03

 ──三日間で人間という存在はここまで元気を失えるものなのか。
 今の私はまさにその実験中ですと言われても違和感がなかった。
 あれから三日。私は未だに兵長に指一本触れられていない。私の我慢の限界がどこまで続くか見物だと言っていた兵長。全くその通りですそろそろ限界がきそうです。

 実は情けないことに初日の時点で耐えきれなくなりそうだった。兵長と話したい声が聴きたい触れて欲しい側にいたい──次から次へと願望が溢れて、発狂寸前で目が覚めたのだった。
 あれだけ落ち込んでいたのに、よく眠れるものだと我ながら感心した。
 世界が終わってしまいそうなほど憂鬱でも、世界は終わらなかったし朝も来てしまう。身支度を整えて今日も自分の仕事に励まなくてはならない。
 着替えを済ませ、髪を梳かしている時に迷う。
 ──髪飾りを、どうしよう。
 私としては肌身離さずつけていたいところなのだけど、この状況でそれは許されるのだろうか。
 兵長と何だか気まずくなってしまっている今、何だか堂々と髪飾りをつけているのは気が引けてしまう。
 でも側から離したくない。
 結局のところ、髪につけるのは諦めて、ジャケットの胸ポケットへと仕舞い込む。ここなら落とさないし気付かれないし、そっと触れて存在を確かめることができる。
 その判断が間違っていたと痛感するのは、朝食を終えた後だった。

 食堂から出る際に少し離れた場所に兵長がいるのを見つけた。普段ならばすぐさま飛んでいくところだったが、今の私にはそれが許されていないのだと気付く。
 この世の不幸が全て私にふりかかっているのだろうか? そんなことを考えながら、すれ違い様に平静を装って、
「おはようございます」
 とだけ言ってすれ違おうとした。
 おかしな態度になっていなかっただろうか。変に思われていたらどうしよう。あいつはもう我慢ができないのか、なんて思われていたらどうしよう!
「……髪……」
「え?」
 兵長がぼそりと呟いた声に、思わず反応してしまう。私に聞こえたとは思わなかったのか、すぐにしまったという顔をしていたけれど、聞こえてしまって反応までしてしまったものは仕方がない。
「……つけてねえのか」
 ここの、と昨日髪飾りをつけていた辺りを示される。何と答えていいかわからず、一瞬返答が送れてしまった。すると。
「いや、何でもねえ。忘れろ」
 馬鹿か私は!
 兵長がせっかくせっかく声をかけて会話のチャンスをくれたというのに。良かったのだ。あの髪飾りはつけていて良かったのだ。
「あの、」
 待ってください兵長、あるんです。髪飾りはここにあるんです。今だって肌身離さず持ち歩いてるんですちゃんと宝物なんです。
 そんな言葉をかける前に、兵長は歩いていってしまった。
 遠ざかる背中を見つめるしか出来ない私は、己の愚かさをどこまでも噛みしめることになったのだった。

 ──そんなことがありながらの、三日。
 どれほど長かったか、想像がつくだろうか。
 日に日にしおれていく私を、同期達は呆れながらもそっとしておいてくれた。何を言っても無駄だと諦めていただけかもしれないけれど、それでも有り難かった。
 夕食に出たパンを少し分けてやると言われた時には、そんなに食い意地は張っていないと、少しだけ笑うことができた。
 そうして、三日目の夜。
 髪飾りも、あれからつけられなくなってしまった。今更これみよがしにつけて見せるのは気まずすぎる。今も胸ポケットに入っているそれをそっと撫でて、それだけが今の私と兵長の繋がりなのだと打ちひしがれていた。

「あのー……ちょっといいかな」
 そんな時だった。
 後ろから聞き覚えのある声が聞こえて、振り返るとそこには想像した通りに。
「ハンジさん……」
「何か最近、元気がないなあって思うんだけど」
 資料や文献が集まる所が職場という都合上、ハンジさんとは何かと顔を合わせる機会が多い。
 その為、他の上官達よりはずっと身近な存在なのだった──勿論、兵長を除けばの話だけれど。
「夕食後のお茶、付き合わない?」
 お菓子もあるよと誘われて、泣きついてしまいたくなりながら頷いた。

 ***

「単刀直入に聞こう──リヴァイと喧嘩した?」
 流石ハンジさんだった。
 同期達も他の人も、全く聞いてこなかったところに直球で切り込んできた。
「喧嘩というのとは……また違うんですけど……」
 確かにこれは喧嘩ではない気がする。
 私は兵長に腹を立てたりしていないし、三日前と少しも変わらず大好きなままだ。
 兵長も怒っているのとは違うし、業務上会話することがあれば普通に接してくれる。……それが、逆に切なかったりもするのだけれど。
「そうか……あれが普通に見えちゃってたのか……」
「え?」
 ハンジさんの言葉に思わず聞き返す。「あれが」とは兵長のことなのだろう、普通に見えていたとは一体。
「兵長、どこか今おかしかったりするんでしょうか……」
 体調を崩されていたり?
 それともどこか怪我を?
 どうしよう、途端に不安になってきた。
「いや、病気も怪我もしてないんだけどね」
「良かったです……」
 ならばひとまずは安心だ。思わず胸を撫で下ろしたけれど、それならば一体何が。
「リヴァイがさあ、今物凄いことになってるんだよね。いつも不機嫌だけど、いつも以上に機嫌が悪いのなんの」
「そ、そうなんですか……」
 昨日文献をお届けした際は、そんな様子は無かったような気がする──ああでも、いつもよりは無口だったような?
「マジでか! あいつ彼女の前だからっていいかっこしてやがる!」
 拳をテーブルに叩きつけてハンジさんが叫ぶ。あまりの勢いで、カップからお茶が零れなくてほっとした。
「ええと、じゃあ今、兵長は大変ご機嫌斜めだったりするわけですか」
「さっき軽い感じで『彼氏ー、彼女と喧嘩したのー?』って聞いたら蹴られたくらいには」
 あれは私が悪かったような気がしないでもない、と神妙な顔で呟いていた。ハンジさんの勇気ある行動に敬礼。
「不機嫌なのはまあリヴァイの場合いつも不機嫌なんだけど、だいぶ参ってきてるみたいで」
「…………そうなん、ですか」
 どうしよう。私の知らない間にそんなことになっていたなんて。
「あんまりにも薄暗い顔で沈んでるもんだから、何があったの辛気くさいって聞いたんだよね」
「私、ハンジさんのそういう容赦のないところ好きです」
 それもかなり。
「やだ照れちゃうよ! そしたらあいつが髪飾りをどうのとか言ってたんだけど、髪飾りって身に覚えある?」
 身に覚えがありすぎる。
 間違いなくこの間の件だった。
 ハンジさんにかいつまんで説明する。兵長からもらった髪飾りをずっとつけていたいと言ったのに外してしまって、多分それで気分を害してしまったのではないか……と。
「気分を害すっていうか、底抜けに落ち込んでた」
 私の馬鹿ー!
 何度罵っても足りない。
 本当に何をしているのか。
「……別に、リヴァイのことを怒ってて髪飾りをつけたくないわけじゃないんだよね?」
「勿論ですそんなわけありません! それに、その……」
「ん?」
 髪にはつけていないだけで、ずっと持っていますと小さな声で白状した。ここに、と胸ポケットを示すと、ハンジさんはぽかんとした顔でこちらを見つめていた──あああだから言いたくなかったのに呆れられている恥ずかしい!
「……あー、うん。大体わかったよ、うん」

 頼むから仲直りをしてきて。

 そんな超高難度ミッションを与えられて、ハンジさんの研究室から出されてしまった。


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