※書き下ろし部分サンプル


恋におちる日

 日々の暮らしでじわじわと胸を満たしていくように。
 少しずつ注がれていくように。
 いつの間にか溜まっていたものが、自分でも気付かないまま溢れるようにして。その一言が自然と口からこぼれ落ちる、その少しだけ前の話だ。


     ▽▽▽


「ちょっとあんた! 本気なの!?」
 背後からの怒鳴り声は、もういい加減聞き慣れてしまっていた。初めの内はいちいち身をすくませていたものだが、長年の習慣となった今はのんびり振り返る程の余裕すらある。
「ああリコ。おはよう」
「おはようじゃないわよ!」
 本部の廊下を呑気に歩いていた私を怒声で呼び止め、目の前で肩を怒らせ目をつり上げている女性――リコ・ブレツェンスカ。訓練兵団時代から付き合いのある、私の同期だ。彼女に怒られるのはもうすっかり慣れっこになっていた。つかつかと私ににじり寄るリコは、頭突きもかくやという勢いで顔を近づけた。
「本当なの?」
「何が?」
「とぼけるつもりなら怒るわよ」
 もう怒ってそうだなという本心は、口に出したら逆効果だ。それに、彼女の怒りには私にも心当たりがあった。
「異動の話、聞いたわよ」
「まだ決まったわけじゃないんだけどね……」
 そう。まだ決まったわけじゃない。あくまでも内々に打診されている段階なのだけれど、リコを始め少しずつ気付く人間が増え始めていた。
「まさか迷ってるわけじゃないんでしょう? 憲兵団と調査兵団、選択の余地なんてないだろ?」
 ――駐屯兵団から異動するんだから。

 訓練兵団を出て、憲兵団に進める程優秀だったわけでもなく、調査兵団に進む勇気など勿論無かった。元より実技ではなく座学の加点でお情けをもらったようなものだ。当然のように駐屯兵団で内勤を主として働き続け、気付けば数年が経っていた。ありがたいことに壁外に出ることも巨人をこの目で見ることもなく、日々そこそこ平穏に暮らしていた――多分。
 駐屯兵団の図書室を任され、文献の整理や保管、書類の管理をしながら真面目に過ごしていたのだ。本当に。とりたてて目立つ行動もしていなかったし、どこにでも居る平凡な一兵卒。それが私の外部からの評価だった。
 駐屯兵団で特別な働きを見せた者は憲兵団へ異動のチャンスがあるとは聞いたことがあっても、自分には全く関係のないことだと思っていた。それが一体どうして、私にそんな話が舞い込んできたのか。
 平和な内地で暮らせる、生涯一度の好機なのだろう。
「でもなあ……」
 どうにも都合がよすぎる気がして。私の呟きにリコは頷いて、二人揃って首を傾げた。
「ただ毎日真面目にやってりゃ内地に行けるなんてうまい話はないだろうし、何か心当たりはないの?」
「うーん……あ、そうだ」
 心当たりという程のことでもないけれど、内示が出る以前に上層部の人と会話をしたのを思い出した。
 図書室の奥で古い文献の整理をしていて、見たこともない本がこれでもかと大量に出てきたのだ。流石に私一人では処分する判断もできず、上官に尋ねたのだ。その上官ですらどうしていいかわからなかったようで、結果として更に上の人たちと面談をすることになってしまったのだけれど。
「なんか物凄い珍しい本だったみたいでね、みんなやけに嬉しそうだったなあ」
 そのしばらく後で、異動の話が来たのだ。私が望めば憲兵団に取り立ててもらうことも可能だという。
 形式上は調査兵団への異動も可能だということだが、元々そんな勇気もなく駐屯兵団に身を置いているのだから、選択肢はあってないようなものだった。
「ただの一兵卒が一発で憲兵団に行けるような代物だったってわけ?」
「さぁ……」
「まあどうでもいいんだけどね。良かったじゃないの。これで内地行きよ」
「んー……」
「何よ浮かない顔で」
 安全な土地へ行けるというのは確かに喜ばしいけれど、どうにも「うまい話には裏がある」と感じてしまうのは否めない。それに、慣れ親しんだ駐屯兵団のままでも構わないのだ、私は。今の仕事も気に入っていたし、せっかく無事に生き延びている仲間達もいることだし。
「リコは私がいなくなって淋しくない?」
「ない」
 即答だった。
「何甘っちょろいこと言ってるんだか。あんたみたいなのが内地でのんびりできるチャンスなんて滅多にあるもんじゃないぞ」
 それはリコなりの激励だった。何せ訓練兵時代からの付き合いだ。その優しさに気付くことくらいはできた。
「どっちにしろ『異動しません』なんて顔を潰す真似できない以上、どっちか選ばなきゃならないんだろう? なら生き残る確率で考えたらいい」
「そうだね」
 本当に、本来なら迷うようなことではないのだ。即答しなかったことを上に驚かれたくらいで。
「まあいいさ。異動の前にみんなで送別会くらいは開いてやる」
 口の端をほんの少し上げてそう言うと、リコは颯爽と去って行った。後には一人取り残された私だけ。
 ――の筈だったのだが。
「随分興味深い話をしていたね」
 背後からまたも聞こえた低い声に、今度こそ私は飛び上がって驚いた。




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