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 一応医務室に行け、茶ならまた今度一緒に飲んでやるからと何度も言い含められて、仕方なしに頷いた。休憩時間を兵長と過ごせなくなってしまうのは淋しいけれど、心配させたままなのも申し訳なかったし。
 医務室までの廊下を一人歩く。何の気なしに顔に触れてみると、ちくりとした痛みに襲われた。
「……? どこか切ったかな」
 廊下に置かれた大きな鏡で確かめてみると、下唇がほんの少し切れていた。落下した時に、歯で切ってしまったのだろうか。
 端から見れば間抜けであろう顔をして鏡の中の自分の唇を観察していると、突然後ろから声が聞こえた。
「オイ」
「わひゃあぅっ!?」
 びくんと身体を震わせて、慌てて振り返ると、そこには。
「何て声だ、そりゃあ……」
「人通りがないから油断してたんですよ!」
 人の気配がないものだから、唐突に聞こえてきた声に本当に驚いてしまったのだ。
 声の主──兵長は、先程廊下で別れた筈なのにいつの間にか私の背後にいた。
「どうしたんですか?」
「……切れてるだろう、塗っとけ」
 ずい、と目の前に出された手。思わず私も手を出すと、その上にポンと何かを置かれた。
「使いかけだが、嫌なら捨てろ」
「捨てませんよ!」
 私の手のひらに乗せられたものをよくよく観察してみると、丸い缶に入ったリップバームだ。兵長が使っているものだろうか。意外なような気もするし「らしい」ような気もする。
「ありがとうございます……!」
 嬉しい。
 兵長が何かをくれたというだけではなく、こんなちょっとした傷を気遣ってくれたことも嬉しい。
「大事にしますね……」
「いや、ちゃんと塗れよ」
 このまま永久保存しておきたいと缶を両手で握りしめる私に、使わないなら返せと兵長は言う。
「駄目です使いますちゃんと塗ります」
「ん」
 ならいいと頷く兵長。その顔を見ると──おや。
「あれ? 兵長も切っちゃったんですか?」
 よくよく見ると、兵長も唇に傷のようなものを作っていた。
「……っいや、これは、違う。別に、そういうんじゃねえ」
 そういうとはどういうのだろう。
 急に落ち着きがなくなった兵長を見ていると、ひとつ思い付いてしまった。
 まずありえないし、きっと私の勘違いだとは思うのだけれど。
 階段から落ちた時、顔面に衝撃を感じたのは兵長の顔がぶつかったからではないだろうか。
 顔というかその、兵長の──唇が。
 そしてその唇が当たった場所は。もしかして。
「俺はもう行く。いいか、ちゃんと医務室も行けよ」
「あ──」
 もしかして兵長、さっき私と──と声をかける暇などどこにもなかった。
 足早に去っていく兵長を見て、忙しい中追いかけてきてまでこれを渡してくれたのだと思うと、じわじわと嬉しさがこみ上げてきて、もらったリップバームをそっと抱きしめた。
 そうだ、いくら何でも私の勘違いだ。
 もしも想像通りなら、兵長があんな普段通りなわけがない。
 きっとすぐさま飛び退いて、拭ったりうがいをしたり、そういったことをしそうだし。
 気のせいに違いない。聞かなくてよかった。

 ──兵長、さっき私とキスしませんでしたか?

 なんて。

***

「ん、んー」
「こら、じっとしてろ」
 あの出来事から、しばらく時間が経った。
 現在の私はといえば、兵長の寝室の兵長のベッドの上で、兵長に背後から拘束されるようにして座っていた。
「くすぐったいんです」
「口の周りべたべたになるだろうが」
 拘束というのは語弊があるかもしれない。
 兵長は後ろから私を抱きしめ、その長い指で私の唇を何度も往復させていた。
 勿論なんの意味もなくそのような行為に走っているわけではない。
 つい数分前のことである。

「んー」
「どうした」
 何となく違和感があって、鏡で確かめてみるとやはり唇が少し荒れていた。最近ちょっと保湿を怠ってしまったからかもしれない。
 私の仕草で何をしているのか気付いたのか、兵長は机の抽斗からいつかと同じ丸い缶を取り出した。
「使うか」
「あ、ありがとうございます」
 そのまま手渡してくれるのかと思いきや、兵長はベッドへ上がって座り込んでしまった。
「兵長?」
 呼びかけても答えはもらえず、黙って手招きしている。
 来いと言われるならば私が逆らう筈もなく、大人しく私もベッドに上がる。そのままくるりと身体を反転されて、あっという間に兵長の腕の中に閉じこめられた。
「塗ってやろう」
 ──恥ずかしいと逃げだそうとした時には、全てが遅かった。

「ちゃんと、よく塗り込んでおかねぇとな」
「ん……っ」
 もう充分すぎるくらい塗られている気がする。何度も兵長の指が唇を往復して、ひんやりとした感触だった薬品はすっかり温まっていた。
 それでも兵長の指は私の唇を辿るのをやめてくれず、くすぐったいというよりも段々他の感覚が背中をぞくぞくと這い上がる。
「や、もう大丈夫……」
「ちゃんと塗らねぇと治らねぇぞ」
 どうせ触れるなら柔らかい感触がいいと、わざと耳元で囁く兵長に一瞬で力が抜けた。
 ずるずると背中にもたれるようにすると、兵長が後ろで楽しげにひっそりと笑うのがわかった。
「……ぷるぷるの唇になったら、ちゃんとキスしてくださいね……?」
 もぞもぞと振り返ってそう告げる。
 私の言葉に兵長は一瞬目を見開いて、そのまま顔を寄せてきた。
「せっかく塗ったのに、取れちゃうじゃないですか」
「俺も最近荒れがちでな」
 とてもそうは見えないのに、私の唇に自分の唇を擦りつけるように何度も口づける兵長。私がとろんと表情を溶かすのに、時間は必要なかった。
 リップバームの薄い香料がふわりと香る。冬場の兵長とのキスで特によく感じる匂いだった。それを思い出してうっとりと目を閉じる。
 そのまましばらく口付けの感触を楽しんでいると、不意に昔のことが頭を過ぎった。香りで記憶が思い出されたのかもしれない。
「前に、兵長にこの缶もらいましたよね」
「……そうだったか?」
 覚えがないなと素知らぬふりで目を逸らす兵長。こういう時は間違いなく、兵長も思いだしている。
「私思ったんですけど、あの時私達」
「黙れ」
 文字通り口を塞ぐように再開されたキスに、私は自分の想像が間違っていなかったことを知る。
「……レモンの味、しませんでしたね」
 私達のファーストキス。
「黙れって言ってんだろうが」
 階段から転がり落ちて、味どころではなかった。
 そもそもキスしていたかどうかも気付けなかったし。
 くすくす笑う私の頬をつまむ兵長。軽く睨みながらしばらくむにむにとつまみながら、ぽつりと呟いた。
「レモンがいいのか」
 今度囓ってからやってやろうかと真面目な顔をする兵長に、そうではないのだと笑った。
「レモンを味わいたいわけではなくてですね……たまーに言うじゃないですか、ファーストキスはレモンの味なのって」
「聞いたことねぇぞ」
 兵長は知らなくてもなんとなく納得できてしまう。
 まあ、そう言う私も物語の中くらいでしか聞いたことはないのだけれど。
「もういいのか」
 続きをしても。
 そう言いつつ今日何度目か、もう数え切れないほど繰り返された口付けが再開される。
 しっとりとした兵長の唇の感触を味わいながらふと目を横にやると、きっちりと蓋の閉められた丸い缶が目に入る。
 それを見た私は思い出していた。

 まだ恋が叶わずにいた頃。使い終わってから捨てられるはずもなく、大事に大事に自分の机の抽斗にしまい込んだ宝物。
 兵長からもらった、あの丸い缶のことを。


end


「人類最強の香り」のリップバームだなんて反則過ぎて
※ローソン
20140729


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