ようこそ猫の事務所へ

「猫の事務所?」
「きっと夢のこと助けてくれると思うの。」

にこにこと可愛らしい笑みを浮かべるハルちゃんに、私は頭の中も春爛漫なの?と言ってしまいそうになる口をぎゅっと結んで、そのまま言葉を飲み込んだ。だって何だ、猫の事務所って、それに猫が助けてくれるなんて…そんな、

「夢、私のこと信じてないでしょ?」

そんな私の心情はお見通しだったのか、ハルちゃんは頬を膨らませて、もう!と怒っている

「だって、信じられないよ。いくら何でも猫が助けてくれるなんて…。」
「だけど、本当なの!それに夢の今、抱えている問題、助けられるのはきっと彼らしかいないよ?」

そうして今度は眉を下げて心配そうな表情を浮かべるハルちゃんに、私は思案の表情を作って肩を落とした

ハルちゃんも言っている通り、私には今どうしようもない問題が1つあった。それは1週間前からのこと、私は何故かある1匹の猫にずっと監視されているのだ。始めは偶然だろうと思った、だけど家を出た時、教室から窓の外を覗いた時、帰り道に後ろを振り返った時、部屋のカーテンを開けた時。必ずと言って良い程、茶色い猫がそこにいてずっと、私の方を見ているのだ。それから気にしてみれば、いつも何処かから誰かに見られている様なそんな視線を感じる様になった。それに気づいてしまえば、例え猫でも見られているというストレスを感じる様になって、私は気の休まらない日々を1週間ずっと送っていた

「だけどまさか、猫にストーカーされるなんてねぇ。」
「ストーカーって…。」

猫がそんなことをするのだろうか。そんな人間みたいな、って、ましてや私は猫じゃなくて人間なのに…

「とりあえず今日、その猫の事務所に行ってみよう!」
「え、ほ、本当に行くの!?」
「当たり前!例え猫だって、何かあってからじゃ遅いんだからね!」

鬼気迫る表情で私の肩を前後にゆさゆさと揺らすハルちゃんの迫力に、私はひぃ、なんていう情けない声をあげながらもただ黙って頷くしかなかったのだ




「本当に此処にいるの?その、…ブタさんだっけ?」
「違う違う、ムタさん!因みにムタさんの前で、ブタさんなんて言っちゃダメだからね、怒られるよ。」

そう言って今、私たちが歩いている場所は学校から少し離れた場所にある十字街。いくつもあるテーブルと傘が並ぶその場所へと来れば、ハルちゃんは1つの傘の下でその歩みを止めて、サッと膝を折って腰を屈めた

「ムタさん、久しぶり。今日はまた助けて欲しいことがあって来たの。」

口の横に手を当てて、こそこそと椅子に向かって話すハルちゃんに、私はコテリと首を傾げた。そしてそのままハルちゃんの後ろから、椅子の上を窺えば、そこには小さな子供くらいの大きさがあるだろうか、大きな大きな白い猫がぐでーんと何とも気持ちよさそうに椅子を占領していた

「彼女、夢って言うんだけどね、猫にストーカーされてるみたいで、ムタさんたちに助けてもらいたいの。お願い!」

パン!と手を合わせてお願いするハルちゃんに、私も慌てて彼女の隣に腰を屈めて手を合わせた

「えっと、ムタさん!私からもお願いします。本当に今、困ってて、助けて欲しいんです、お願いします!」
「ムタさんんん!」

きっと傍から見れば凄く奇妙な光景なのだろう。椅子でまったり安らいでいる猫に向かって、2人必死に手を合わせる女子高生なんて。だけど今の私にはそんなこと関係なかった。いくら猫だからと言っても四六時中、観察されていては気が休まらないのだ。お願い、ムタさん助けてぇぇ!必死に手を合わせてお願いすれば、ムタさんはしかめっ面のその顔をチラリと此方に向けて、はぁ、と1つ溜息を吐いた

「ついて来な。」

ぴょんと、椅子から飛び降りてのそりと離れていくムタさんに、私は茫然と突っ立ったまま、「え、え、。」と困惑の声をあげた

「…え、ほ、本当にしゃべ、…喋った。え、」

目をパチクリさせてオロオロする私に、ハルちゃんは至極当然の様に、ほら行くよ!と私の背中をバンっと叩いた。って、痛いよハルちゃん!そう抗議の声をあげようとするも、いつの間にか駆け出して行ってしまったハルちゃんの背中は、とても小さくなっていた



「ちょっと、ムタさん!もう少し優しい道、通ってよ!」

スタコラと大きな身体とは裏腹に、猫らしい身のこなしを見せるムタさんに、ハルちゃんは非難の声をあげるが、ムタさんは「煩ぇ、黙ってついて来い。」と何とも男前な発言をしながら、先へ先へと進んでいってしまう。どうせなら、発言だけじゃなくて、態度も男らしかったら良かったのに!と、私は普段、通ることはないだろう道を駆け足でついていった。本当、まさか屋根から屋根へと飛び移り日が来ようとは、私は鞄を落とさない様にギュっと抱えて、思いっきり屋根の淵を蹴り上げた

「夢、頑張ろう。多分、もうつくからさ。」
「え、本当?」

先を行くハルちゃんが、楽しそうに口元に笑みを浮かべた。私たちが今、走っている場所は住宅街の屋根なんかじゃなくて、どこか清潔感の漂う路地裏の様な場所。石畳の地面を蹴り上げながら進んで行けば、遂にムタさんは路地の角を曲がって見えなくなってしまった。その後を追うようにして、更に足を動かして角を曲がれば、こんな場所が一体、何処にあったのだろうか。綺麗な建物に囲まれたその先には、立派なアーチと可愛らしい街並みが広がっている。まさか、この先に猫の事務所があるのだろうか…。歩みを止めて、街並みを見つめる私と裏腹に、先を行っていたムタさんはアーチを潜り、のそりと身体を起こして四足歩行から二足歩行へと歩き方を変えた。何だ、猫って二足歩行だったんだ。てくてくと歩いて行くムタさんを見つめて、私はふーんと相槌を打った。…って、

「ムタさんが立ったァァァッ!」
「私も初めて見た時はびっくりしたよ、猫が二足歩行だったなんてね。」

え、嘘!猫って二足歩行なの!?私たちなんてお構いなしに歩いていくムタさんと、ニコニコと笑みを浮かべるハルちゃんを交互に見て、私はあまりの衝撃事実にハルちゃんの肩を思いっきり前後に揺すった

「ちょ、夢っ、落ち着い、て!」
「だ、だって本当に猫が喋って二足歩行で歩いて、街があって、も、もう、だって!」
「あああ、大丈夫だから、ほら!早く行かないと!、猫のストーカー、どうにかして、もらうんでしょ!」

そうだった。私は揺すっていたハルちゃんの肩からパッと手を離して、いつの間にか落としていたのか。落ちていた鞄を拾ってギュッと握った。そして大きく大きく深呼吸

「よ、よし。ハルちゃん行こう。」
「そんなに身構えなくても大丈夫だって。皆、良い人たちばかりだから。」

クスクスと笑うハルちゃんに私は、人じゃないよ猫だよっとツッコミを入れるべきか迷って結局、そうだねと頷いた。それから、ハルちゃんに手を引かれるままアーチを潜れば、ミニチュアサイズの可愛らしい街が広がっていて。そのまま感想を零せば、ハルちゃんも可愛いよねって同意してくれた

「此処が、猫の事務所だよ。」

私の手を引いてハルちゃんは、一軒の可愛らしい建物の前に案内してくれた。その扉横では、ムタさんが椅子に座って新聞を読んでいる。【ツチノコ発見は またしてもガセだった!】と、デカデカと書かれた見出しに、その内容が気になってしまうとこ。…と言うか、猫って新聞も読むんだ…

「わぁ、…凄く綺麗な猫だ。」

ムタさんからパッと視線を移して、窓の中を覗き込んだ時だった。窓辺に佇む、タキシードを身に纏った小さな猫の置物。透き通る、宝石の様な輝きを持った、琥珀色の瞳がキラキラと日の光に反射して輝いている。吸い込まれそうな瞳。置物の筈なのに、今にも動き出しそうな生命力を感じる。気品があって、不思議な魅力を持ったその置物を、私はただじっと見つめていた

「夢、あまり見つめちゃダメだよ。」
「……え、どうして?」

私の肩に手を沿えてハルちゃんが、困ったように笑みを向けた。それに不思議そうに問い返せば、ムタさんが呆れた様に「おい。いい加減、趣味が悪いぜバロン。」と新聞を畳みながら息を吐いた。バロン?初めて聞くその名前に、私は一体、誰のことなんだろうと首を傾げたその時だった。ゴーン、ゴーン、という大きな鐘の音が街全体に響き渡り、私は驚いてびくりと肩を揺らした。尚もなり続ける鐘の音に促されるかの様に日はどんどん沈んでいき、次第に闇が襲ってきた。だけど、最後の抵抗の様に沈んでいく日は強くその光を発し、街全体をその橙色の日の光で包み込んでしまった。それは、眩しさに目をあけていられない程。私は辛うじて薄く目を開きながら、街を見渡した。キラキラ輝く光が街を照らしている、その真中に聳え立つ小さな塔までをも光が包み込んだ時だった。塔の天辺に立つガーゴイルの像が、パキパキとひび割れ始めたのだ。え、と思った瞬間には石像の岩は全て剥がれ落ち、そこには岩で出来た像なんかじゃない、1匹のカラスがその羽根をぶるりと震わせていた

「トトさん、久しぶり。」
「ハルじゃないか。そちらさんは?」
「…あ、えっと夢です。初めまして。」

驚きに口をぽかーんと開けながらも、私は何とか反応して自分の名前を口から搾りだした。いつの間にか日はとっぷりと沈んでいて、空には満点の星がキラキラと散らばっている

「夢…か、良い名前だな。」

突如耳に飛び込んできたその声に私はピクリと肩を揺らした。耳に馴染む低い声、初めて聞く心地よいその音に私は、一体誰なのだろうと後ろを振り返った

「ようこそ、猫の事務所へ。私はバロン、此処の所長をしている。」
「………置物じゃ、……なかった。」
「少々、からかいすぎてしまったみたいだね。私は置物じゃなく正真正銘、猫だよ。」

そう不意に零れ落ちた言葉に、彼はくすりと笑みを浮かべた。だって、まさか、置物じゃなくて本当に、猫だったなんて。もう私の頭は容量オーバーになってしまったらしい。今日は驚くことが多すぎて、もう何が何なのか分からない。だけどそれを当たり前の様に受け入れているハルちゃんは、にこやかにバロンと挨拶を交わしていた

「さぁ、こんな所で立ち話も何だ。中に入って紅茶でもいかがかな?」

さり気なく私の手を取りながら、家の中へと促すその彼の手を優しく握り返して、私は小さくお邪魔します、と言葉にした


ようこそ猫の事務所へ
(その暖かい手に何だか心が落ち着いた)
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