俺は恋人に溺愛されている


 俺は恋人に溺愛されている。
 そんなことを人に言えば、失笑されるか呆れられるかそのどちらもか。いずれにせよろくな反応は返ってこないだろう。しかしながらそれは純然たる事実であった。

「兵長はお茶を飲みます」
「……なんだそれは」
 朝から机に積み上げられた書類にうんざりとしながらも、俺が自分でやらなければ一枚だって減ることがないのは理解していた。使い慣れたペンをインクに浸し、一枚ずつ目を通してはサインをしていく。訓練場の利用許可? こんなもの団長一人のサインで済ませろ。俺よりは幾分か書類仕事に耐性があるであろう人間の顔を思い描き、まさかあの野郎は俺に回す仕事を増やしちゃいねえだろうなと勘ぐってしまう。
 その日の午前いっぱいと昼過ぎの数時間を潰し、ようやく終わりが見えてきたと肩を鳴らす。片手で押さえて首を傾ければごきんと鈍く音がして、それと引き替えに少しばかり肩が軽くなるのを感じて息を吐いた。
 それと同時に、やけにのんびりとしたノックが部屋に響いた。
 兵士長の執務室ということで、他よりは多少見てくれを整えた扉だ。分厚い木材越しに聞こえる声は、俺が間違える筈もない。
「入れ」
 何が嬉しいのかへらへらと顔を緩ませながら、失礼しますと部屋へ侵入してくるのは、やはり予想通りの人物だった。トレイの上には茶器と菓子がいくつか。両手で持ちながらにこにこと笑うのは――俺の恋人だ。
 調査兵団本部における、資料室と書庫の管理がこいつの仕事だ。だというのにこうして隙を見ては俺のところへとやって来る。別にさぼっているわけでもないので、そこに文句をつける気はない。特に、今日のように朝から書類と格闘している日などは。俺に休憩をとらせようと、誰に頼まれたわけでもないのに時間を見計らってやって来ていることは簡単に想像がついた。それを追い返す程の人非人ではないつもりだ。
 結局のところ、俺はいつもこいつが笑顔で口にする、
「休憩にしませんか。お茶を淹れました」
 の言葉を待ちわびてしまっているのだろう。毎日のように。
 今日もその言葉が飛び出るに違いないと、持ち上げかけたペンを置く。しかし俺の耳に飛び込んできたのは。
「兵長はお茶を飲みます」
 などという、奇妙な文言だ。
「……なんだそれは」
 怪訝な顔をしてしまっても、無理はないだろう。

「今日はどうしても、兵長にお茶の時間を取っていただきたくて」
 数分後、執務机を離れた俺達は傍のテーブルへと場所を移す。二人分のティーカップを前に、座れと命じて俺もその横に腰を下ろした。
 いつもよりどことなく真剣な表情だ。普段は心配になる程に緩みきった顔をしているものだから、余計に。
「ならそう言え」
 あんなおかしな言い方があるか。
「兵長はお茶を飲みたくな〜る飲みたくな〜る」
「やめろ」
 顔の前で指をくるくる回すな。そういうことじゃねえ。時間を取ってくれとか、話があるとか、言いようがいくらでもあるだろうが。
「催眠術的な?」
「かかってたまるか」
 ぎゅっと力を込めて、くるくる回り続ける指を握りしめた。途端に悲鳴があがるが知ったことか。
「骨が砕け散ります!」
 大げさに騒ぐのはいつものことだ。五秒待ってから離してやると、恨めしそうに口を尖らせている。涙目で見つめるんじゃねえ。劣情を催したらどうする。まだ昼間だぞ。後半は胸の奥にしまっておくことにして、どうやら話があるというのは本当らしい。
「で、何だ。言ってみろ」
 幸い仕事の方はもうじき区切りが付きそうだった。多少の面倒ごとなら聞いてやる余裕はある。我ながら甘くはないかとちらりと頭を掠めるが、この程度ならば許容範囲に違いない。
「実はですね……」
 もごもごと言いにくそうに口ごもっているのを見て、何かやらかしたのかと聞けばそうではないという。
「その、飲み会に誘われたんです。週末にあるらしくて」
「そうか」
 飲み会ということは夜なのだろうが、こいつだっていい大人だ。一人で夜の街をふらつくならともかく、仕事仲間と集団ならば、そうそう危険な目には遭うまい。言いにくそうだったのは、俺がいい顔をしないと思ったからだろうか。
 確かに言われてみればこうして付き合うようになってから、俺以外の相手とこいつが夜間外に出るなんて話は聞いたことがなかった。別にそうまで束縛するつもりもない。偉そうに聞こえるかもしれないが、こいつに限って浮気の心配なら全くないだろう。どれだけ惚れられているかなんてとうにわかっている。
 そんなことで今まで遠慮していたのなら、それは無駄な心配だと教えてやろう。俺はその点広い心を持っているんだと安心させてやればいい。そう思って、口を開こうとした瞬間だった。
「他の兵団の子とか、男の人も何人か来るらしいんです。親睦を深める? とかなんとか。同僚の子が仲良くなりたい男性がいるから、どうしても行きたいんだって言われて」
「……」
「人数は多い方が良いって言われてるんですけど、私そういう目的の場って行ったことなくて。まだ返事はしてないんですけど……」
 俺は広い心を持っている?
 前言を光の速さで撤回した。
「週末と言ったか?」
「そうなんです。また都合のいいことに、私がお休みなんですよねぇ……」
 知っている。俺に合わせているからだ。
 休日ならば暇だろうと言われて余計断りにくいらしい。畜生。こんなことならさっさと何でもいいから用事をでっちあげておけば良かった。飲み会? 親睦を深める? こいつは言葉通りに受け取っているらしいが、その魂胆は明らかだ。一体どんな風に「親しく」なるつもりだと問い詰めてやりたい気持ちになった。先程までは鷹揚に構えて、楽しんでくればいいと送り出すつもりだった俺の広い心の容量は、今や執務机のインク壺よりも小さい。
「週末か」
 気付けば言葉は勝手に口から飛び出していた。
「たまには二人で飯でも食うかと思ってたんだが……」
「断ってきます!!」
 俺に最後まで言わせず、すぐさま立ち上がる姿を見て、口角が上がりそうになるのを必死でこらえた。
「まあゆっくり考えたらどうだ」
「兵長とご飯がいいです! 兵長がいいです!」
 頬を薔薇色に染めて、嬉しいと身をよじる姿を見て、少しばかり罪悪感が湧くのは本当だ。心の狭さも自覚した。それと同時に、そうかあれだけ迷っていても俺との飯の方がいいのかと思えば悪い気はしない。どころかいい気分だ。
「……何か笑ってません? 兵長」
 首を傾げる恋人に、そんなことはないと否定しながら
「食いたいものを考えておけ」
 そう告げて、カップの中身を一気に飲み干した。


(中略)


 私には最愛の恋人がいたそうだ。
「過去形にしてんじゃねぇぞ……」
「ひぃっ」
 ――否、いるそうだ。……たぶん。

 駐屯兵団の手伝いで、お祭りの警備やら見回りに駆り出されたのは覚えている。そこでハンジさん達に出会ったことも。
「ハンジの名前が先に出てくんのかよ……」
「ひっ、す、すみません」
 不機嫌そうな表情で、地を這うような声を出すのはリヴァイ兵長だ。調査兵団の兵士長で、性格は潔癖にして粗暴。仲間思いだが厳しくて、自分には更に厳しい。それが私にとっての兵長のイメージだ。そして何より。
「何でそう怯えてやがる」
「ひゃあああ」
 思わずハンジさんの背に隠れてしまう。怖くて兵長の顔が見られない。
 そう。怖い。とにかく兵長が怖い。
 別に直接何かをされた記憶もないのだが、本能が恐怖を感じてしまうのだ。
「嫌い、を通り越して恐怖の対象になっちゃうレベルかあ……」
 ハンジさんは何やらよくわからないことを呟いては頷いている。
「よかったねリヴァイ。貴方めちゃめちゃに愛されてたみたいよ」
「良くはねぇだろ……」
 うんざりとした声にそっと背中から顔を出すと、途端に目が合って慌ててハンジさんの背後に逃げ戻った。
 やっぱり、何かの冗談に違いない。
 見回りをしていた筈がいつの間にかハンジさんと兵長が傍にいて、逃げようとしたら即座に捕まって、本部まで連れ帰られたと思ったら。
「お前は俺の女だろうが」
 なんて言われてしまうなど。
 二人が言うには私は「好きな人を嫌いになる催眠術」をかけられて、それが少しばかり効きすぎたせいで兵長を嫌うどころか強い恐怖心を抱くようになってしまったそうだ。
 そんな馬鹿な話があるものか。
 私が最初に感じたのはそれだ。いくら私でも、そんなにあっさり催眠術にかかるわけがないと言ったら、二人とも微妙な表情を浮かべていて若干絶望した。なるほど、あっさりかかるような人間だったわけだ。私は。
 言われてみれば私の記憶はあちらこちらが朧気で、兵長のこととなるとそれは更に増した。同じ兵団内で顔を合わせる機会だってあっただろうに、こと兵長のこととなるとまったく曖昧なのだった。
 ただ、今ものすごく兵長のことが怖いというだけで。
「記憶喪失ってわけでもないからタチが悪いよね」
「ご迷惑をおかけしまして……」
 多分、私がこうなっていることで少なからずこの人達に手間をかけさせている。それはわかった。
「オイ」
「ひっ……は、はい……」
 中心街で最初に兵長を目にした時は、全てをかなぐり捨てて逃げ出した。とにかくこの場所から離れなくてはとそればかりで、呼び止める声に振り向きもせずにひたすら走り続けたのだった。
「脱兎の如く、ってああいう時に使うんだって初めて思ったよ」
 というのはハンジさんの言葉だ。
「とりあえずさ、さっきの所に戻って催眠術解いてもらいなよ。そうすれば元通りなわけだし」
 成程、確かに。
 私としても記憶にもやがかかったままなのは気持ちが悪いし、それに何より。
「とっ捕まえた時に連れ帰るんじゃなかったぜ」
 小さく舌打ちを漏らす音が聞こえて、びくりと身体を震わせる。兵長のことが怖くて怖くてとにかく怖い。こんな状態では日常生活にも支障が出る。この恐怖心が催眠術のせいだというのなら、もう何でもいいから解けてほしかった。
「なら行くぞ」
 不機嫌な表情を崩さないまま、兵長は手を差し出す。これは一体。
「行くぞ、とは……?」
 おそるおそる尋ねると、返ってくるのは不可解な表情だ。眉をひそめ、睨み付けられるような目線に涙が出そうになる。怖い。逃げたい。今すぐに。でも逃げたらきっと怒られる。
「さっきのヤツの所へだ。さっさとしろ」
「あの、兵長もですか?」
「そうだが」
「とんでもない!」
 ここまでで充分手間をかけさせているというのに、そんな恐ろしい、いやそんな申し訳ないことはできない。一人で行って、一人で解いてもらう。その方がいい。
 本当のことを言えば、先程から恐怖で頭がぐるぐるしてしまっていて、一人になりたかったからというのもある。このままでは混乱したまま何をしでかしてしまうかわからないし。
「一人で行ってきます。その、お二人にご迷惑を」
「迷惑なら今更だろう、ほら」
「あ、リヴァイ待ってそれは……」
「――――!」
 ハンジさんが声を上げたのと同時。
 兵長が私の手首を掴んだ。
 冷静になって考えてみれば、兵長は何の気なしに私の手を引こうとしただけなのだろう。恋人――などというとんでもない関係が真実だったとするならば、それはいつもの行動だったに違いない。けれどその時の私は兵長に対して恐怖心と戸惑いしか感じていなくて、混乱する思考はそこに来て限界を迎えた。結果。
「…………きゅう」
「ッ!? オイ、どうした!」
 遠のく意識と暗くなる視界。それを自覚した時にはもう、私は気を失っていた。

▼溺愛されている筈の恋人に、この世で一番怖い人認定を受けた兵長が
あれこれ苦労してもう一度愛される話


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