夢で逢いましょう
今日洗ったばかりの清潔なシーツは、爽やかな匂いだけでなく手触りまでも心地良い。
そのままベッドにころりと横たわって手をぐっと伸ばしてみる。ひんやりとした感触は気持ちいいけれど、それと同時にベッドの住人が現在自分一人であるということも表わしていた。
「そろそろ寝ませんかー」
ベッドから少し離れた場所へ向かって声をかける。ちなみにこれを言うのは本日三度目だった。
「ああ、あと少し」
私の言葉に返事をするのは、この部屋の主であるリヴァイ兵長だ。自分のベッドで他人が好き放題転がっているのに目もくれず、何やら手元の書物を見つめている。
「さっきもあと少しって言いましたよー」
兵長の返事もこれで三回目。つまり私が寝ましょうと声をかけたのと同じ数だけ、つれない返事を寄越してきたというわけだ。
明日から珍しく連続したお休みをもらえた。一年を通してそうそうあるものではないので、私としては今夜から早速兵長にまとわりついて過ごしたかったのに。
私がこの部屋に来た時から、兵長はずっと本を読んでいる。最初の内はお茶を淹れてきますねと言ってみたり、ソファで横に座ってみたりと大人しくしていた。けれどそれから二時間が経過して、すっかり夜も更けてしまってからもこの調子とは。
確かに余暇の過ごし方は個人の自由だ。私が兵長にまとわりつきたいのと同じように、兵長は読書をして過ごしたいのだろう。それを邪魔してしまってはいけないと思う。聞き分けの良い恋人として居心地の良い空間を作ってあげたいとも思う。
でも構われたい。
こっちを見てほしい。
話がしたい。
構われたい。
浮かんでくるのはそんなことばかりだ。そわそわしてくる身体を押さえつけて、そっと兵長の様子を伺ってみても、兵長の視線は手元の本に向けられたままだった。
お風呂に入りませんか。そう言ったのは一時間前のことだった。私としては最大限の勇気でそう言った。あからさまに誘うような言葉を告げるのは物凄く勇気が必要だった。それでも、はしたない女だと笑われるのを覚悟で言ったのに。
「俺はもう入った。お前も入ってこい」
絶望だった。
確かに言われてみれば兵長は石鹸のいい匂いがする。ずっと相手をしてほしくてうずうずしていて、そちらに意識を向けられなかったから気付かなかった。
そう言われてしまえば、すごすごと一人で入浴に向かう他ない。せめて時間をかけて隅々まで磨き上げてしまえと、思う存分長風呂を堪能した。虚しかった。
そして今に至る。
ありとあらゆる手段で何とかして兵長にこちらを向いてもらおうとしても、兵長は読書をやめてくれない。せめて寝室の椅子にして欲しいと引きずるようにして連れてくることだけは成功した。それだけしか成功していないと言うべきかもしれない。
「ベッドシーツが気持ちいいですよー」
「そうか。良かったな」
「私によっていい感じに温まってますよー」
「そいつは何よりだ」
「……寝心地最高ですよー」
「先に寝てていいぞ」
──完敗だった。
しかも兵長、この状況で「先に寝てろ」とは。ひどい。つらい。切ない。悲しい。
「……兵長に構われたがってる私が、待ってますよー」
「…………」
とうとう無視されてしまった。
もう今夜は諦めた方がいいだろうか。
構われたかったけれど。抱きしめてほしかったけれど。──こっちを向いてほしかったけれど。
「ねます……」
くっつき合って抱きしめ合って眠ることは叶わないけれど、同じ部屋に、すぐ側に兵長がいる。今夜はそれで満足するしかない。明日になったら、淋しかったと少しだけ恨み言を言っても許されるだろうか。
まぁいいや。寝て淋しさを紛らわそう。
せめてどこかに兵長の香りでも残っていてほしいと、毛布を引き寄せてくるまった。
そのまま眠りの世界へ旅立とうとした時だった。
「随分諦めがいいじゃねぇか」
ぼそりと呟くような声が聞こえたのは。
思わず声のした方へ顔を向けると、当然ながらそこにいるのは兵長だ。ただ、どことなくつまらなそうな顔で、先程まであんなに夢中になっていた本は閉じられて、それで肩をトントンと叩いていた。
「諦め……とは」
「もっと粘ると思ったが、さっさと寝ちまいやがる」
兵長はそう言いながら持っていた本を机に置くと、ぎしりと音を立ててベッドに乗り上げた。自然と私に覆い被さる姿勢になって、慌てて起き上がろうとしたもののあっさりと制されてしまう。仰向けに寝ころんだまま、私を組み敷く兵長を見上げることしかできなかった。
「……あれだけ、構ってくださいって言ったのに」
恨みがましい口調になるのも無理はない。兵長とのお付き合いもそれなりの長さになるので、兵長が何を言いたいかが何となくわかってしまったのだった。
「そうだったか?」
「そうですよ。二時間も」
兵長が、構えとせがむ私を面白がってわざと放置していたことくらい、流石にそろそろ気付いていた。
「あと二回くらいねだれば聞いてやらねぇこともなかったんだが」
「嘘ばっかり」
きっと私が泣くか怒るか拗ねるか、こうして諦めて不貞寝を決め込むまで焦らしたに違いない。
「本当に、意地悪」
欲しいと必死になるまで与えてもらえない。こんな風に試すような真似をしなくても、私はいつだって兵長を好きだし大好きだし愛しているというのに。
「意地の悪い俺はイヤか」
「……答えがわかってて聞くところも酷いと思いますけど、大好きですよ」
散々私を焦らしていたぶって満足したのか、先程までの不機嫌そうな様子とは一変して、兵長は薄く笑う。反対に拗ねた様子を見せる私の機嫌を取るように、指先で首筋をくすぐったり、頬を撫でてみたり。
「兵長はもうちょっと私を信用してくれてもいいと思うんですけど」
そして最初から素直に甘えさせてくれたらもっと良いと思うんです。今みたいに。
意地悪されてもからかわれても、どうしても好きだ。兵長の手のひらには魔法でもかかっているのか、撫でられたら一瞬で機嫌が直ってしまう。
「こうやって確かめてねぇと、自信がねぇんだよ」
「それこそご冗談を」
思わず笑いが漏れる。冗談が上手いのか下手なのかわからない。これだけ意地悪をされても、からかわれても、それでも変わらず兵長のことを。
「大好きですよ、大丈夫」
だから早く思う存分可愛がってほしい。
伸ばした腕を受け入れてもらって、ようやく合った視線がとても幸せだった。
「別れてくれ」
聞こえた言葉の意味がわからなかった。
私の目の前にいるのは兵長で、したがって私にその言葉を告げたのも兵長ということになる──別れてくれ、と。今、兵長はそう言った。
「……どう、して」
せめて理由を聞きたいと口を開いたけれど、喉がからからに乾いていて上手く言葉にできなかった。どうしてと繰り返した私から視線を逸らす兵長に、腕を伸ばそうとしてやめた。振り払われるのが恐ろしかったのだ。
中途半端に上げた腕は行き場を失って、そのまま力なく垂れ下がる。どうしてですか、ともう一度呟いた。先程からこれしか言えていない。
私に何か至らないところがありましたか。それは直せるものですか。直したら考え直してくれますか。そんな疑問がぐるぐると頭の中を巡って、でもそれよりも。
(……いやだ……)
私の脳内を占めていたのはそれだけだった。
嫌だ嫌だ絶対にいやだ。兵長を失いたくない。離れたくない。でも心変わりしてしまったのなら無理強いもしたくない。ああ、でも。
すっかり混乱した頭ではどうすることもできない。せめて落ち着こうと深呼吸をしようとしたけれど、うまく息を吸うことも吐くこともできなかった。先程は途中でやめてしまったものの、どうしても兵長に触れたくて再度腕を伸ばした。震える手が兵長に近付いて、そして。
その手を振り払われて、目の前が真っ暗になった。
「──────ッ」
声にならない悲鳴を上げて目を開けた。辺りは真っ暗で、心臓が痛いほどどきどきしている。呼吸も荒くひゅうひゅうと間抜けな音がしている。
どうにか起き上がって、側にある小さな明かりを灯した。暗かった室内がほんのりと明るくなって、それだけで少しだけほっとする。
ふと視線を下へと向けると、そこには静かに眠る兵長の姿があった。
さっきまでのは夢だったと、思う。
それも、とびきりの悪夢。
夢に違いない。夢ということにしてしまいたい。だってあれが現実で、倒れた私を仕方なく兵長が運んできたのだとしたら。
(別れてくれ)
兵長の言葉が今も頭から離れない。今すぐ兵長を起こして、あんなのは夢ですよねと聞きたい。夢だと教えてほしい。
でも、もしも夢ではなかったら。
どうしていいかがわからなくて、指先一つ動かせない。代わりに涙だけが滲んで、耐えきれないそれが次から次へと目から零れてゆく。
「……っひ、……うくっ」
声をあげて泣いてしまうわけにはいかなくて、どうにか抑えようとしても自分ではどうすることもできなかった。
「……ん……?」
眠っていた兵長の眉根が寄せられ、小さく声があがる。起こしてしまう、どうしよう。何とかもう一度眠ってほしいという私の祈りも虚しく、兵長はうっすら目を開けてしまった。そうなれば当然、覗き込んでいた私の姿も見られてしまう。
「……! どうした」
目を見開く兵長は、きっと驚いているのだろう。寝起きにこんな泣き顔が自分を見下ろしていたら驚くのも無理はない。どうにかして誤魔化したいのに、何も浮かばない自分の頭脳が残念すぎる。
「何があった」
有無を言わせぬ兵長の口調に、私が逆らえる筈もない。
「ゆめ、だとは、思うんです、けど」
「ああ」
「…………兵長が、……っうぇ……っ」
「俺がどうした。泣いてちゃわからねぇだろう」
むくりと起き上がって私の髪をさらさらと撫でる兵長の手。その手の温かさに勇気づけられて、何とか途切れ途切れに続きを口にした。
「兵長が、わかれてくれ、って。私、いやで……っでも、私の腕、兵長が振り払……っ」
そこまで言うのが限界だった。止まりかけていた涙が再び次から次へと溢れ出して、制御することができない。
顔を上げられずひたすら泣く私をしばらく見ていたかと思うと、兵長は深く深く溜息をついた。思わずびくりと身体を震わせて、そっと見上げると、そこには呆れ果てたという様子の兵長の姿があった。
「……そうか。そいつは……嫌な夢を見たな」
「……っう、夢で、いいんですよね……? ゆめ、ですよね……?」
「当り前だろうが」
誰が離してやるかと溜息混じりに言いながら、兵長は私へと腕を伸ばす。そのまま腕の中に閉じこめられて、きつく抱きしめられた。
「いいか、それは夢だ。現実の俺はこっちだ」
ゆっくりと、言い聞かせるようにそれは夢だと繰り返す兵長。頭と背中を撫でられて、大丈夫だという声が耳に流し込まれると、こわばっていた心が少しずつ解けてゆく。
「こわいゆめ、でした……っ」
「夢の中まで責任とれねぇぞ……」
勝手に酷い夢を見るなと言われても、私だって見たくて見たわけではない。
「兵長が、寝る前に意地悪するから……っ」
だからあんなに怖い夢を見たのだと、子供のような八つ当たりをしてしまう。
「……関係あるか」
「あります……っ」
実際は関係があるかわからないし、そもそも意地悪された後にはとろとろに甘やかしてもらってすっかりご機嫌で眠ったけれど、それでも駄々をこねてしまう程には本当に、本当に悪夢だった。二度と見たくない。
「夢の中でも一緒がいいですけど、ああいうのはいやです……」
「二人して同じ夢でも見られりゃいいが、生憎そうはいかねぇぞ」
兵長の言葉に頷きながら、縋り付く腕の力を強くした。
「どうしたら安眠できる……もう一回やるか」
兵長の言葉に頬が染まる。色事を含ませた声音は身体の芯がぞくぞくとするけれど、今からもう一度は体力的にも時間的にもつらい。ふるふると首を振る私に、じゃあどうすると兵長はなおも問うた。
「……兵長が好きって言ってくれたら……いい夢が見られるかもしれません……」
「ってめぇ……」
ここぞとばかりに甘える私を、それでも兵長は振り払わなかった。就寝前に色々と意地悪したことを兵長なりに後ろめたく思っているのか、それともあまりに私が泣くものだから呆れているのか。きっと両方な気がする。
「……しょうがねぇ奴だな」
とりあえず横になれと布団の中に引きずり込まれた。そして再び抱き込まれて、そうすると兵長の鼓動が感じられて心の底から安心できた。ぽかぽかと暖かい体温にうっとりと睡魔が襲ってきたけれど、でも、まだ。
「兵長、」
ねだるような私の言葉。珍しく兵長の耳が赤い。
「朝になったら忘れろ」
「朝にもう一回言ってもらおうと思ったのに」
「誰が言うか……いいか、ちゃんと聞いとけよ……俺はお前を、」
その後眠りに落ちた夢の中。私は兵長と手を繋いでピクニックへと出かけていた。
とてもいい夢だった。
夢で逢いましょう 終
*2014年05月04日「SUPER COMIC CITY23」無料配布ペーパーより
*悪夢でもいいから会いたいですね
20140506