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「──という、わけなんですけど……」
息も出来ないほど笑い転げている人なんて久しぶりに見た。
私が話す内にハンジさんの口角は少しずつ上がってゆき、全て話し終える頃には椅子から転がり落ちて笑っていた。爆笑だった。
ひぃひぃと呼吸困難に陥りながら肩を震わせている。
「やばい……おっさんの純情やばい……!」
ダメだごめん苦しい笑いすぎてお腹いたいの通り越して背筋がやばい。
崩れ落ちるハンジさんに手を貸した方がいいのか、それともそっとしておいた方がいいのか迷う。
「そ、そんなにおかしいですか……」
あまりにハンジさんが笑い転げるものだから、段々不安になってきた。ひとしきり笑って気が済んだのか、若干咳き込みながらも復活したハンジさんの背中をさする。眼鏡を外して涙をぬぐっている。
「ごめんごめん、あれでも大事な恋人だもんね。あんまり笑っちゃ悪いよね」
「いえ、お気になさらず……」
恋人として庇ってあげた方がいいのかもとちらりと思わないでもないのだが、ここまで全力で爆笑されるとまあいいかな、と思えてしまうから不思議だ。
「あれだけ強引そうな男が『一緒に寝よう』が言い出せないっていう衝撃に腹筋をやられた。なんだろう、これがギャップ萌えっていうやつなの?」
私にはさっぱりわからないけどと真顔になるハンジさん。言われてみれば確かに兵長の言動の差異にときめいてしまう私なので、ハンジさんの言うことは当たっているのかもしれない。
真面目な顔をしてうなずくと、ハンジさんは「はは」と目を細めて笑った。先程のような発作を起こされなくて安心する。
「ねぇねぇ、じゃあもしかして他の秘密もあったりする?」
「えっ」
改めて眼鏡をかけ直したハンジさん。レンズの向こうの瞳が好奇心できらりと光った。まずい。
「……ないですよ?」
「睡眠はわかったけど、入浴に関してとか」
「……っ! ない、ですよ?」
必死に目を逸らして何もないと言い募る。
あるわけない……ということにしたいので、どうかここは誤魔化されてくれませんかハンジさん。
再びじわじわと距離をつめるハンジさんから、どうにかして逃れなければ。だってこれは流石にまずい。ベッドで眠るくらいのことなら、話してしまっても何とか誤魔化しがきくけれど、お風呂はまずい。どうやってもまずい。
だって、今思い出しかけてしまっている記憶だけで、少しずつ顔に熱が集まって。ああ。
***
「何だ。風呂入ってきたのか」
「今日は済ませてきましたよー」
夜、兵長の部屋を訪ねると怪訝そうな顔をされた。
髪がまだ少し湿っていたからかもしれない。
「こっちの風呂使えばいいだろう」
「毎日借りちゃうのも申し訳ない気がして」
兵長の私室に備え付けられたお風呂は、大浴場のように広くはないけれど、それでも立派なものだった。一人で、時には二人でゆったりと過ごすことができる空間はとても魅力的ではあるが、そう毎日入らせてもらうのも気が引ける。お風呂掃除の時ですら本気を出して磨きあげる兵長を間近に見ていると、特に。
「気にすんなって言ってるだろうが……」
湿り気を帯びた髪をひとしきり指先でもてあそんだ兵長は、私をソファに座らせるとグラスの水を手渡してくれた。
「俺も入ってくる」
そう言い残してお風呂場へと消えていった。
それを見送った私は、渡された水を飲みつつぼんやりと涼んでいた。湯上がりの暖まった身体に冷たい水が心地よく、そのままソファに沈み込みそうになって慌てて姿勢を正す。流石にここで眠ってしまうわけには──
「寝るなよ」
「相変わらず早すぎませんか!?」
まだグラスの中身は半分も減っていないのに、ほんの数分で兵長は浴室の扉を開けて出てきた。がしがしと乱暴に髪を拭きながら。かろうじて腰にタオルは巻いているけれど、上半身は丸出しで視線のやり場に困る。
「この後散々見るのに何言ってんだ」
「……! それは、そう、なんですけど……っ」
お風呂に入っていたのはほんの数分だったというのに、兵長の身体はどこもかしこもいい匂いだ。石鹸の香りが兵長の匂いと混ざってふわふわと漂うのを感じて、視覚だけでなく嗅覚からも刺激される。
「ちゃんと温まれましたか?」
「この後温まるからいい」
「もー……」
何度言っても、兵長は物凄いスピードで入浴を済ませてしまう。私はといえばお風呂場でのんびりと過ごすのが好きだったりもするので、兵長の素早さに目を見張るばかりだった。
「終わった後なら好きなだけ俺ごと湯に漬け込んでやる」
「沈めるみたいに言わないでください」
その癖、私と入るときにはやたらと長風呂したがるので不思議だ。私を後ろから抱きかかえて拘束しつつ、暑いからもう上がると言っても「百まで数えろ」などと子供に言うような台詞で捕まえられて解放してもらえない。
「兵長と入るとのぼせそうになるし、あちこち揉まれるし大変なんですよ」
私が兵長の腕から逃れられないということは、兵長はありとあらゆることをやりたい放題だ。
首筋を噛まれたり胸やらお腹を揉まれたり。くつろぐ為に入る筈のお風呂で、いつもぐったりしてしまうのは本末転倒ではないかと思う。
「嫌なのか」
「……嫌じゃ、ないですけど……」
恥ずかしながら、それがちっとも嫌ではないのだけれど。
***
──流石にこんなことを人に話すわけにはいかない。
恥ずかしいし、間違いなく兵長に怒られるし。
こういうのは二人の秘密でいい。既に秘密にしておかなければいけないようなことを散々話してしまっている気もするけれど、これ以上は私の羞恥心がもたない。
「顔真っ赤」
「気のせいです! そうだ私そろそろ行かなくては」
気付けばすっかり長居をしてしまっていたし、淹れてもらったコーヒーもすっかりぬるくなってしまっていた。カップに残っていた分を一気に飲み干して立ち上がる。
「ごちそうさまでした!」
「えーもうちょっとゆっくりしていきなよ」
「いえもう本当においとまします!」
引き留めたがるハンジさんの腕から逃れようとじたばたしていると、不意に扉が開いた。
「おいクソメガネ。妙な本が送りつけられてきたが、あいつに見せるんじゃ──」
ねぇぞ。
そう言って入口で固まっているのは、言うまでもないけれど兵長だった。
「……お、おつかれさまです……」
三人揃って固まってしまったけれど、最初に我に返ったのは私だった。
その言葉に兵長とハンジさんも正気を取り戻し、何となく見つめ合ってしまう。
ふと兵長の視線が逸らされて、そのままテーブルの上に──まずい。
「あ」
隠そうとしても無駄だった。
兵長はあっさりと机の上に置かれた雑誌を見つけてしまう。おそらく先程言っていた「妙な本」を。
「……読んだか」
「…………」
読んでませんよと言ったところで即座にバレてしまいそうだけれど、正直に言うのも怖い。結果として無言を貫き通すしかないが、これでは読んだと言っているようなものだ。
ハンジさん何かフォローを──と助けを求めるように背後を見ると、ハンジさんはまたも身体を折りたたむようにして爆笑していた。声を出さないようにはしているものの、それだけ肩が震えていたら笑っているのがバレバレだ。
「あの、私……仕事場に戻りま──」
「もう終業だ」
静かな兵長の声が恐ろしい。
「来い」
短い言葉なのに威力が凄まじい。
どうにかして逃げ出さないと恐ろしい目にあうということはわかっているのに、肩に食い込む指を外すこともできない。
「は、ハンジさん……」
「……骨は拾うよ」
健闘を祈る、とにこやかに笑うハンジさんとずるずると部屋の外に私を引きずり出そうとする兵長。
その二人の間で、私は情けない声で悲鳴を上げるしかできなかった。
***
賑やかな二人が──正確には賑やかな一人と無言の一人が部屋を出て行って、ハンジの研究室は静寂に包まれた。
机の上には件の雑誌が置かれたままになっていて、明日にでもあの子に渡してやろうと一人で笑う。リヴァイは阻止したがるだろうが、先程見捨ててしまった罪滅ぼしもある。
先程のリヴァイの表情は傑作だった。
あのリヴァイが、いつも苦虫を噛み潰したような顔を浮かべ、クソが豚がと口を開けばそんな言葉ばかりを吐き出すあの男が、一瞬にして顔を朱に染めていた。
ハンジからすれば「わぁ気色悪い」の一言でしかないのだが、先程までハンジがからかっていた彼女にとっては違うのだろう。
途中までしか聞けなかったけれど、自分の知るリヴァイという男とは随分と違うようだ。
認識を改めた方がいいのか、それとも聞かなかったフリをしてやった方がいいのか。
睡眠も食事も入浴も、どれも最低限のものだけでいいのだとしれっとのたまっていた男。それがハンジや他の人間から見ても表情を変えた日のことを覚えている。
「あれリヴァイ。随分血色がいいね」
いつもの顔色が嘘のようだよ。
ハンジの軽口に、いつものようにうるせぇとか黙れとかそういった言葉が返ってくるのだと思っていたのに、その日は違った。
「……すげぇ寝た」
「珍しい。何時間?」
「八時間」
「うっそ」
理由を話そうとはしないけれど、リヴァイは夜あまり眠ろうとしないようだった。慢性的な睡眠の不足は男の顔色と目の周りをどんどん暗くしてゆき、いつしかそれが当たり前になっていたのに、それが八時間。
「……夢も見ねぇで寝た……」
「それはそれは」
結構なことだねと頷いたハンジの脳裏に、一人の姿が浮かぶ。
ついこの間、目の前のリヴァイが恋に落ちた。
ハンジや他の人間からすればそれはとうに解っていることだったけれど、リヴァイ本人がようやく認めたという方が近いだろうか。
「あの子と一緒に寝た?」
「…………」
この場合の無言は肯定と同じだ。
「良かったんじゃない?」
人間にとっての三大欲求の一つ、それが満たされるようになったのならば良いことだ。これでもハンジはそれなりに仲間想いのつもりでいた。
「まあ満たしてもらってるのは睡眠欲だけじゃないだろうけど……いった!」
下世話な話題に触れようとした瞬間、リヴァイの拳が飛んでくる。頭を押さえて酷いと文句をつけたところで、リヴァイが気にする筈もない。
「なくさないように、大事にしなね」
「……そんなことはわかってんだよ」
誰がなくすものかと吐き捨てるリヴァイに、その時のハンジは「ごちそうさま」と苦笑したのだった。
先程のあの様子ならば、きっと今もリヴァイは健やかな睡眠を得ることができているのだろう。少なくとも、二人で居る夜だけは。
一人ではまともに眠ることすらできない不器用な同僚とその恋人を思い、ハンジは誰もいなくなった部屋でそっと笑みを浮かべた。
***
「引きずらないでくださいいい」
「うるせぇなこれでいいのか」
「かつぐのもナシでお願いします恥ずかしい!」
「言うこと聞いてやるのはいっぺんだけだ」
「せめて人通りの少ない道でぇぇ……!」
「よし、食堂の前の道だな」
「一番人が多いじゃないですかー!」
騒がしい二人の声に、何事かとあちこちの部屋から兵士達が顔を覗かせる。
そしてその声の正体を認めると、すぐさま元の位置へと帰っていく。
なんだ、またあの二人か。
そんな、諦めにも似た苦笑を浮かべながら。
end
FRaUの質問コーナーにおける兵長の生活感を見て、せめて妄想の中ではベッドでもふもふになったり、お風呂でゆっくりしていてほしいなという願望の産物です。
20140723