※72話ネタです


奪還作戦の夜明けはまだ遠い


 ウォール・マリア最終奪還作戦が二日後に決行されるとの報は、あっという間に兵団内を駆けめぐった。
 兵長から今日は会議だと聞いていた私は、本日もいつも通り書庫の整理に勤しんでいた。変わらぬ日常のルーチンをいつも通りにこなすのは大切だ。そんな風にして分厚い資料を運んでいる私のところまで、奪還作戦の知らせが入ったのだった。

「兵長たくさん食べてくださいねー」
「ん」
 士気を高めろ肉を食わせろ。
 上官だけでなく新兵にも分け隔てなく。二ヶ月分の食費をつぎ込んだ宴を開催するのだと聞いて、当然私も準備にかり出されることになる。
 流石に奪還作戦の二日前に本を借りにくる兵員もいるまい。昼下がりに呼び出されてから夕餉の時間まで目の回る忙しさだったけれど、何とかこうして皆の前に食事を用意できた。
 新兵に大人の甲斐性を見せつけてやらないと。そんなことを言っていた彼らが、エプロンを巻いたまま乾杯の音頭をとっているのを遠くに眺めながら、私はほっと息をついた。
 皆とは離れて一人座る兵長の元へ料理を運ぶと、袖を引かれたのでそのまま横に座った。
 ちらりと横目で隣に座る兵長を観察する。
 なみなみ注がれたお酒を飲み干しても、顔色ひとつ変えない。
「どうした」
 私の視線に、兵長はすぐに気づく。
 こっそり見ていたのがバレて気恥ずかしくなりながら、ごまかすように料理を指さした。
「ね、お酒だけじゃなくて食べる方も」
「やけに勧めてくるじゃねえか」
 珍しいなと首を傾げる兵長に、そりゃあそうですともと力強く頷いた。
「私もご飯作るの手伝ってたんですよ。せっかく作ったからその……食べてほしいです」
 これでは頑張ったから誉めてとご主人様にせがむ犬のようだ。そんなことを考えて若干気まずくなりつつも、兵長はそんな私の頭の中など気にする様子もなく身を乗り出す。
「ほう。どれだ」
「これと、これと」
 指さす先の料理を取り分けて兵長に差し出すと、皿を受け取った兵長は少しばかり口角を上げて言った。
「指切り落としたりしちゃいねぇだろうな」
「……大丈夫ですよほら!」
 思い切り指を開いて、見せつけるように右手を兵長の前に。
「左手見せてみろ」
「うっ」
 堂々と見せびらかした右手はあっさり無視されて、身体の陰に隠すようにしていた左手を要求される。
 兵長の、この勘のよさは何なのだろう。
 抵抗をしたところでどうせ無駄だ。
 諦めて差し出す左手の、人差し指を見て兵長は眉をしかめた。
「……ちょっと切っただけです」
 慣れない場所で普段使っていない包丁だったから――というのは言い訳で、兵長に食べてもらう時のことを考えていたら完全に上の空になっていたのだ。
「……」
「ついうっかりで、そんなに血も出ませんでしたし」
「……」
「ほんとに大したことないというか」
「…………」
「ごめんなさい不注意でした気をつけます」
「よし」
 兵長は私が怪我をするのを嫌がる。
 過保護だと人は笑うけれど私は笑えなかった。
「痛ぇか」
 傷口に貼られたテープをそっと撫でながら兵長は言った。切ってしまった直後は痛んだその場所も、酒宴の準備をする内に怪我したことすら忘れてしまうほどだった。大丈夫ですよと繰り返しても兵長はしばらく指先をなで回していた。
 散々観察して気が済んだのか、兵長は小さく鼻を鳴らす。
「舐めときゃ治るな」
「後で舐めてください」
「ああ」
「そこは否定してもらわないと……!」
 バカ言えとか何言ってんだとか、そういった答えを予想していたから不意打ちをくらった。
 言い出しておいて何だけれど、周りにはたくさん人がいる。誰も私たちのことなんて気にしていないとはいえ、聞かれたら恥ずかしい。本当に、自分から言い出しておいて何だけど。
 気恥ずかしさをごまかす為に、目の前の肉にかぶりついた。おいしい。
 ここまでの良い肉は中々味わえるものではない。じっくり味わって咀嚼しながら、幸福感に包まれていた。残りは兵長や二日後外に出るみんなに食べてもらおう。留守番組の私より、戦う彼らの血肉にしてもらうのだ。
 そんなことを考えていたら、広間の一角が俄に騒がしくなった。あれは――
「エレンとジャン……ですね」
「あん?」
 先ほどまで大暴れだったサシャを力を合わせて宥めていた筈だったのに。今度はもう別の騒ぎが起きている。
 何がきっかけかはわからないけれど、エレンとジャンが互いを殴り合っては怒鳴っていた。遠目に見えるミカサとアルミンが、何故か微笑ましく見守っているところを見ると、きっと放っておいても大丈夫なんだろう。
「うるせぇ野郎どもだな……」
 舌打ち混じりに視線をやる兵長も、立ち上がる様子は見えない。
「埃が立つじゃねぇか」
 心配するのはそこですかという言葉を飲み込んだ。
「――止めなくて大丈夫なんですかねぇ」
 殴り合いは思いの外長引いて、二人を取り巻く人々からも野次が飛んでいた。騒ぐなと言ったろうと頭を抱えているのは一部で、他は面白がって放置している。
「あいつらリヴァイのとこのだろう? どうにかしろよ」
 いい加減見物にも飽きたのか、近くにいた兵員の一人から声がかかる。言われてみれば彼らは新リヴァイ班だった。
 どうするのかなと横を見やれば、そこには甚だ不愉快だという表情を浮かべた兵長の姿が。
「……」
 小さく舌打ちを漏らすと、億劫そうに立ち上がる。手にしていたお酒のジョッキを手渡され、持っていろと命じられた。
「ここにいろ」
「はぁい」
 罵りあうエレンとジャンは、未だお互いに夢中だ。
 忍び寄る兵長を見て顔色を変える人々に気づくのも僅かで、そうこうする内に兵長の手がジャンの肩にかかって――ああ。

「……ねえ、あんたあれほんとに怖くないの?」
「ちっとも」
 兵長を見て青ざめた顔の兵員からそんな風に尋ねられたけれど、私は笑顔で否定した。

   ◇◇◇

「普段殴られてないのかって真顔で聞かれちゃいましたよ」
「人聞きの悪い」

 強制的に酒宴はお開きになり、各自後片づけを済ませ次第解散となった。洗い物を済ませて食堂を出ると、柱の陰に兵長が立っていた。
「飲み足りねえからつき合え」
 見れば兵長はジョッキを手にしていた。
 兵長に促され、私たちは部屋に戻る前に、ぶらぶらと目的もなく歩いている。
「酔っているから足取りが覚束ない」
 顔色ひとつ変えていない上に足取りもしっかりしている兵長が、さらりとそんなことを言うので私の右手は現在兵長のものだ。
 繋いだ手のひらはほんのり暖かく、かたくなった皮膚とあわせて(ああ、兵長の手だ)なんてしみじみ実感したりもして。
 でもきっと誰かに見つかったらすぐに離されてしまうんだろうな――なんて考えていたら早速物凄い勢いで手が離れて、思わず何事かと目をみはる。
(あ――……)
 静かに、と人差し指を立てた兵長の更に向こう、建物の外にはエレンとミカサとアルミンの三人が腰を下ろしていた。
 彼らの話を邪魔したくないのだろう、静かにその場を離れようと兵長は無言で私を促した。それに頷きを返して、部屋に戻ろうと数歩進んだところで――兵長の足が止まる。

 エレン達がいなくなった後も、しばらく兵長はその場に座り込んだままでいた。
 先ほど漏れ聞こえてしまった会話は、彼らの未来の話だ。
 未来と、希望と、絆の話。
 彼らのそれを目の当たりにして、兵長が何を思うのかはわからない。
 遠くを見つめたまま座り込む兵長の傍らで、私はいつまでも寄り添っていた。

   ◇◇◇

 兵長の部屋の兵長のベッドの上で、兵長の私と私の兵長は二人して転がっていた。
「誰がてめぇのだって?」
「駄目ですか?」
「……いや」
 言葉遊びを繰り返しながら、手を伸ばしては互いの身体に触れる。
 明日の夜は、こんな風に触れあうことは出来ない。
「何だか、妙に疲れたな」
 出発を二日後に控え、体力を残しておかなくてはいけない。兵長がそんなことを私に言い出すのは珍しく、首を傾げると続けて兵長はこんなことを言った。
「補給をさせてくれ」
 言うなり私の首筋に顔を埋め、痛いくらいの力で抱きしめられた。
「……たくさんどうぞ」
 好きにしてください。好きなだけ。

「これは独り言だ」
 ひとしきり求められ、くたりとシーツに横たわる私の髪を弄びながら、兵長はぽつりと声を漏らす。
「……今日……ああ、もう昨日か。俺の言う信頼に足る仲間なんてもんは、結局幻だってことなのかと思ってたところなんだが」
 会議から戻ってきた後、兵長は少し様子がおかしかった。
 酒宴の準備に行かなくてはならなくて、その場では何があったか聞くことができなかったのだけれど。
「それがわからなくなってたんだ、さっきまで」
 おそらく、エレン達の会話のことを言っているのだろう。
「俺が信じることが出来なくても、それが出来る奴らはごまんといるんだ。俺は、」
 信頼に足るもの。仲間の絆。兵長は何が言いたいのだろう――何に、縋りたい?
「ね、兵長」
「何だ」
「私、兵長のこと愛してるんです」
「……なんだ突然」
 唐突な私の愛の言葉に、兵長はわずかながら目を見開く。兵長への告白なんてもう何度も何度も繰り返していて、そろそろ飽きられるんじゃないかななんて思いながらもやめられなくて――とにかく、今宵も愛していますと告げた。
「知ってましたか?」
「当たり前だろう」
 何千回言われたと思っているんだと呆れた口調の兵長に、心の中ではその何倍も叫んでいるんですとひっそり思いながら、更に言葉を続けた。
「疑ったりしません?」
「どうやって疑えってんだ」
 言葉と表情と身体と、全部で兵長が好きだと繰り返す。それを一身に受け止める羽目になっている兵長は、疑う方が難しいだろうと私の髪をくしゃくしゃとかき混ぜている。
「ほら、兵長はちゃんと信じてくれてるじゃないですか」
「仲間とお前は違うだろう」
「そうですか?」
 髪をかき混ぜる兵長の指が気持ちいい。思わずだらしなく表情筋を緩ませる私を見て、兵長は何を思ったのか。
「屁理屈こねやがって」
「兵長のためなら、いくらだってこねますよ」
「……そうかよ」
 兵長の抱えている何かが、少しでも軽くなればいいと思った。
 私にぶつけるのでも縋るのでも甘えるのでも何でもどうぞと笑えば、兵長の腕の力は強くなる。
「例えばね、もし兵長が今すぐ何もかも捨てて逃げるって言い出しても、私は味方になりますよ」
「……言わねぇよ」
「まず言わないですよね」
 兵長ですもんね、と頷く私の頬を、兵長の指がむにむにとつまむ。例えばの話ですってば。
「……お前も、行くなって言わねぇな」
 奪還作戦のことを言っているのだろう。それと――今までの危険な任務の全て。
「断られたら悲しいじゃないですか」
 行かないで。駄目だ。
 そんな流れで置いて行かれたら淋しすぎる。それなら物わかりのいい振りをしながら、信じて待っている方がどんなにか。
「いい子だから言うこと聞けって、宥めるくらいはしてやれるぞ」
「もー……」
 できたら兵長に言う我が侭は、叶えてもらえるものがいいのだ。無茶なことで甘えて困らせたくない。それをわかって言っているのだろうか。
「今度帰って来てくれたら言います」
「そうか?」
「もうどこにも行かないで、ずっと私の側にいてって」
 私が兵長の為に役立てることは僅かだ。それでも傍に置いてほしいと。
「……聞いてやらなきゃならねぇな」
 戻ってきたらもう一度同じことを言うと約束した。
 今度は叶えてやると兵長は小さく笑うと、再び私に手を伸ばす。
 窓の外を見れば夜明けはまだ遠く、太陽が昇るまで目の前の恋人を独占できることに感謝しながら、私はそっと目を閉じた。


end


兵長の無事をお祈りします
20150907


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