、でもね。
 ふふっという笑い声に気がついて、耳を擽るようなその声にゾワリと鳥肌が立ちそうで、たぶんわざとやっているんだろうなと隣の彼が憎たらしく思えた。まるで耳を犯されたようなような気分はとてもじゃないけど不愉快で、彼の隣にいるのが辛いと思っていたさっきとは違う意味で逃げ出してしまいそうになった。
 熱を宿した甘い声に、毒のようなその声に、どうしようもなく僕が弱いことに、ずいぶん前から彼は気付いているはずなのにそれを悪用するだなんて悪魔みたいな人だ。そうやって人を魅了して、自分の内へと引きずり込んで、でもあなたがそうするのは決して僕だけではないのでしょう?そう聞いたら彼は、なんて答えるのだろうか。

「でもね……ちょっと、ねぇ、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてますよ。なんですか?」
「でもね、この頃その考えが変わってね、もし記憶や気持ちが心臓に記録されるのであれば、それはそれでロマンチックでいいなと思って。」
「ロマンチックなんかで自分が今まで信じていたものを覆すんですか。臨也さんってそんなに単純な人でしたっけ。」
「あはっ。柔軟性に富んだ思考になったといって欲しいけど、まぁでも普通はそう思うよねぇ。」

 なんて扱いにくい人なんだろう。扱いにくい、分かりづらい、読めない人。さっきからべらべらと言葉を羅列して、一体全体何が言いたいというのだ。もしかしたらそれもわざとしているのか。僕は本当にこの人のこういうところが苦手だと思う。

「何が言いたいんですか。」
「何が?何が?何、うーん、そうだねぇ。」
「……。」
「君を想って痛むのは、この頭ではなく心臓だってこと。」


 夜が明けていない薄暗い空、僕らが見下ろす街もまだ静かに眠っている。深い夜と明ける時刻のその間、ひっそりとした空気を吸い込んで吐いて彼はへらりとした笑みを浮かべた。


(僕を愛せば、良かったのだ。)
(そうすれば心の場所など知らずに済んだのに。)

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