夕闇に浮かぶ光が見えない。雲掛かった空を見上げて、星のない夜に煌きを探す。これでは某御伽噺の月生まれの姫は故郷に帰れないし、七夕伝説の恋人も逢瀬は叶わないだろう。夜空を見上げて三度祈りを捧げたとて、流れ星が見えなければ届かない。

 なんて、歌仙が聞いたら曇り空の雅について説かれそうな内容を、夜空を眺めながら心の片隅でぼんやりと考えていた。

 光は希望だと思う。光の傍にはいつだって人の営みがあることを知っている。人工的に光を灯すことのできる現世では、何時になっても街の灯りが消えることはないし、人の集う場所ほど明るく賑やかだ。それを守りたいだなんて大それたことは言えないが、事実、歴史修正主義者は過去の人々の営みを奪おうとしている。もしも人工的に光を灯す技術すらも、奪われてしまったら。名前の知っている愛すべき世界は手を伸ばしても届かないものとなり、今宵のどんよりとした空とは比べものにならない程の闇が未来を包んでいくだろう。

 光を、希望を失った未来は、どこに向かっていくのか。それを食い止めるために審神者という職についたということは分かっている。味方もたくさん居る。しかし、強大な敵と幾度も戦闘を重ねるうちにスケールの大きさを改めて実感して、名前は言いようのない不安に襲われていた。

(きっと気のせいじゃない。こちら側が力を強めているのと同じように、敵側もどんどん勢力を増していってる……)

 鶴丸国永が重症を負って帰ってきたのは、つい先日のことだった。采配は普段通り。行き慣れた出陣先で、歴史修正を防ぐ任に着いてもらった。いつも通り首尾は上々かと思われた矢先、不意をついて攻撃されたのだと言う。いち早くそれに気付いたのは、誰よりも奇襲を得意とする彼だった。得意故に勘も鋭く、狙われた短刀を咄嗟に背に庇って大きな傷を負った。無論、やられたまま黙っている男ではない。一矢報いるべく、攻撃を受けた直後に身を翻し、寸分の狂いもなく切り捨てた。

 今にも泣きそうな短刀が、帰還するなり名前にしがみついて、鶴丸さんを助けてと懇願する。彼を象徴とする美しい白が他の色で上塗りされている姿を目にして、彼を失うのではないかという恐怖が襲ってきた。

――戦場で赤く染まって鶴らしくなったものの、まさかそれが自分の血とは驚きだ。

 心配をかけぬように強がって笑う彼は、しかし血の気の引いた顔をしていた。怯んでなどいられない。例え此処に味方が大勢居ようとも、重症を負った鶴丸を救えるのは審神者だけだ。急いで手入れ部屋に彼を運んでもらって、一刻も早く楽にさせてあげなければと、壁に掛けてあった手伝い札をひったくる。ありったけの霊力を手入れ道具に込めて、彼の刀身に打粉をかけた。手入れの最中も、鶴丸は「君の必死な表情を見れるとは、傷も負ってみるものだな」と名前を安心させるように軽口をたたいてくるので、冗談でもそんなこと言わないでと嗜めれば、すまんすまんと苦笑された。

(……怖かった。鶴がいなくなったら、なんて、考えるだけで苦しい)

 あの時の光景が、今でも鮮明に残って頭から離れない。思い出しては背筋が凍るような恐怖が身体中を駆け抜けて、名前は思わず両手で自分の身体を抱きしめた。

 彼を顕現した当初、触れたらそのまま壊れてしまうのではないかと思うほど白く儚げな姿を前に、感嘆の溜め息を吐いたものだ。しかしその予想は大きく外れた。見た目のしなやかさとは裏腹に、生命力と行動力に満ち溢れ、その場を引っ掻き回して驚きを提供して去っていく。そんな様子に最初こそ呆気にとられたものの、ふとした時の真剣な横顔だとか、名前に触れる時の優しい手付きだとか。そういうものを知れば知るほど彼から目が離せなくなり、いつの間にか隣に居てくれるのが自然になっていた。彼があまりにも当然のように隣に居てくれるから。彼が決して名前を一人になどしないから。いつしか、こんなに簡単なことが念頭から外れていた。鶴丸国永が名前の隣に在るということは何にも代え難い奇跡であり、決して当たり前ではない。突きつけられた現実に、名前はただ只管に恐怖する。

 心の闇が身体の輪郭すれすれまで、ひたひたと押し寄せてくる。飲み込まれるつもりはないと、跳ね除けてしまう程度の気の強さは持ち合わせているつもりだった。しかし、大切な人を失う恐怖に染まった状態で、心に光を宿すなど。

(怖い、怖い、怖い)

 闇の色が一層深くなって、名前を覆い隠そうとする。恐怖と闇に支配される。光や希望のない虚無の世界に、飲まれる。

 成す術もなく朦朧とした領域に意識を置いてしまいそうになった瞬間、雪明りのような光が名前の身体を包んだ。純白の光彩は闇に触れても尚色褪せることなく、くっきりとした存在感を在り在りと放って、名前と闇の境界線を明確にする。まるで加護を受けているような安心感と温もりが心の芯にじんわりと届きわたって、光が闇を押し返した。

 そこで、気付く。名前を包み込む光彩に、ほんのりと馴染みのある香りが乗っていることを。幽幻にも関わらずどこか落ち着きがあってよく馴染む、古来から人々に愛されているであろう、このしっとりとした香りを知っている。この伽羅の香りを纏う彼も人の子に興味深々で、名前のことを好いていると言ってくれた。彼に、守られたのか。そう自覚をした瞬間、視野が開けた。いつの間にか名前の肩に掛かっていた鶴丸国永の羽織が、夕闇の中にも関わらず光沢を放っている。まるで星の見えない夜で唯一希望を与える一等星のように、見失わないように、此処が君の居場所だと道しるべをたててくれる。彼の色は光のそれと似ているのだと気付いて、頼もしさと優しさがじんわりと心に染みた。

「そんな薄着で外に居たんじゃ風邪をひいても文句は言えないぜ?」

 不意に耳を擽る、愛しい人の声。顔を覗き込まれて彼と視線が絡んだ瞬間、涙ぐむような愛しさが胸に迫る。こんな弱さを許してほしい。大切な人が傍に居てくれる奇跡。それだけで名前は名前で在れるのだと、初めて思い知った夜だった。

 突然泣き出したものだから、どうしたどうしたとあやすように腕の中に閉じ込められて、しなやかな指先で髪を梳かれる。その指先からほんの少しだけ伝わる優しさも、全身で感じる彼の体温も、全てが名前を涙させる原因だということを鶴丸国永は知らない。

「鶴こそ、病み上がりのくせに出歩いてる……」
「丹精込めた手入れのおかげか、傷は何一つ残っちゃいない。今すぐにでも出陣できるくらいだ」

 それに、と付け加えられた言葉にどきりと心臓が跳ねた。

「君がこんな夜更けに外に出る姿を見て、俺がそのまま何もせず見送ると思うか」

 追いかけて来てくれた。ふらふらと赴くままに足を運ぶ危うさに気付いて。闇に飲まれて自分を見失いそうになっていた心許無い立ち姿を見て、足早に名前の傍にやって来てくれる姿が目に浮かぶ。鶴丸国永はいつだって、名前の光だ。