Sweet7
恋の病というものがあるらしい。
お医者様でも治せないそうだ。
正確にはお医者様でもどこぞの有名な温泉に浸かっても、だったかもしれない。どちらでも良いことだ。
私が恋の病にかかっているとするならば、相手はリヴァイ兵長をおいてほかにいない。だとすればこの病は治ってしまっては困るわけだ。何だったら生涯かかったままでも構わない。
どちらにせよ温泉で治ることはないというし、私がそこへ浸かりに行ったとしても全く問題はないのだ。
Day1
***
年末の休暇を前にして兵長の誕生日が終わると、ああ今年も終わりだなとつい感傷にふけってしまう。
実際は大掃除という、兵長が自身の誕生日よりもよほど気合いを入れて挑むイベントを残しているのだけれど、私としては掃除の手伝いが邪魔にならないよう努めるので精一杯だった。普段から本部や兵舎の清掃を欠かさない彼のおかげか、私にはそこまで汚れているようにも見えないのだけれど。
兵長に言わせるとこれでも「掃除のしがいがありやがる」と眉をひそめる惨状らしい。これにはこっそり肝を冷やした。兵長に今の書庫を見せるわけにはいかない、と。
私が普段仕事をしている調査兵団本部の資料閲覧室。「室」とは呼んでいるものの、実際は書庫まで合わせたら結構な広さを誇る。禁書を詰め込んだ閉架書庫の存在を他に知られるわけにはいかず、あえてそう命名したのだという。どこぞでは「魔導書図書館」と囁かれているらしいと聞いた時には飲んでいたお茶で咽せた。私は一体いつからそんな怪しい場所で働かされていたのかと。
ともあれ、それだけ広いとなればどうしたって中々人の目が行き届かない場所も出てくる。少し奥の書棚が並んでいる辺り。最近新しい本も入ってきていないし、しばらく放っておいてしまっているからうっすら埃が積もり始めているかもしれない。それを兵長に見られたとあっては。
浮かび上がる青筋と冷えた視線。握りしめた拳と怒りに地を這う声を思い浮かべて、寒さだけではなく思わず身震いした。
「寒いのか」
「ひゃあ!?」
背後から突然聞こえた声に間抜けな声と共にびくりと身体が跳ねた。座っていたソファから数センチ浮いた気もする。
「急にでけぇ声出すな」
びっくりしたじゃねえか、と溜息混じりに私を小突くのは、言うまでもなくリヴァイ兵長だ。
「私だってびっくりしましたよ!」
いつの間に背後を取られていたというのか。考え事をしてしまっていたから、全く気付かなかった。
「俺が俺の部屋に戻ってきて何が悪い」
「悪くはないですけど」
そうだった。
私がぼんやりしていたのは、他でもない兵長の私室だ。上官でもある兵長のお部屋に入るなんて! と緊張していたのも今は昔。いつしかこの場所にも馴染んでしまって、今ではすっかり居着いている。兵舎にはありがたいことに自分の部屋も与えられていたけれど、そちらはほとんど職務の文献や趣味の本だらけだった。眠るのもこちらの部屋なのだからそれで不都合はない。
「人の椅子に我が物顔で転がりやがって」
「きゃー」
転がりやがってと言いながら、転がしてくるのは兵長の方だ。のし掛かられても抵抗などする筈がなく、我ながらわざとらしく悲鳴をあげた。くすくす笑って両腕を伸ばし、兵長の頭を抱え込むように抱き寄せた。
「オイ、風呂」
「もうちょっと、後で」
首筋の辺りに兵長の呼吸を感じてくすぐったい。はあ、と吐かれた溜息が熱い。身をすくませるもののどうにも離れがたく、更に強く抱え込んでぐりぐりと額を擦り付けた。
「甘えやがって……あと十分だ」
早く風呂に入ってベッドに潜りこみたいと兵長は言う。冬場とはいえ清潔なシーツには清潔な身体で触れたいのだと。綺麗好きな兵長らしい。その癖、清潔だった筈のシーツがいつのまにか色んなものにまみれて、どろどろになってしまうのを見て満足そうな顔をするのは不思議だ──いけない、夜だからか余計なことを思い出してしまう。
昨日は兵長の誕生日を皆で祝った。兵長は随分お酒を飲んでいたようだし、その後もこの部屋と寝室でその、まあ、色々としたせいで二人とも眠ったのは明け方近かった気がする。
今日はいつもより朝寝坊を許されたとはいえ、いささか睡眠不足気味なのは否めない。今夜はゆっくりお風呂に入って、早めの就寝を心がけなくては。そう思っていても。
「暖かいですね」
「もう寒くねぇか」
さっき震えてたからな。風邪でも引かれちゃ都合が悪い。
先刻目撃された身震いは別に寒かったからというわけではないけれど、兵長が気にかけてくれたのが嬉しくてあえて訂正はしないでおいた。それを口実に、こうして密着できているというのならば余計に。
「十分経った」
「わざわざ計ってたんですか」
「時計が何のためにあると思ってんだ」
「私と兵長の間を引き裂く悪魔の発明品め……」
「阿呆か」
始めに十分だけと言った言葉通り、兵長はさっさと起きあがってしまう。しがみついていた私ごと。
「……腕力がついたか?」
「おかげさまでこうやって日々鍛えております」
「こんな鍛え方があるか」
ふざけていないでそろそろ真面目にお風呂に入ろう。まずは兵長に先に──と。
「何だその顔は」
名残惜しいけれど離れようとした矢先、抱え上げられるものだから驚いた。とても驚いた。
「や、あの、兵長お先に入ってきてくださ──何ですかその顔は」
図らずも直前の兵長と同じ言葉を返すことになる。そう言ってしまいたくなるほどに、兵長が顔を歪めていたので。
「誰が別々に入ると言った」
──わあ。
「いいんですか」
「悪けりゃ言わねえ」
しれっとした顔でそんな顔を言うものだから、私としてはおろしてくださいとか先にお湯の準備をとか、そういったことが全部頭から吹き飛んでしまうのだ。だから。
「……べたべたひっつくのは良くて、風呂に入るのは恥ずかしいってのはどういう理屈だ」
耳まで赤く染まっているであろう私を見て、怪訝な声を出す兵長に、何も言い返せないのも無理はない。
***
私が恥ずかしがりだすと途端に機嫌がよくなる兵長に色々仕掛けられたりもしつつ、何とか無事に今夜もお風呂を済ませた。
入浴後のほかほかの身体でベッドに腰掛け、髪を拭いていたらタオルを取り上げられた。どうするつもりかと見上げていたら、再び頭に被せられてわしわしと拭かれる。甘えさせてくれるのが嬉しくてされるがままでいたら、しばらく沈黙を保っていた兵長がぼそりと呟いた。
「お前、休暇の予定は」
全員が一度に休むわけにはいかないものの、調査兵団の兵員達にも年末から年明けにかけて、まとまった休暇が与えられていた。
実家がある者は帰省したり、連れだって旅行に出掛けてみたり。日頃の疲れを取る為とひたすら自堕落に過ごす者もいれば、普段通りの自主訓練に励む者もいる。そして私は。
「兵長に合わせてお休みもらったので、ずっとまとわりつく予定です」
「勝手な予定を立てるな」
「痛いです痛いですいたい」
髪を拭いていてくれた指が、そのまま私の頭をみしみしと締め上げた。思わず悲鳴混じりの声を上げたら力を緩めてくれたものの、兵長はあくまでも動じない。
「頭皮のマッサージだ」
絶対嘘だと思う。
「あ、もしかして兵長。たまの休暇くらい私の顔なんて見たくないとか、そういう……」
「どうしてそうなる」
日頃から兵長兵長好き好き大好きとくっついているものだから、そしてそれを許してくれているものだから兵長もうんざりしているのだろうか。
「待て」
この辺りで一度距離を置かないと、そう遠くない未来、私は捨てられ──「頭突きされたくなければ人の話を聞け」聞きます。
「てめぇはどうしてそう両極端なんだ。ゼロか百しかねぇのか」
兵長に捨てられるシーンが脳裏によぎり、いよいよ涙目の私を兵長は呆れかえって見下ろしている。深く深く溜息をついて、私の横に腰を下ろした。そのまま乱暴に引き寄せられて、がっちりと捕獲される。
「温泉は好きか」
「兵長の方が好きですけど、好きですよ」
「……褒めてるつもりならお前は褒め方ってもんを考えた方がいいが、そうか。好きか」
「前に一緒に行きましたもんね」
やはりあれも冬場だったろうか。以前北部にある温泉へ兵長と連れだって赴いたことがある。
「行くか」
「え?」
思わず兵長を見つめて間抜けな声を出してしまった。行くか、とはもしかしなくとも温泉のことだろうか。
「嫌ならいいが」
「行きたいです! え、でもどうして急に。兵長またどこか悪いんですか!?」
前回は日頃の訓練や戦闘で溜まっていた疲労を取る為に北部まで温泉に浸かりに行ったのだ。それなりに遠い場所だし、行くにも帰るにも時間がかかる。そこへまた赴こうというのなら、そうするだけの理由が兵長にはある筈で。それなら先ほど私を抱き上げるような真似をしたら、身体に良くなかったのでは。どうしよう。
「……お前が俺をどういう男だと思ってるかは知らねぇが、たまの休みに自分の女連れてどっか行くかと考えるくらいはするぞ、俺は」
怪我もしていなければどこか悪くしているわけでもない。それでも私を連れて、北部まで。そんな、そんなのまるで。
「わ、私とただ温泉行きたいみたいな感じじゃないですか……」
「……最初からそう言ってるつもりだが」
どうしよう。声が出せないし息もうまく吸えないし頬は熱いし顔が上げられない。
「嬉しいです……」
それだけを何とか告げて、後は力の限り兵長にしがみついた。ああ、兵長のことを好きになって良かった。本当に良かった。
「そうか」
それは何よりだ。
そう言って密やかに笑う兵長の声は。企みが成功し、私を存分に驚かせ感動させたことが楽しくて仕方がないと、そう言っているように響いた。
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