満ち足りたもの


 それは俺がやりたくもないデスクワークに励んでいる時のことだった。
 目の下にクマをつくったハンジが、書類にサインを寄越せと部屋へ乱入してきた。
 またおかしな実験をしているのか、寝る間も惜しんでという様子に眉をしかめた。日頃からおかしな奴だとは思うが、徹夜が続くとハイになるのかますますおかしな人間になる。巻き込まれるのはごめんだった。
 サインを済ませてさっさと追い払おうとしたのに、勝手に息抜きだと称したハンジは執務机の傍らのソファに陣取った。おい。寝る間も惜しんで実験しているんじゃないのか。
「リヴァイがリンに手を出してだいぶ経つけど、二人は相変わらずだね」
「あ?」
 人聞きの悪い言い方をするんじゃねえ。
 誰が手を出した──と言いたいところだが言えない。何故なら確かに俺はリンに手を出しているからだ。それも、随分前から。
 直属の部下ではないものの、同じ兵団に所属する一般兵と恋仲になることの是非はこの際置いておく。誰に陰口を叩かれようと、手放す気など更々ないのだから無駄だ。
「相変わらずとはどういうことだ」
「ラブラブ」
「……」
 否定はしない。
「うわーのろけやがって。そのしまりのない顔を、部下達に見せてやりたいよ」
「見せ物じゃねぇぞ」
「のろけてるのとしまりがない顔なのは否定しないんだ……」
 溜息をつくハンジ。これじゃ休憩のつもりが逆に疲れるとこぼすものだから、ならさっさと自分の研究室へ戻ればいいと告げた。
「……そろそろリンがお茶持ってきてくれる時間だからだろ。私のこと追い出そうとしてるだろ」
 図星ではあったが認めるわけにはいかない。
 先程さり気なく時計を確認したつもりではあったが、こいつにはバレていたということか。小さく舌打ちをすると、にまにまと面白げな表情でこちらを見つめてくるのが不愉快だ。さっきまではあんなにつまらなそうな面をしていたというのに。
「そうかそうか。リヴァイはリンと二人っきりのお茶の時間を邪魔されたくないのか」
「帰るのか」
「まさか。そういうことなら私もご相伴にあずかろう」
「嫌がらせか」
 こうなってしまったハンジに、出て行けと言ったところで聞くはずがない。
 別に、休憩時間に必ずしも二人きりで過ごすと約束しているわけでもない。リンが忙しければ来られないこともあるし、毎日茶を飲まなければ死ぬというわけでもない。二人の時間を確保したいのなら、就業時間の後にいくらでも俺の部屋に籠もればいいからだ。
 俺が呼べばリンはすぐにやってくる。それも、嬉しそうに。一人で寝る方がいいかと意地悪く尋ねると拗ねた顔はするが、俺の胸に顔を埋めて無言で首を振る。それを抱きしめてやれるのは俺だけの特権だった。俺だけはそれが可能なのだ。
「……こりゃ倦怠期とは無縁そうだ」
「あん?」
 一人思考の海に沈みそうになっていた。
 ハンジの声に一人ではなかったことを思い出して、慌てて表情を取り繕ってみる。「無駄だよ」うるせえ。
「すぐ放り出すようなら最初から手なんて出さねぇぞ俺は」
「ああ……そうだね。ずっとあなたは恋愛に興味が無いと思ってたんだけど、単にゼロか100かの男なんだって知った時は驚いたよ」
「何だそれは」
「いやこっちの話」

 ──あの子も同じだといいんだけど。

 ハンジが聞き捨てならないことを言う。
「おい、どういう意味だ」
「ん? 倦怠期についてさ。双方の感情のメーターが常に同じであればそれは幸福なことだけど、片方の愛情が少しずつ目減りしていくパターンだとしたら、ずっと同じ愛情を維持するタイプとはしんどいだろうなって──悪かった。これは私の個人的見解だよ。何も、リヴァイとリンがそうだなんて言ってないから。本当だから。悪い冗談だとでも思ってくれ」
 だからそんな顔しないでよ。
「そんな顔ってどんな顔だ」
 鏡もねぇのに自分の面など拝めない。
 倦怠期?
 言葉の意味はわかる。
 けれどそれが自分の身に降りかかってくることなど、今まで想像すらしたことがなかった。
 いつかリンが俺の腕の中からいなくなる日がくると、そういうことか。
「……悪かった。そこまでダメージ受けると思ってなかったんだ。リンがリヴァイに飽きてるなんて、誰が見てもそんなことないからさ」
 暇つぶしにからかっただけだ。今度お詫びをするよと手を合わせるハンジ。それに無言で頷いた。
 ああ、今すぐリンに会いたい。
 俺に飽きているかと問いつめて、そんなわけはないと否定されたかった。ハンジの前でもいい。笑われても構わないから、どうか。



 悪いことは重なるもので、俺の不安を払拭してくれる筈の存在はその日俺の執務室に現れなかった。
 からかったお詫びに邪魔をするのはやめておくと、ハンジは既に退室していた。結果としてその気遣いは無駄に終わったが。
 きっと、仕事が立て込んでいるのだろう。
 書庫で本に埋もれている姿が目に浮かぶようだ。
 昼間は珍しく来なかったな、とさりげなさを装って聞こうと決めた。きっといつものように、会いに行けなくて淋しかったと抱きついてくる筈だ。今日は邪険にしたりせず、素直に抱きしめ返したい気分だ。とても。
 そんなことを考えながら、廊下を歩いていた。
 別にリンを探しに書庫へ行こうというわけではない。
 今日の仕事は全て終えてしまっていたし、晩飯にはまだ時間がある。ただ、たまには本部内を当てもなくぶらつくのも悪くはないなと思っただけだ。
 足が勝手に書庫に近づいているだけで、俺の意思はそこにはない。

「──……」
 リン、と口から出る筈の言葉は、ひとつも音にならなかった。ただ口を開いている俺の姿は、端から見れば間抜けそのものだったと思う。
 リンが知らない男と楽しげに──少なくとも俺の目に映るリンはどこからどう見ても笑顔だ──会話をしている。
 別に、俺以外の人間と口をきくなとか、そういったことを言うつもりはない。兵団に所属している限り、それは不可能だからだ。
 仕事仲間と不仲で困っているよりは、円滑な人間関係を築く方が良いに決まっている。仕事の上で必要な人間関係を保てているのなら、上官としても恋人としても喜ばしいことだと言ってやらなくてはなるまい。
 つまらない嫉妬で束縛するような男にはなりたくないし、リンが愛しているのが誰かなんて、きちんと理解している。
 理解はしているが、面白くないものは仕方がないだろう。
 一歩、二歩。ゆっくりと足を踏み出す。
 先に気づいたのは男の方だった。俺の顔をみるなり、目を見開いておかしな形相になっている。どうした。さっきまで随分と楽しそうだったじゃないか。
 お前は今楽しいか。俺はそうでもない。
「え、どうし──」
 きょとんとした顔で男性兵士を見上げるリン。
 気づくのが遅いと後で恨み言を言っても許されるだろうか。
 ようやくリンはこちらを振り向いて、俺と視線を合わせる。俺の姿を認識して、そして。
「兵長……!」
 満面の笑み。
 それだけで、疚しいことは何一つないのだろうとわかる。浮気だなんだと馬鹿げたことがあるとしたら、俺の顔を見てこんなに嬉しそうな顔をするものか。
 どす黒い感情が少しだけ浄化されるのを感じて、知らず寄せられていた眉から力が抜けた。



 俺が何か言葉を発するより先に、男は尻から煙を出す勢いで去っていってしまった。
 まだ何かリンと用事でもあったのではないか。仕事の邪魔をしてしまったのならば、流石に気が咎める。
「仕事が思ったより早く終わっちゃって。世間話につきあってたんです」
「そうか」
「でもちゃんと時間内に終わるんだったら、お茶休憩とればよかったなあ……そしたら兵長に会いにいけましたし」
 お昼も会えませんでしたし、朝ぶりですね。さみしかった。
 俺が今一番必要としている言葉を、惜しげもなく与えられる。
 誰だ倦怠期とか言った奴は。俺は死ぬほど愛されてるぞ。どうだ。
 独りよがりの不安と嫉妬が今思えば全て馬鹿馬鹿しく思えて、訳の分からない自慢を全人類に見せびらかしていきたい気持ちだった。当然、実行できる筈もない。
「……こっちこい」
「? はぁい」
 部屋まで連れ帰る時間すら待てず、物陰におびき寄せるとそのまま腕を引いて抱き込んだ。
「兵長っ?」
 リンは驚いた顔を浮かべるものの抵抗はしない。もごもごとうごめいたかと思うと、俺の背に腕を回してリンからも抱きしめてくる。
「どうしたんですかーもー」
 照れちゃいますよと嬉しそうに囁かれて、俺はもうどうしたらいい。
「……リン」
 名前を噛みしめるように呼ぶ。俺だけの、たった一人。
「はい、なんですか?」
「……俺のだ」
 その声は俺の想像よりもずっと拗ねているように響いて、正直かなり情けない。いい年をした野郎のする言動ではなかった。それでも。
「そうですよーあなたのですよー」
 リンがこんな風に俺を甘やかすのが悪い。
 愛を受け入れられることを、教えられてしまった。
 俺の中身を日々作りかえていくもの。身体と心をそれで満たされていく。
 心変わりなどするものか。させてたまるものか。
 お前は俺を手に入れた責任を取れと、腕の力を強くした。



 一週間後。
 休日を明日に控えた晩、いつものようにリンは俺の部屋に居た。
 いつもと少しばかり様子が違って、何だかもじもじしているし頬もほんのりと赤い。
 悪い話があるという風ではないので、大人しく何を言い出すのか待ってみることにした。
「あの、この間ハンジさんとですね、マンネリ防止とか、そういう話になって」
 またあいつか。
 完全にリンで遊んでいるのは面白くないが、気になる単語が出てきたのでそれに言及するのはやめた。マンネリ防止?
「け、倦怠期とか、私心配になっちゃって……そしたらそのう……ハンジさんが」

 ──いつもと趣向の違う下着とか身につけるのはどうかって──

 真っ赤になりながらも、リンがとんでもないことを言い出した。
「下着」
「あの、やっぱりこれおかしいのでいつものに着替えてきますっ」
「待て行くな待てストップだ動くな」
 後ろから羽交い締めにして、もがくリンをそのまま抱き込んだ。下着? 下着といったか今こいつは。
「……どんなのだ」
「……っな、なんだかすーすーして……やらしいような気が……っ」
「成程な」
 兵長やっぱりいやですよね? ちゃんといつものに着替えてくるので、離してほしい──そんなことを必死に言い募っているが。
「バカ言え──最高だ」

 ひとしきり暴れるリンを大人しくさせ、隅々まで観察し味わい尽くした。
 ぐったりと倒れ込むリンの身体に触れていると、そうだ忘れていたとリンが顔を上げる。
「どうした」
「ハンジさんから伝言で──『これでお詫びになったかな?』とか何とか……伝えてほしいって言われたんですけど」
「──……!」
 兵長何のことかわかりますかと不思議そうな顔で俺を見つめるリンに俺は。
「さあ……皆目見当がつかねぇな。明日にでも聞いてみるか」
 ──そんな、リン以外は誰も騙されてくれないような下手な演技でその場を誤魔化した。



 翌日のことになる。
 ハンジを目にした俺は、すぐさま近寄り、物陰に引きずり込み。そして。
 出会ってから初めてハンジに自分から握手を求めたのだった。


end


一周年ありがとうございます。
これからも兵長が大好きです。
20140601


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「見えない臓器の名前は」
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