兵長と温泉と秘密の泉
001
北部の街には温泉があるらしい。
それを私に教えてくれたのは誰だったか。おそらく同期の誰かだとは思うのだが、その時の私はすぐにそれを忘れてしまった。興味も無かったのだと思う。そうか、大きなお風呂か──大体そんな感じだったと記憶している。
大きなお風呂ならば兵舎に大浴場があったし、温泉には色んな効能があるのだと言われても、その時の私にはぴんと来なかった。
大体北部ということはきっと寒い。季節は冬。ただでさえ近頃は朝晩の冷え込みが厳しくなっていて、早朝に目が覚めた時などは、ベッドから出るのにどれだけの勇気が必要か。眠いし寒いし、私はもうここから一歩も出ないと決意を胸に──話がずれた。ともあれ、寒い時期にわざわざ寒い場所へ出かけて行くこともないだろうと、私はそう思っていたのだった。
だからだろうか。
「温泉に行く」
兵長にそう言われるまで、その存在ごと忘れてしまっていたくらいで。
「温泉……ですか」
「そうだ」
「いつですか」
「明日出発だ」
「明日ですか!」
また急な話だ。
夕食後、今日も今日とて私は兵長の私室に押しかけていた。
部屋着に着替えた兵長は、いつもの兵団服姿の時よりも少しだけ雰囲気が柔らかくなる。襟ぐりが大きく開いたシャツは、いつもスカーフでキッチリと隠されている首筋や鎖骨までも私に見せつけて、いつも見ている筈なのにどうにも落ち着かない。特に、こんな風に部屋に二人きりの時には。
傍にいることを許してもらえるようになってから大分経つけれど、それでもいつもどきどきすると言えば兵長は笑うだろうか。同じ空気を共有しているだけで、幸せだということも。
構ってくださいと兵長にねだるのはいつものことで、部屋に二人きりという状況だけで浮かれてしまうのもいつものことだった。
そんな私に兵長は一言、温泉へ行くと告げた。
それを聞いて何とも間の抜けた顔で返事をする私に、兵長は真面目な顔をして頷いた。
「それはあの、北部の?」
「何だ、知ってんのか」
ならば話は早い、支度をしろと兵長は言う。
二泊するだけだからそんなに大仰な荷物は持たなくていい、とも。
「馬車で行くから運べなくもねぇが、あれこれ持っていってもしょうがねぇしな。着替えくらいでいいだろ」
「そうですか……」
明日出発という割にのんびりと答える兵長。兵長は本当に着替えだけ詰めればそれで済むのだろう。支度をしろということは、荷造りの準備を手伝ってほしいということだろうか。確かに明日出発するのならば、もうあまり時間がない。
「じゃあ荷造りのお手伝いしますね」
「あ? それくらい自分でやった方が早い」
トランクを出してきましょうかと尋ねる私に、兵長は怪訝な顔をして言った。
「だって支度って」
「だから、お前の支度だ」
「私の? 何の支度ですか」
「聞いてなかったのか。明日出かけるって言ってんだろ」
「兵長がですよね?」
お留守番は淋しいですけどと呟く私に、兵長は一瞬無言になって、そして。
「お前も行くに決まってんだろ」
思いも寄らない言葉に、私はぽかんと口を開けることしかできなかったのだった。
「え、お前もって、私も行くんですか?」
「だからそう言ってんだろうが」
何度言わせる気だと不機嫌そうに言い放つ兵長に、返す言葉もない。
私も一緒に。温泉に? 兵長と?
「ふたりで……!」
少しずつ事情が飲み込めてきて、それと同時にじわじわと嬉しさがこみ上げる。だって。だってこれは。
「兵長と、私と、二人っきりで、旅行……!」
「旅行じゃねえ」
「え」
もしかしてお仕事ですか。
お仕事ということは、もしかして他の人もいらっしゃるということですか。
さては私の早とちり……!
浮かれきっていた頭が一瞬で冷えるのと同時、ものすごく消えてしまいたい。穴が無くても掘って埋まりたい。
「待て、お前またろくでもねぇこと考えてんだろ」
シャベルを探しに行く、そう言い残して部屋を出ようとする私を、兵長は一瞬で捕まえて何やら呆れ果てた顔をしている。
「だって、出張を婚前旅行と勘違いした哀れな女に、穴に埋まる以外に何ができるというのでしょうか」
「……今回は大分遠くまで話が飛躍したな」
頭を抱えながらも兵長は、
「まるっきり勘違いってわけでもねぇ」
と一言。だから落ち着け、とも。
「落ち着いて俺の話を最後まで聞くつもりがあるなら説明してやる」
「拝聴します」
どうぞ、とかしこまる私を疑わしげに眺めつつも、兵長は腕を取って隣へ座らせてくれた。私の部屋よりもずっとふかふかのベッドは、相変わらず座り心地が良い。
「寝心地もだろう」
「心を読むのと恥ずかしいこと言うの禁止です」
暗に一緒に眠っている事実を仄めかされて顔が熱くなる。いいからお話を進めてください。
「……まあいい。立体機動が身体に負担をかけるのは知ってるな?」
「はい、それはもちろん」
訓練兵時代の記憶を思い出して身震いがする。よくもまあ生き残れたものだと我ながら思うくらいで。
調査兵団の内部業務に回されてしまった今となってはあまり立体機動を行う機会は無いけれど、それでも万が一のために最低限の訓練は続けている。毎回気絶しないのがやっとという有様だけれど。
私などとは違って、兵長は自分の手足のように立体機動装置を操る。自由に飛び回る姿は本当に翼が生えたようで──いや、それは今置いておこう。このままでは思い出の中の兵長の勇姿にうっとりと浸ってしまいそうだし。
とにかく、そんな兵長の動きを実現する為に、おそらく人一倍身体に負荷がかかっている筈だ。それは身体に残るベルト痕が物語っている。
「もしかして、兵長どこか悪いんですか……!」
嫌な想像に慌てて兵長に詰め寄る私に、兵長は落ち着けと頭を撫でてくれる。
「別に悪いって程でもねぇんだ」
ただ、身体には確実に疲労が溜まっている筈で、常人離れした身体能力でもそれは変わらないのだと。間接にかかる負荷を一度リセットする為にも、休暇を取ってゆっくりしてこいと命じられたのだそうだ。
ただ休暇を与えただけでは兵団中を掃除して回るから、物理的に遠くへやってしまえとの判断だったらしい。
乱暴だけれど、確かに有効な手だと思った。
次の壁外調査までは間があるし、訓練が本格的に始まる前、会議に忙殺されることもないこの時期が好都合なのだという。
急に決まった話ではあるけれど、仕方が無いから行くことにしたそうだ。
「それで、温泉なんですか」
北部の温泉の効能は知らないけれど、確かに身体を休めるのには一役買いそうだと思う。
「わざわざ寒い所に行く奴の気がしれねぇがな」
兵長は私と同じことを言っている。少し嬉しい。
なるほど。だから兵長は温泉へ行くと言い出したのか。けれど。
「でも兵長、どうして私まで?」
「………………それは行きたくねぇって意味か」
「まさか!」
一緒が良いです連れていって、置いていかないでほしいと訴えた。それはもう、必死に。
どのような判断を下されたにしろ、私を連れていってもらえることに何の不満があろうか。おそらく兵長のお世話ができる人間で、この時期暇なのが私だけだったのかもしれないけれど。
私の勢いに気圧されたのか呆れたのか、兵長は「ならいい」とぼそりと呟いて、だから支度をしろと私に命じたのだった。
「急で悪い」
「とんでもない! 私は兵長とご一緒できるのなら、当日の朝でも!」
まごうことなき本心だった。
ああ、でも支度といっても何を持って行こう。私服はどれにしよう。休暇のようなものだから、いつもの兵団服というわけにはいかないだろうし。
「何着て行こうかなあ……」
「俺の部屋に置いてる分で間に合うんじゃねぇか」
確かに兵長の寝室のクローゼットには、私の分の着替えがそれなりに置いてある。兵団のジャケットやズボンだけでなく、パジャマや私服までも。そのおかげで私の部屋のクローゼットには、服以外のものを詰め込むスペースができて、かんそれを見た同期に冷やかされたものだった。
それでも半分以上の私服は自分の部屋に置いてあるので、一応取りに帰ろうと思った。トランクも自分の物があった筈だし。
「せっかくのお出かけなら、可愛いのにします」
「好きにしろ」
そっけなく視線を逸らす兵長だったけれど、私がなおもどの服にしようか迷っていると不意に口を開いた。
「……待て。あれにしろ。あの……白くて長くて、裾に刺繍のある」
「ああ、新しいロングスカートですね」
確か兵長がデートしてくれると言った時に張り切って買ったのだった。
「あのスカート好きですか?」
「……うるせぇ嫌ならいい」
再びそっぽを向かれてしまった。
「私もお気に入りだからあれにします」
ふわふわと裾が広がるスカートは、穿いていると気分が浮き立つ。多分、それを初めて穿いた時に兵長と一緒だったからという理由が一番だと思うけれど。
「それじゃあ朝までに支度を済ませておきますね」
「……荷造りが終わったら、どこで寝るんだ」
不意に兵長からもたらされた疑問に首を傾げる。どこと言われても、あまり遅くなるようならば兵長を待たせてしまうし、自分の部屋で眠るつもりだったのだけれど。
「……遅くなっていいから、こっち戻ってこい」
「……はいっ」
言外に一緒に寝てもいいと言われ、とびきりの笑顔で頷いた。
+ + +
ふわふわとした気分のまま廊下を歩いていると、向かいから歩いてくるハンジさんと出くわした。お茶のポットとカップを手にしている。
「ハンジさん、お茶ですか?」
「ああ、一緒に飲む?」
「せっかくなのでご一緒したいんですけど……」
声をかけてもらえると嬉しいので、いつもならば喜んで誘いに乗るところなのだけど、今夜は。
「そっか明日出発だっけ」
「あ、やっぱりハンジさんもご存じなんですね」
兵長の休暇を勧めてくれたのは、もしかしてハンジさんなのだろうか。
「急に休暇が取れることになったんですか? 確かにこの時期はちょうどいいですもんね」
「え? 一ヶ月も前から休みもぎ取るって宣言してたよリヴァイの奴」
「え?」
「この間の遠征で『帰ったらあいつと温泉だ』なんて言っててまあ張り切ること張り切ること」
「えっ」
けらけらと楽しそうに笑うハンジさんと対照的に、思わず固まる私。
「あの、急にお休みになって、身体を休めろって言われたって……それで、他に空いてるのが私だからって……そういう話では……?」
「……聞いていいかな。いつ温泉行き聞かされたの?」
「さっきですけど」
「ぶっは!」
私が返答すると同時に、ハンジさんは盛大に吹き出した。
曰く。
「あいつ前日まで本人に言い出せないとか! いい年して何してるんだよ! やばいおなかいたいくるしい笑いすぎてくるしい」
一ヶ月も前から決まっていた温泉行きを、兵団中で知らないのはどうやら私だけだったようだ。
そんなことを、今この瞬間に聞かされてしまった私は。
「……どんな顔して兵長の所に戻ったらいいんでしょう」
「指さして笑ってやったら?」
「無理ですよ!」
ハードルが高すぎるにも程がある。
「──そんな顔して戻ればいいと思うよ」
未だ笑いの発作が治まりきらないハンジさんにニヤニヤされつつも、私は赤くなった頬を抑えたままでいた。
(持って行く服は、全部兵長が好きなのにしよう)
そう、心に誓いながら。
*温泉に行ってずっとイチャイチャしたりちょっとだけ事件が起こったり。
*物凄く両思いで甘ったるいものを読みたい方へ。