ふわふわな日


 たまには身体を動かさなくては鈍る。
 ここ数日研究室に籠もりきりだったハンジは、久しぶりの訓練で汗を流した。気付けば衣服や肌には土埃その他が付着していて、このまま本部内を闊歩したらうるさい奴がいるだろうなと脳裏を過ぎる。きちんとしてくださいと窘める副官だけでなく、不機嫌の権化のように人を睨み付ける同僚などがそれだ。
 普段のハンジならばそれものらりくらりとかわしてしまうのだが、今日は何となくその気になった。本部へ向かう道中の井戸と水飲み場、簡単に汚れを落とせる場所へと立ち寄ることにする。今日は春にしては随分気温が上がっていて、水でも被ると気持ちがいいと思ったからかもしれない。

「ぷはー!」
 頭から水を被り、火照った頭に水の感触が心地良い。そのままざぶざぶと顔を洗って、眼鏡を手にしたところでそう言えば拭くものを持っていなかったと思い至る。
(まあいいか)
 いいお天気だし、部屋に戻れば何かしらあるだろう。そうでなくてもびしょ濡れのハンジがふらついていれば、きっとモブリット辺りが発見してくれる筈だ。
 適当に髪をかき上げて、水滴を飛ばすように頭を振ると――「オイ」
 地獄のように不機嫌な声が聞こえた。
「てめぇ……水が飛ぶじゃねえか」
 汚えな、と吐き捨てる声の正体は一人だ。手にした眼鏡を装着すると、朧気だった輪郭がはっきりとする。不機嫌の権化。苛立たしげな声の持ち主は、予想した通りやはりリヴァイだった。いつの間に横に立っていたのだろうか。
「タオル持ってないんだもの」
 ハンジの言葉を無視するように、リヴァイは顔と手を洗う。リヴァイは今日の訓練に姿を見せなかった筈だが、綺麗好きであるこの男のこと、手を洗う回数は確かに多い。
 顎から雫を滴らせながら、リヴァイはポケットからハンカチを取り出した。丁寧に顔と手を拭い、折りたたんだそれはきっとまたすぐに洗濯に出すのだろう。それならば。
「ああ、じゃあそれでいいから貸してよ。ちゃちゃっと拭いて――何その顔」
 初めて壁外で巨人を見た新兵だって、こんな絶望的な顔はしないだろうに。リヴァイの表情を見たハンジは思わず怯んでしまう。
「他人がツラを拭った後で共有……?」
 正気か。
 ハンカチに皺が寄りそうな程握りしめたリヴァイは、吐き捨てるようにそう呟いた。そのまま踵を返し、一人で本部へと戻ろうとする。
「ぼたぼた水滴落として本部をうろつくんじゃねえぞ」
「拭くもの無いのにどうすりゃいいのさ」
「乾くまでじっとしてろ」
「無茶言うなよな……」
 ハンジのぼやきを完全に無視した形で、言いたいことだけ言い切ったリヴァイはさっさといなくなってしまった。
 その後、結局はいくらも経たない内にモブリットがやって来て、呆れ顔で
「何してるんですか分隊長……もう大人でしょう」
 そんなことを言いながら、タオルを手渡してくれたのだけれど。

 そんなことがあった数日後、ハンジはまたも本部の外にいた。今日は訓練というわけではなくて、文献を調達した帰りだ。研究室への近道にと中庭を通りがかると、見慣れた人間の姿が目に入った。
(あれはリヴァイと――)

   ***

「ありがとうございます、兵長」
「ん」
 私の言葉に小さく頷いた兵長は、
「あれだけで良かったのか」
 と本部の方を見やる。
「ええ、助かりました。一人だとちょっと重かったから」

 新しく納入された文献を資料室に運び込むべく、箱に詰められた本を相手に奮闘しているところを兵長に発見されたのだ。資料室の人間何人かで手分けをしていたけれど、これくらいなら一人で持てそうだと油断したのが良くなかった。台車はどうしたと問われて、置いてきてしまったと正直に告げたら呆れ顔でため息をつかれてしまう。
「非力が無茶しやがる」
 寄越せと箱ごと取り上げられそうになったので、慌てて中身を何冊か取り出した。流石に、兵士長に荷物持ちをさせて手ぶらでいるわけにもいかなかったから。
「重さなんざ大して変わりゃしねぇんだがな」
「私の気持ちがかなり違うんです!」
「そうかよ」
 そんな取り留めのない会話を交わしながら廊下を歩いた。ちょっと、いやかなり嬉しいと言ったら仕事中は真面目にしろと叱られるだろうか。
 そして資料室に文献を置いて、服の埃を払いたいという兵長にふらふらと付いてきたのがこの中庭だったというわけだ。

「ちょうどいいですから、手も洗っちゃいましょうか」
「ああ」
 中身は新品の文献とはいえ、入れ物は使い古しの木箱だ。汚れた手をそのままハンカチで拭わせてしまうのは忍びなくて、水が使える場所まで二人でやって来たのだった。
「石鹸がそろそろ終わりそうですね。あとで備品室に行ってきます」
「頼んだ」
 黙々と手を洗う兵長を、こっそり見つめて一人うっとりとしてしまう。真面目な顔で石鹸を泡立てる仕草ひとつで格好いい。気付かれないように――なんて私の目論見はきっと初めから気付いて看過されていて、それでも思わずといったように兵長は表情を緩める。
「そんなに俺の顔が面白いか」
 そんなに見たら穴があきそうだ。
 兵長の言葉に、慌てて私は首を振る。
「違います、そうじゃなくて、兵長はなんでこんなに素敵なのかなあとか、手がやっぱり男の人だなあとか、撫でられるといつも気持ちいいもんなあとか、あとは」
「俺が悪かった。泡まみれの手で口をふさがれたくなかったら黙ってくれ」
「……」
 兵長の手なら泡でも何でもついていてくれて構わなかったのだけれど、とりあえず言う通りにした。そのまましばし二人揃って無言で手を洗う。
 すっかり洗い終えて少しばかり冷えてしまった手を、ポケットから取りだしたハンカチで拭う。指先がほんのり赤くなって冷たいけれど、清潔になった手は気持ちがいい。冬場はそれこそ指が取れてしまいそうに冷たいのに、春を迎えると途端に水が心地良くなる。
 そんなことを考えていたら、横からそれはそれは強い視線を感じた。
「……どうしたんですか?」
 視線の正体なんて当然ながら一人で、兵長は物言いたげに私を見つめていた。
「何か拭くものはあるか」
「え?」
「どこかにやっちまったようだ」
 どこかに――というのはきっとハンカチだろう。上着のポケットにいつも入れているそれが、今日は無いのだと兵長は言う。
「私今使っちゃって、新しいのを……」
「いい」
 それでいい、と事も無げに兵長は言う。本当に私のものを使わせてしまっていいのかと一瞬考える。兵長はなんというか、そういったことを嫌がりそうな気がしていたので。躊躇する私に兵長は眉を寄せて、
「手がつめてぇ」
 と呟くものだから慌てた。再度取り出したハンカチで兵長の手を包む。成程確かに先程の私のように冷えてしまっていて、体温で暖めがてら水滴を拭き取っていった。
「はい、できた」
「……悪いな」
「いいえ、全然」
 兵長のお世話ができて嬉しいと言ったら怒られそうなので、黙っておくことにする。
 春の午後は暖かいけれど、そろそろ夕暮れを迎えそうだ。寒くなる前に屋内へ入った方がいい。兵長と私は揃って本部へと戻ることにする。
 手を繋ぎたいなあ。
 そんなことを思ったけれど、外でいちゃいちゃするのはよろしくない。誰に見られてしまうかもわからないし。終業後に二人きりになるまでの我慢だと、自分を律しながら。

   ***

「うっわあ……もう……」
 見てられない。
 思わず口からこぼれ落ちるのはうんざりとした声だ。リヴァイとその恋人――二人とも大っぴらに言いふらすわけではないが、隠しているわけでもないのでハンジは当然知っている――が何をしているのかと思えば、目を覆うほどの惨事であった。ハンジにとっては。
(甘えちゃってまあ……)
 仲間の恋愛事情に首を突っ込みたいわけではないが、あの不機嫌を具現化したような男が、二人きりの時に恋人にどういう態度を取るのかと興味が湧いた自分を呪う。思えば彼女は普段から辛辣なリヴァイの言葉に全くめげる様子を見せないが、それも道理だとハンジは頷いた。けして短い付き合いではない筈だが、あんなに緩んだリヴァイは見たことがない。正直な話、不気味だ。
(見なかったことにしよう)
 そしてこれからはできるだけあいつらの恋路には関わらないようにしよう。
 ハンジのそんな誓いは割と頻繁に破られることになるのだが、今の本人にそれを知る術は無い。

(うわ)
「何だ。人を見るなりしけた面しやがって」
「しけた面が標準装備の人間に言われたかないよ……何してんの」
 ハンジが廊下で出くわしたのは、先程見たくもない密会現場(とハンジは定義づけた)を見てしまったリヴァイであった。あの時とは別人のようだ。いや、ハンジや他の人間にとってはこれがいつものリヴァイなのだが。
「窓枠にガタが来てるようでな。外れでもしたら厄介だろう」
 そう言って窓枠に触れたリヴァイは、途端に眉を顰める。触れていた手を見つめ、舌打ちを漏らした。
「……汚ぇな。ここの掃除担当は何してやがる」
 見れば窓枠には埃が付着していたようで、それが手についたということなのだろう。ナメた掃除をしやがってとぶつぶつ呟くリヴァイには、ハンジは慣れっこである。
 別に用事があるわけでもなく、たまたま通りがかっただけだ。ここで無駄話をしていても仕方がないと、備品管理に窓枠修理を頼んで来ようか――そんなことを言いかけたが、思わず口を開いたまま静止してしまった。
 忌々しそうにため息をつくリヴァイは、ジャケットのポケットからハンカチを取り出して、自らの手を拭っていた。それを見たハンジは、思わずぽろりと口にしてしまう。やめておけと止めてくれる人間は、今のハンジの傍にはいない。
「持ってるんじゃない、ハンカチ」
「あん?」
「だってさっきは――――あ」
 まずい。
 そう思った時には全てが遅い。
 先程の中庭では見たこともない(そして見たくもない)リヴァイの表情を拝んだけれど、今はまた別の意味で見たこともない表情をリヴァイは浮かべている。逃げろ。本能がそう叫ぶのに、迂闊に動けないくらいには。
「ナニモミテナイヨ」
「それを信じるとでも思ったか……?」
「ちょっと待ってよこれ私が怒られるのおかしくない!? あんなとこでいちゃつく方が悪いだろ!」
「……? 誰がいちゃついてたってんだ」
「無自覚かよ! あれがいちゃついてないなら貴方達の『いちゃつく』ってどんだけなんだよ!」
 羞恥と決まり悪さを怒りに変換したリヴァイと、困惑が苛立ちに変わるハンジ。
 この後二人は
「あいつに言うなよ」
「言いたいに決まってるだろ!」
「てめぇ……」
 たまたま通りがかったモブリットが悲鳴を上げて飛び込んでくるまで、口論を続けることになる。
 リヴァイの小さな甘えと秘密が恋人に伝わるかどうかは、この時点ではまだ誰にもわからなかった。


end


ハンジさんへのタオルを届けてやれとモブリットに声をかけるくらいはしてあげる兵長でした
なんでもない日常とか甘えたりとか、そういった日が兵長にもあればいいのにと思います
20160410


「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -