※69話ネタです


ビューティフルワールド


 暖かな温もりに包まれていた。
 柔らかな感触に微睡んでいる。その耳に聞こえてくるのは、甘く俺を呼ぶ囁き声だ。
「ん、ん……」
 リヴァイさん。
 優しげな声に胸の中が幸福感で満ちていく。まだ目を開けたくない。瞼の向こうで部屋の中に朝陽が射し込んでいるのがわかる。それでもまだ、こうして心地よく微睡んでいたいのだ。
「リヴァイさーん……」
 無理矢理にでも起こしてしまえばいいのに、声の主はそれをしなかった。そっと俺の肩に触れ、起きて。と内緒話でもするかのように小さく耳元で囁いた。
 触れられた場所がじんわりと暖かい。
 その内に手のひらの感触だけでは満足できなくなって、俺はようやくうっすらと目を開いた。
「あ」
 起きた、といつも通りに邪気のない微笑みをうかべるリンの姿を見るのと、俺の腕が勝手に動き出すのは同時だったと思う。
「おはようございます、そろそろ起き――」
 最後まで言わせずに、愛しい相手を引き寄せた。ベッドに半分乗り上げて、そこに潜っている俺に囁いていたのだ。そのままベッドの住人にしてしまうのは難しくない。
「起き、ないと」
「まだいい」
 腕の中に抱き込むつもりが、ついうっかり相手の胸に顔を埋めるような形になってしまった。あくまで偶然で、別に他意はない。断じてない――いいじゃねぇか俺がこいつをどんな風に抱きしめようと、他人から文句を言われる筋合いはない。
 唯一、文句を言われたら聞き入れなくてはならないであろう目の前の女は、俺の意地などお見通しだとでもいうのか、胸に顔を埋めた俺を何も言わずに抱きしめたままでいる。
「……このところ、お疲れでしたもんね」
「ん」
 疲労などという言葉ひとつで片付けられない出来事の数々。それらの一つにどうにかケリをつけて、昨夜遅くに戻った俺をリンはただ一言
「おかえりなさい」
 とだけ言って出迎えた。
 風呂で存分に身体を清め、倒れ込むようにして眠りについたのだ。久方ぶりの長時間の睡眠は俺の身体に異変をもたらしたとでもいうのか、今の俺はリンから離れることができない。
 ――夢を、みていたような気がする。
 ガキの頃の夢だ。
 悪夢ではなかったのだろう。その証拠に、今こんなにも穏やかな心持ちでいる。
 リンは俺を胸に抱きしめたまま、ゆっくりと俺の頭の後ろを撫でていた。優しい手のひらの感触。回した腕に伝わる曲線のライン。柔らかい胸からは小さく鼓動が聞こえて、きっと今この場所が、世界中のどこよりも平穏なのだと思わせるような。
「……」
 声も出さずにリンの身体に鼻先を擦り付ける。くすぐったい、と笑う声はどこまでも甘い。こんな、いい年の男が甘ったれている姿は見られたものではないだろう。だというのに、リンはなおも俺を抱き寄せるのだった。
 昨夜も、こんな風にしがみついてしまっていたのだろうか。何せ眠る前の記憶が所々抜け落ちていて、何をやらかしていたっておかしくない。
 醜態を晒す前に――と思ったのは一瞬だ。どうせこいつにはみっともない姿も散々見せている。今更格好を付けたところでどうしようもない。
 いつもは俺の腕の中でうっとりとされるがままになっているリンが、今は逆に俺を抱きしめているのだ。気恥ずかしさは拭えないが、この心地よさを手放すことなど今の俺には到底できそうもない。
 どこにも行かない。俺を置いていくことをしない、唯一の。
「まだ眠かったら寝ててもいいですよ。あんまり寝ると今夜困るかなって思ったんですけど……」
「そば、に……」
 抱きしめられる心地よさにすっかり溺れている俺は、既に半分夢の世界へと引き込まれている。
「いますよ。ずっと……だから、安心して」
 眠る間に失うことを無意識に恐れたのか、力のこもる俺の身体をリンはそっと撫でた。穏やかなその声で、ようやく俺の身体は脱力する。
 暖かくて、柔らかくて、いい匂いがする。
 愛しい相手の温もりだった。
 いつか、これと似た、でも全く別の気持ちになったことがある。思い出せないほどずっと昔に。こんな風に、世界中のどこよりも安堵できる腕の中が、どこかに。
「――――かぁ、さん」
 最後に自分が何を呟いたかわからないまま、俺はいつしか眠りに落ちていた。



「……そろそろ出てきましょうよぉー」
 数時間後、今度こそ覚醒した俺の頭を埋め尽くしたのは「やらかした」という単語のみであった。
 今度は夢も見ないで深く深く眠り込んでいたようで、ふと気づいた時には柔らかいものに包まれていたのだ。
 それがリンだと気づくのにさほど時間は必要なく、気づいたと同時に思い出した。いっそ忘れたままでいたかった。眠る前の己の醜態は「寝ぼけていた」の一言で到底片付けられるものではなく、俺は目覚めたままの体制で固まるしかできなかった。
 顔が上げられない。リンの表情を伺う勇気が出ず、胸に顔を埋めたままだ。どちらが恥かというのはこの際問題ではない。
 しかしながらいつまでもこのままではいられないだろう。皮肉なことに大変心地良い現状ではあるが、今の内に離れなくては。
 どうかまだ起きていてくれるなと、真剣に願う。先にベッドから出て、眠る前のあれをなかったことにしたい。そんな俺の願いも空しく。
「あ、目が覚めましたか?」
 そっと顔を上げた俺の目に映るのは、にこにこと笑うリンだった。おまけに。
「いい夢でも見てたんですか? リヴァイさん笑ってました……ふふふ、かわいかった」
 ――撃沈した。
 三十をとうに越えた男が、愛しい相手に甘ったれてしがみついて寝た挙げ句、可愛いと評される衝撃がわかるか。わかったところで答えられてはたまらない。

 結果として俺は、こうしてシーツに潜り込んでいるのだった。

「照れてるリヴァイさんが珍しくて、つい意地悪しちゃっただけですよぉー」
 もう言わないから、とシーツ越しに俺の身体を揺するが、とても今の顔を見せられはしない。自分でもわかる程に顔が熱い。
「……」
 むっつりと口を閉じて無言を貫く。なかったことにしたい。ここ数時間の出来事をなかったことにしたい。できる筈がないとわかっていても。
「もう意地悪しないから、顔見せてくださいよう」
 甘える声は可愛らしいが、こんなみっともない顔を晒せる筈がない。何か言わなくてはと思うのに、もごもごと口ごもるのが精一杯だった。
「……んー」
 リンは小さくため息をつく。まさか愛想が尽きたとでも言うのか。シーツにくるまる俺にしがみついていた筈のリンが、そっと離れていくのを感じた。ベッドからゆっくりと降りて、更に離れる気配がして。
「じゃあ、リヴァイさん。私……」
「――っ」
 たまらずに勢いよくシーツを跳ね上げた。
 そこにいたのは目を丸くしたリンで、ぽかんと口を開けたリンの腕を俺が掴むのと、ほぼ同時だったろうか。
「俺を捨てるのか!」
「……先にご飯の支度してくるので、ちょっと待っててくださいねって……」
 ――――よし、穴を掘って埋まるとしようか。



「私がリヴァイさんと離れて生きていけるわけないじゃないですかーもー」
 俺の恥ずかしすぎる醜態は、幸運なことにリンに愛想を尽かされる材料にはならなかったようで、今のリンはでれでれと俺にしがみついていた。
 あのまま窓から装置無し立体機動の体勢に移ろうとした俺だったが、すぐにリンが飛びついてきたものだから断念せざるを得なかった。
 遅くなった昼食を済ませ、片付けたところでずっと晴れやかな笑顔だったリンが、改めてしがみついてきたのだった。
 腑抜け切った表情は、お前本当にそれで良いのかと問い質したくなるほどに満足そうだった。俺のことが好きだと小さく繰り返しながら頭を擦りつけてくる。何がそんなにこいつの機嫌をよくさせるのか、俺にはわからない。いつもそうだ。
「そもそもですよ。私ばっかり甘やかされてるのが不公平ですもん。リヴァイさんだってちょっとくらい甘えてくれるべきなんです」
「そんな理屈があってたまるか」
 吐き捨てる口調ではあるが、今日は表情筋がどうにもおかしい。油断しているとしまりのない面構えになってしまう。
「そういうのは……みっともねぇだろう」
「私みっともないですか?」
「バカ、違う」
 俺の言葉で途端にしょぼんと眉を下げるリンに、慌ててそうではないと声をあげる。
「一応、俺がそんなだと格好がつかねぇだろう」
 寝惚けている時は格好付けても仕方がないと開き直れた。だが今はとてもできない。
 男としての面子の問題だと口ごもるが、リンはいまいち理解していないような顔をしていた。
「私がリヴァイさんのこと抱っこして寝ると、格好がつかないんですか?」
「……言うな、頼む」
 ようやく少し忘れかけていたというのに。
 頬が熱くなるのを感じながら、もうしないと呟く俺を見て――おいなんでそんな悲痛な面になりやがる。
「リヴァイさんは……っ私に可愛いところ見せたくないくらいにしか、私のこと好きじゃないんですね……っ」
「待てオイ何がどうしてそうなった」
「私はリヴァイさんの格好いいところも可愛いところも、世界で一番好きなのに……っ」
 絶句した。
 よくそんな恥ずかしい言葉を次から次に口にできるものだと思う。好きだと、愛しているとこうも素直に口にできるところは生涯勝てる気がしない。
「別に……そういうんじゃねぇよ。俺だってな、あれだ……」
 クソ、泣きそうだった癖にきらきらした目でこっちを見るな。
「……お前が、甘やかしてくれんのか」
「むしろ私にだけ甘えてください」
 独り占めです! と笑うリンを見て、俺は敗北を悟ったのだった。
 その後。
「リヴァイさんに甘えるのも甘えてもらうのも大好きですよ」
 そんな台詞を恥ずかしげもなく口にするリンの説得――という名の俺の正当化――を経て、俺は時折ああやって存分に甘やかされることになる。
 ――シロップ漬けになった気分だ。
 ある日の俺の言葉だった。



「おはようございます」
「ああ」
 翌日、まだ日が昇ったばかりの早朝のことだ。まだ眠そうにしながらも――昨夜の俺のせいだ――リンは健気に起き出してくる。
 おはよう、と返す俺は、既に兵団の礼服に身を包んでいた。
 礼服と言ってもいつもの格好にロングコートを着込んだだけのものだ。俺は民衆に大々的に姿を晒すわけではないので、そう大した支度もいらない。
「戴冠式には他の皆さんと?」
「いや、俺は別行動だ」
 新しい女王を民衆に知らしめる式典だ。ようやく一つ前に進むことができる。
 まだ頭の痛い問題はいくつも残されているが、それでも命すら危うかった一時期を思えば上出来だった。
「そんな格好になると、途端に兵長って感じですねぇ」
「そりゃどんな感じだ」
 散々脅して最近ようやく人前でも名前で呼ぶことに慣れさせたのに、これでまた兵長と呼ばれ出してはかなわない。
 シャツの襟を正していると、リンがクローゼットの引き出しから何やら取り出して俺に手渡そうとする。
「つけていきますか?」
 しばらく前まで、いつも俺の首に巻かれていたスカーフだった。きちんと洗濯を繰り返してはいるが、古いものなので流石に痛んできている。
 元はスカーフではない。もっと別の──最初に身につけていた人物は遠い憧憬の中だ。擦り切れて着られなくなってしまっても、捨てることができずに残していた俺の弱さの象徴だった。
 ――あの日、自らが繰り返し屠り続けていたものの正体に気づかされた日から身につけるのをやめた。
 山小屋へ潜むことになって、預かっていてほしいとリンに手渡していたのだが――律儀に持っていたらしい。
「いや……大丈夫だ」
 そっと撫でて手触りを確かめる。またしまっておいてくれと促すと、リンは小さく頷いてその通りにした。引き出しの中にそっとしまい込まれたそれを、いつかまた身につける日は来るだろうか。
「そろそろ時間だ」
 ここからミットラスまでは、馬車でもかなりかかる。あのまま滞在していた方が都合は良かったのだが……会いたかったのだ。誰にとは今更言うまでもない。
「はい。お帰りをお待ちしてますね」
 にこやかに笑う姿は朗らかで――物わかりがよすぎる。
「何だ、淋しくねぇのか」
 昨日の意趣返しにわざとニヤリとからかえば、リンは盛大に照れながらも
「淋しいからちゃんと帰ってきてくださいね」
 などと身体をもじつかせていた。
 しまった。こういう勝負を仕掛けて俺が勝てたことは少ないというのに、すっかり忘れていた。
 素直に向けられる愛情は、いつも俺の心にすとんと落ちた。もうきっと、手放すことはできないだろう。諦めて生涯傍にいてもらう他ない。
「……帰ってきたら、また甘やかしてくれ」
「もちろん、好きなだけ」
 いってらっしゃい、リヴァイさん。
 空は青い。珍しく睡眠も足りていた。好きな女と愛し合えた。けして失うことのない唯一の存在を手に入れて――もう大丈夫だ、と心の底から感じることができた。
 手を振るリンに口づけをひとつ落とし、すっかり晴れやかな気持ちで、美しい世界に俺は足を踏み出した。


end


お母さんに優しく抱きしめられたことのある優しい兵長を全力で抱きしめに行きたいです
20150511


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