もし貴方が覚えてくれているのなら
ピリと頬を走る激痛に、私の視界は一瞬ぐらりと揺れた。こんな所でバランスを崩したら堪ったもんじゃないぞ。私は予定を変更して、次に射出する予定だった木とは別の木の幹へとアンカーを射出し、くるりと一回転した後にその太い枝へと着地した。ブレードを握ったままの手で右頬を拭えば、思った通りにそこにはべったりと赤い血が付着している。どうやら立体機動の最中に、木の枝で頬を切りつけてしまった様だ。これはドジったな。案外、切れた傷は深い様でダラダラと溢れ出る血のお蔭で、自らが着用していた調査兵団のジャケットは、だんだんと赤へと染まっていく

「夢!大丈夫!?」
「あ、ぺトラさん。」

ポケットから出した布で、とりあえずの止血をしようと頬をぐっと抑えていれば、タイミング良くぺトラさんがひらりと向いの木の枝へと着地した。ぺトラさんは私のべったりと赤く染まっている布をぎょっとした目で見ては、さっと顔色を悪くてして慌てた様に声をあげた

「とりあえず夢は訓練中止!すぐに止血剤と医療具を持ってくるから此処で待ってるのよ!?」
「わ、分かりました。ありがとうございます、ぺトラさん。」

そう言うや否や、ぺトラさんはサッと来た道を辿る様に木から木へと立体機動装置を使って戻っていった。あぁ、何だか申し訳ないな。私はぺトラさんの姿を見送ってそのままよいしょ、と枝の上に腰を下ろした。ぶらぶらと空中に投げ出された足を前後に揺らしていれば、もうお昼時だろうか。日がすっかりと高い位置へと移動していることに気が付いた。確か今回で私のループも121回目、その13日目。13日目と言えば、この壁内に巨人が出現する日なのに。こんな日に限って、私は何をこんな訓練生でもしない様なミスをしているのか…。私が、はぁと溜息を吐いては自己嫌悪に陥っていると、不意に空気が揺れた気がした。ぺトラさんが戻ってきてくれたのだろうか、トンと背後の木に誰かが降り立ったのに気が付いて私は首だけをくるりと後ろへ回した。ぺトラさん、そう開きかけた口をぎゅっと結んで、私は後ろに立っていた予想外の人物に驚いて、慌てて立ち上がった

「へ、兵長!」

ひぃ!と声をあげそうになるのをぐっと飲み込んで、私は左胸に手を当てビシっと敬礼した。そのせいで止血は出来なくなってしまったけど、どうせ血を吸い過ぎた布じゃ意味が無いからこの際どうでもいいぞ。恐る恐ると兵長の顔を窺えば、相変わらずらずの仏頂面で此方を見る彼の目には、幾分かの怒気が込められている気がした。え、怒っていらっしゃる!?私はじりっと後ろへ後ずさりたい気持を抑えて、恐る恐ると口を開いた

「あ、あの。兵長、どうして此方に…
「これで止血しろ。」

見事に言葉を遮って、ぽいと此方へと投げて寄越されたそれを私は慌ててキャッチした。既に私の血で汚れてしまったそれを見れば、それは真新しい布だった。兵長、パッと顔を上げて彼を見れば「使え。」と目で即されてしまった。何だか申し訳ないけど、私は兵長の好意に甘えて、それを頬へと押さえつけることにした。正直、いつも怒られている分、こういう気遣いをされてしまうとまた別の意味で怖くなってくる。どうしたら良いか分からずに、キョロキョロと辺りを彷徨わしていた視線をそっと兵長へと向ければ、見事に兵長の視線とぶつかってしまう。視線を外す暇もなく、兵長は「おい。」と短く呼びかけた

「その頬どうした。」

きたー!そうだよね、これだけ血塗れてるんだからそれは聞くよね!私は内心、怒られるんだろうなとビクビクしながら、立体機動訓練の最中に木の枝で切ってしまったことをボソボソと説明した。思った通り、兵長はドスの利かせた声で「あぁ!?」なんてその眼光を更に鋭くさせている。殺される!素直にそう直感した。あながちそれは間違っていなかった様で、兵長は自分の立っている枝をタンっと蹴っては、見事に私のいる場所へと着地する。それに私はぎょっとして木の幹へと抱きついた

「っちょ、兵長!枝!流石に2人は、折れちゃいますって!」
「こんだけ太けりゃ、折れねぇだろ。」
「だ、だからっていだっ!!」

そんなの分かんないじゃないですか!そう続けようとした言葉は、額への鈍い鈍痛に遮られた。痛い!止血している手とは反対の左手で、バッと額を抑えればじんじんと熱も持っていくのが皮膚を通して感じられた。あまりの痛さに、ギっと目の前にしれっとした顔で立つ彼を涙目のまま見れば、兵長はでこピンをしてきた手で今度は私の鼻をぎゅっと摘まんできた

「ふぎゃ!べいちょう゛!な゛にずるんでずがー!」
「罰だ。」

兵長はそう言いながら、うーうー唸る私の鼻を最後にもう一度ぎゅっと摘まんでは、思いのほか早く手を離してくれた。ヒリヒリする鼻に、私は涙目のまま手をあてた。…痛い…。罰だ。そう言った兵長は、未だに怒気を含んだその目で、私を見下ろしていた

「訓練生でもそんなミスしねぇだろ。」
「…返す言葉もございません…。」
「お前、調査兵団に入って何年目だ。」
「3年目です、兵長。」

しゅん、と項垂れながら応えれば、あからさまな溜息が兵長から零れ落ちた

「顔に痕が残ったらどうする。」
「…兵長……。」
「気をつけろ。」

そう言うや否や、また違う真新しい布でぐっと頬を抑えられた。血もそろそろ止まってきた様でそれ程、布は血に染まっていなかった

「兵長、ありがとうございます。」
「…ふん、」

いつも理不尽だと思われる兵長だけど、芯は真っ直ぐでいつもちゃんと部下のことを考えてくれている。だからその気持ちに応えたいって思えた。着いて行こうと思えた。人類全てを守ることなんて出来る筈もないけど、自分の手の届く範囲だけは何があっても守りたいって、そう思えたんだ

「兵長。私、もうミスしない様に頑張ります、から。」
「……夢、お前

カンカンカンカン!

兵長がぐっと眉間の皺を深くさせて、何かを話そうとしたその時、緊急事態を告げる鐘の音が、壁の内側全体を走り抜けた



それからリヴァイ兵長と急いで本部へと戻れば、巨人がこの壁の内側に攻め入っているという報告を受けた。予めリヴァイ班の出動準備はこっそりと訓練前に終わらせていたので、スムーズに私たちは巨人の元へと向かった。何度も見た光景、何度も見た攻撃パターン、何度も見た仲間の姿。頭に全部入ってる。いつどのタイミングで私が動けば、被害を抑えられるかも分かっている。だけど、その行動を嘲笑うかの様に、1つの被害を抑えればまた新たに知りもしない被害が生まれる。そして私は決意も虚しく、またしても巨人によって殺された

目の前が闇に染まるその前に、ぼんやりと視界の端に兵長がいた様な
…そんな気がした





122回目のループ:1日目

私はそっと右頬へと、手を寄せた。深く切れた傷も無ければ、血にだって濡れていない。巨人に噛み千切られた脇腹の肉だってちゃんとある。そうだ。私はまた始まりの朝へと帰ってきたのだ


「ハンジさん、おはようございます。」
「お、夢。おはよー。」

朝食を食べた後、訓練場へと向かう最中に廊下の角でハンジさんと遭遇した。今日も研究に明け暮れていたのか、髪の毛はボサボサで、目の下には薄らと隈が浮かんでいた。この角で何度もハンジさんと会ってはいるけど、何度見ても心配になる顔色だな。私のそんな表情を読み取ったのか、ハンジさんは大丈夫とでも言う様にははっと笑みを深めた

「夢は今から、訓練場に行くの?」
「はい、今日の午前一杯は訓練の予定ですので。」

そう答えれば、ハンジさんはそっかー、と頭をわしゃわしゃと掻きながら思案顔だ。それにこのやり取りは数十回と行っているから分かってはいるけど、「どうしたんですか?」とハンジさんの言葉を即せば、彼女は悪いんだけどさ。と申し訳なさそうに眉根を下げた

「リヴァイの奴、起こしてきてもらっても良いかな?ちょっと話があってさ。」
「分かりました。訓練開始時間にはまだまだ余裕がありますので、大丈夫ですよ。」

起こして来ますね。そう言えば、ハンジさんは良かったと頬を緩めた。彼女はじゃあ、食堂にいるからーと言って、そのまま食堂方面へと去っていった。ハンジさんを待たすのも申し訳ないから、急いで兵長の部屋まで行こうと。私は気持ち小走りで、その場を駆けだした。

宿舎の最上階の廊下を突き進んで、左角を曲がった先にある一室。此処が兵長の自室だ。いつもは個人の執務室で寝泊まりしてることが多い兵長だけど、今日は自室で眠っている筈。私はコンコンと扉をノックして、「兵長。夢です、おはようございます。」と少し大きめに呼びかけた。だけど毎回、返事が返ってこないことも知っている。そして今日に限って不用心にも、鍵が開けっ放しなことも。私はドアノブをガチャリと回して、そろーっとその間から顔を覗かせた

「兵長、おはようございます。入りますよー。」

恐る恐ると、兵長の部屋に足を踏み込めばソファの端からはみ出す足先が見えた。ひょっこりと裏側から覗き込めば、眉間に深い皺を刻んだまま、スースーと寝息をたてる兵長を発見した。その皺を伸ばしてみたくなるのをぐっと抑え込んで、私は兵長の肩に手をかけてゆすった

「兵長、起きてくださいー。ハンジさんが呼んでますよー。」

ゆさゆさと兵長の肩を前後に軽く揺さぶれば、兵長の固く閉じられた瞼がゆっくりと持ち上がった。そこでもう一度、ハンジさんが呼んでます起きてください。と言えば、兵長の瞼は半分まで開いて、その瞳に私を捕らえた。兵長は薄らと瞳を開いたまま、じっと私を凝視したかと思えば何を思ったのか、ゆっくりと私の右頬へと掌を乗せた。それにぎょっとしていれば、兵長はゆっくりと口を開いた

「…おい、夢…お前、右頬の傷どうした…。」

ドクンと、鈍い痛みが胸を貫いた。次第に早くなる鼓動に急かされる様に、呼吸までもが荒くなる。ぐっと眉根を寄せて、不思議そうに私を見上げる兵長に、私の頭の中はどうしての言葉で一杯だった。そんな私を訝し気に見る兵長に、やっと出てきた言葉は否定の言葉で

「……へ、い長…私、怪我なんて…してない、ですよ…。」

そんな、どうしようもないものだった。そうだ、122回目の私はまだ怪我なんてしていない。頬に傷を負ったのは121回目の私だ。それを122回目の兵長が知る筈もないのに、兵長の目はじっと私の右頬を捕らえている。それに兵長は何やら考え込んだかと思うと、私の頬から手を退けて上体を起こした

「…何でもねぇ。寝ぼけてたみてぇだ。忘れろ。」

そのまま何事も無かったかの様に腰を上げて、部屋を後にしようとする兵長を私は黙って見続けることしか出来なくて、私の頭も身体も固まったかの様に動かなかった。ただ胸の鼓動だけはドクンドクンと嫌な程に、鈍い早鐘を打っている。兵長は、もしかして121回目の世界を覚えているのだろうか。122回目の世界で、あのループする前の世界を覚えているのだろうか。彼へと伸ばそうと中途半端に上げられた手は、微かに震えただじっとりとそこに汗を浮かべていた。兵長を呼び止めたいと開いた口は、カラカラに乾いてしまって声は喉の奥に張り付いて出てこなくて。今すぐに兵長の名前を呼んで、腕を掴んで、どうしてそんなことを尋ねたのかを聞きたいのに。だけど、どうして。どうして 怖いだなんて思うのだろうか

パタンと目の前で閉じられた扉に、ただ、音も無く私の右頬を涙が伝い落ちた


もし貴方が覚えてくれているのなら
(だとしたら、私はこの孤独から抜け出せるのでしょうか)
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