談話室の前へと辿り着くと、扉から光が漏れていた。誰か居るのだろうかと疑問符を浮かべながら、ドアノブに手をかける。手首を捻ると、存外簡単に扉が開いた。

「お疲れさま、至」

 廊下の肌寒さとは一変して、談話室は暖かかった。まるで迎え入れられているような心地に、至は面喰らった表情を浮かべる。室内に居る彼女から目が離せない。想定していなかった。期待などしていなかった。誰かが部屋で暖を焚いて待っていてくれるなど。

 ダイニングテーブルの一席でゆったりと腰を下ろしている彼女は、おいでおいでと手招きをして、至に席に着くよう促してきた。ほんのりチョコレートの香りがする。彼女が手にするマグカップに入っているのは、恐らくココアだ。湯気が立ち込めていない様子から察するに、淹れてから多少なりとも時間がたっている。飲みごろなのか、冷めているのか。確認する術はないものの、淹れた飲み物がその状態になるまで、あるいは廊下と部屋の温度の差の分だけ、彼女が此処に居たということを物語っていた。

「……乙。名前がこんな時間に談話室に居るの珍しい気がする」
「至のこと待ってたの。そろそろお腹が空く頃かなって」

 至の腹の虫が鳴く頃合など、劇団員の身の回りの世話をしている彼女にはお見通しのようだった。今日帰り遅かったもんねと付け加えられて、なるほど専門職には敵わないなと、おかしそうにくつくつと小刻みに笑って返す。してやったりという顔で頬を緩めた彼女を見て、此度の待ち伏せには余程の自信があったことを知る。名前にはそういうところがある。此方から敢えて言わない小さな祈りすら、いつの間にか届いている。得意分野なのか、それが食のことであれば尚更だった。

「夕飯残ってる?」
「勿論。至の分はちゃんと分けておいたよ」
「マジか。来てみて良かった」

 促されるままに至が席についたのを見て、名前は満足そうな顔でキッチンへと駆けて行った。ガスコンロに火を点けて、中の料理をぐつぐつと温め始める彼女の姿をぼんやりと眺める。みりんと醤油の合わさった和色の香りが、ふわりと至の鼻を掠めた。

 思わぬ幸運の来訪は、行き詰まりだと思っていた眼前にほっと灯りがともった瞬間だった。

「ねえ。至は自分のメンテナンス、ちゃんとしてる?忙しい時とか疲れてる時こそ、栄養バランスのとれた食事と良質な睡眠をとらないと、身体もたないよ」
「メンテか……。正直、さっきまではカップ麺で済ませようかと思ってた。俺料理しないし、最近は仕事と稽古でイベ走る時間しっかりとれないし。食事してる時間も睡眠時間も惜しい。働いてるとどうしても趣味に割く時間が減る」
「……そんなことだろうと思った。至にとってゲームはもう、趣味というより生き甲斐と言っても過言じゃないもんね。でも、至にとってゲームが生き甲斐のように、私にとっても団員皆に健康的な生活をおくってもらうのはライフワークのようなものだから……鬱陶しいかもしれないけど、今日は食事の大切さを実感してもらいたい」

 最近疲れてる顔してるの気付いてたのに、すぐに何もしてあげられなくてごめんね、なんて。眉根を下げて伝えられて、至は目を丸くせずにはいられなかった。MANKAIカンパニーに入団してから数週間が経ったものの、生活の大半は職場におり、学生組に比べるとやはり関わりは薄い。居るくせに不在、そんな状態の至の様子を誰かが見守ってくれていたとは露にも知らず。働きかけられて初めて気付くとは。

 至の前に、次々と料理が並ぶ。先程香ったみりんと醤油の正体は、煮崩れする程よく火が通されていて、しっかりと味の染みていそうな肉じゃがだった。監督の趣向により、寮の冷蔵庫には人参やじゃがいもといったカレーの材料が必ずストックされているので、それらを利用して作られたものだろう。同じ材料でも全く違う料理が完成するのだから、料理の深みとは末恐ろしい。続いてほうれん草のおひたしに、焼き鮭、白米に豆腐の味噌汁と、彩の良い家庭的なメニューが揃った。

「いただきます」
「うん、召し上がれ」

 味噌汁を口に含む。口内に広がる素朴な味を飲み込むと、すっと喉を通っていく。肉じゃがに箸を伸ばす。ほろりとよく煮えたじゃがいもを箸先で掴んで、食す。飲み込むたびに五臓六腑に染み渡る食材の旨みは、インスタント食品では到底補いきれないだろう。食べる人のことをよく考えて作られた料理たちは、確かに栄養バランスが整えられていて美味しかった。至の意思とは反して、身体は栄養を欲していたことを思い知る。そのまま夢中で箸を伸ばして黙々と食事を続けていると、いつの間にか向かい側に座った名前が嬉しそうに頬をほころばせているのが目に入った。

 不摂生な至のために、手料理を振舞ってくれる人が居る。そのことに満たされていく自分が居ることに、戸惑いを覚えた。