003

 この間は素敵な一日だった。
 思い出に浸るだけで数日間幸せでいられた。
 周りの人々に若干「かわいそうに」という目で見られていた気もするけれど、私本人が幸せなのだからそれでいいのだ。
 そのおかげで今日も張り切って働くことができる。
 資料閲覧室が私の主な職場である。巨人について。この世界の歴史について。その他もろもろ。表に出せるものから出せないものまで、調査兵団のありとあらゆる資料や文献はこの部屋に集まってくる。その中でも表に出せないもの──所謂禁書扱いというやつだ──を閲覧したがるのは圧倒的にハンジさんが多い。というかハンジさんくらいしかいなかった。
 資料や文献を内密に都合する内、自然とハンジさんの助手のようなことも務めるようになって、今ではすっかりこの地位に定着してしまった。
 入団当時は閑職に追いやられたと気の毒がる同期も居たが、私は今の職をそれなりに気に入っていた。
 一般開架ゾーンだけでもかなりの広さなので、整理のしがいがある。埃が積もらないよう掃除している時など、どこかの綺麗好きの兵士長様を思い出して、つい口元が緩むのだ。

 ──ともあれ、今日も頼まれた資料を両手に抱え、私は兵団内の廊下を歩いていた。
 まだお昼まで少し時間があるけれど、早くも昼食のことを考え始めている。今日は食堂で兵長に会えるといいな、などと夢想にふけりながら歩いていると。
(…………っ)
 角を曲がろうとして慌てて後ろに下がる。
 一瞬のことだったけれど、廊下の向こうにいるのは、間違いなく。
(兵長と……女の人?)
 後ろ姿だが、髪型や体つきから女性であることがわかる。小柄な兵長よりも更に背が低いし。身長については私も兵長より多少低いのでどうこう言えないけれど。
 もしかしてもしかすると。これは。
(まさかの告白現場……!)
 神経質だとか粗暴だとか近寄りがたいだとか言われているものの、実際のところ優しい気質の人なのだ。仲間思いであることは一度でも彼と壁外調査へ出た者ならば皆が知るところで。
 だからこそ、兵長に憧れている人間が多いことも知っている。
 私のように四六時中、兵長兵長と騒ぐ人間はあまりいなかったらしいのだが、想いを伝える人間が居ても何ら不思議ではない。
 女性の表情はわからないが、兵長に告白しようとしているのならば。
(早くどこかに行かないと)
 人様が告白しようとしているのに、その場に居合わせるのはまずい。あまり他人に聞かれたくないだろう、こういうことは。このままゆっくりと退却すればいい。少し遠回りになるけれど、気にすることでもない。
 さてそれでは、兵長と名も知らぬ女性の方。後はごゆっくりと。
 その瞬間に、目が合った。
(────まずい)
 これはまずい。
 音を立てないよう、じりじりとすり足で動いているところを目撃された。
 少し驚いたような表情の兵長が、声を出す前に。
 物音を立てず、かつ全力疾走という離れ業をやってのけた私は、そのままどこまでも逃げた。一枚の資料も無くさなかったのは、我ながら褒められていいと思う。きっと。



「──はい、捕獲」
「何がですか!」
 そして誰がですか。
 あれから数時間。本日も職務を全うし、さて夕食をとりに行こう、などと考えていたところをハンジさんに捕獲された。椅子に座る私の肩をがっちりとホールドして、まさに文字通り捕獲だった。
「あなた以外、他に誰がいるのさ」
 嫌な予感ほど当たるもので、やはり私が捕獲対象らしい。
「私を捕まえて、一体何をするつもりですか」
 実験のお付き合いならば今日はできませんよ。お腹がすきましたし。
「ああ、違うよ私じゃないんだ。あなたを捕まえて欲しがってたのはね」
 そこでぱっと肩から手を離すハンジさん。自由に動いていいのだろうか。何だか先程以上に嫌な予感しかしないのですがこれは。
 ともあれそっと振り返る。そこに居たのは楽しそうな笑顔を浮かべるハンジさんと、そして。
「兵長……」
 ──数時間前に見かけた兵長が、苦々しい表情で立っていた。

「どこに居るかわからないって言うからさ、多分ここだと思ったから連れてきちゃったよ」
 閉架区域だけど大丈夫だよね。兵士長様だし怒れる人なんて居やしないって。
 資料室の奥の奥、一般閲覧が禁じられている文献が集まる特別閉架の部屋に、私は居た。別に誰かに見つかりたくなかったからとかそういうわけではない。断じてない。
「それじゃリヴァイ、この貸しはまた今度ね」
「うるせぇ、さっさと行け」
 足蹴にしようとする兵長をさらりとかわして、ハンジさんは去っていった。因みにここまで、私にほとんど説明はされていない。連れてきちゃった、だけである。
 連れてきちゃったのですか。兵長を。
 何がというわけでもないけれど、何となく今は顔を合わせるのが気まずい兵長を。
「おい、」
 逃げられると思うなよ、と兵長が宣言する。逃げようにもドアは他ならぬ兵長の背で塞がれている。ちょっとどいてくださいね、などと言える筈もなく、私は観念するほかなかった。
 密室に兵長と二人。
 ああ、普段ならばどれほど夢見た状況だろうか。
 けれど神様、今日だけは避けていただけませんでしたか。昨日でしたら、すごく有り難かったのです。
「お前、何で逃げた」
「逃げた、というわけでは……」
「どこがだ。人の顔見た瞬間、すげえ勢いで逃げてっただろうが」
 あれが逃げる以外の何だと問い詰められ、弁解の余地もない。
「その……」
 思わず口ごもると、さっさと言えと詰問される。何だかもしかして兵長は怒っていませんか。
「ああ? 怒ってねえよ」
 口調と声と顔の全てが怒っていると告げているのだが、本人が怒っていないと言い張る以上どうすることもできない。私は諦めて白状した。
「一緒に居た方が、兵長に告白してるのかなあと思いまして……」
 お邪魔するのも気が引けて……と告げたが、相変わらず兵長は厳しい表情のままだった。
 やっぱりあの場に居合わせた時点でお邪魔でしたか!
 ここは叱責のひとつやふたついただいても仕方がない。自分の間の悪さを嘆くが、兵長は依然として黙ったままで。
「邪魔しようとは思わねえのか」
 ようやく聞こえてきた言葉は、私の予想から大幅に外れていた。
「そ、そんなわけにはいきません!」
 だって誰かに恋心を告げるというのは、それなりに覚悟がいることであって。
 そこに他人が乱入するなど、あって良いはずがなくて。
 本当は兵長にも気付かれないまま去りたかったのだけれど、見つかってしまって申し訳ないことをした。
「……そうじゃなくてだな」
「はい?」
 兵長が舌打ちをひとつ。忌々しさを滲ませた声で言う。
「てめぇは、俺があの女とどうこうなっても良かったのかって言ってんだよ」
「ど、どうこうなってしまわれたのですか!」
 名前も知らないあの方と、こ、こ、恋人に?
 どうしよう突然失恋が降って湧いたとショックよりも先に慌ててしまう。
「なってねぇよ」
「え、」
 思わずぽかんと口を開けて見つめてしまう。あまりにも間抜けに見えていそうだったのて、せめて口くらいは閉じようか。
「閉じても間抜け面だから安心しろ」
「心を読まれた!」
 兵長は心を読めるのですか。
「読んでねえ──脱線すんな。だから、どうにもなってねぇ」
 どうにも、というのは、告白を受けていたあの場のことを指すのだろう。それくらいはどうにか理解できた。
「そうですか……恋人に、なってなかったんですか」
「当たり前だ」
「当たり前なんですか」
「恋人になってなってみろ。触らなきゃならねえだろ」
 それはまあ、恋人なのですから。手を繋いだり抱きしめたり、キ、キ、キスをしてみたり。
 想像だけでも気恥ずかしいけれど、そういうことなのだと思う。それに何か問題があるのだろうか。
「大ありだ」

 ──他人との接触なんて、気持ちが悪い。

 そう言い放つ兵長は、どこまでも不快そうで。
 兵長は潔癖だから。
 そう聞かされていたけれど、他人との接触ができないレベルだったとは意外だった。なるほど、それでは告白を断るのも致し方ない。付き合っていて一切接触しない恋人同士というのは、あまり聞いたことがないし。
「そうでしたか……納得しました」
「で、どうなんだ」
 どう、とは。
「さっきも聞いたろうが。お前は記憶力をどこへやった。俺とあの女が、」
 どうにかなっても良かったのか。
 気付けば目の前にまで移動してきていた兵長が、両肩を掴む。目線を逸らすことも許されず、気付けば白状していた。
「ほんとは……ちょっとだけ安心しちゃいました」
 兵長がお付き合いを断っていて。
 変なことを言ってしまってごめんなさい、と笑ってごまかす。
 やっぱり言わなければ良かったかな。恥ずかしいし。と早くも後悔し始めている私の肩から、するりと両手を外した兵長は。
「────い、いたいですいたいれす兵長っ」
 いつかのように、渾身の力でもって私の両頬をつねりあげていた。
「ほっぺたが取れちゃうじゃないですかっ」
「取れたら取れたまでだ。それに手加減した」
 両頬を手で押さえて涙目で訴えるも、返答はそっけない。手加減してこれならば、本気ならどれだけ恐ろしいか。
「酷い目にあいました……」
「…………悪かった」
「え」
 まだじんじんと痛む頬を、兵長の右手がさする。それだけで許してしまえそうな私も大概だと思うのに、あっという間に私の機嫌は上昇した。
「兵長の手、気持ちいいですねえ」
「……っ」
 思わず感想を漏らすと、あっという間に離れてしまう。失敗した。どうせならばもっと堪能したかったのに。
「……聞きたかったのはそれだけだ。俺はもう行く」
 お前も晩飯を食いっぱぐれるなよと言い残して、兵長は去っていった。

 なんだか、嵐のような時間だった。
 そうか……兵長はお付き合いができないのか。
 他人に触れることができないのならば仕方がない。
 でもあんな大事なことを、私に教えてしまって良かったのだろうか。誰かに知られたらまずいかもしれないし、私の胸にだけしまっておこうと決意する。
 そう、他人に触れないだなんて────ん?
 先程までの兵長と自分の一連の流れを思い返す。
 頬を痛めつけられた後に撫でられて────おや?
 他人の肌に触れたくないと、告白を断った兵長。
 先程私の肩や頬に触れた腕は、間違いなく。

「────────あれ?」


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