彼女はどうやら、温めることすらしないらしい。電子レンジくらい社内に置いてあるのだから、せめて温かい食事をとればいいのに、慎ましやかにそれを食している。デスクの上には冷たいおにぎりがふたつ。おかずやデザートなどといった副菜や甘味は一切見当たらない。それも決して手製のものなどではなく、三角形のおにぎりを包むパッケージは、紛れもなく会社の目の前に位置しているコンビニのものに違いなかった。時折なら良い。三郎とて時間が満足にとれないときは、止むを得ずコンビニのおにぎりを片手に仕事に勤しむことくらいある。しかし彼女における驚異のおにぎり率は、仕事上の接点を持たない三郎が思わず声を掛けてしまう程度には深刻なものだった。

「飽きないのか、それ」
「何の話」

 眉根を寄せてデスクを覗き込めば、不機嫌そうに此方に視線を寄越す名前は、虫の居所が悪いようだ。しかし此方とて引く気など毛頭ない。もう傍観などしてやるものか。三郎は充分待った。彼女がコンビニのおにぎりばかり食べているという事実を知ったのは、三ヶ月も前の話だ。それ以来、昼時になると名前の食事を観察するのが日課になってしまった。週五日。一週間の内の大半の昼食を社内でとるというのに、多少具材が変わっているだけで、おにぎり以外を食べている姿など見たことがない。それでもこの三ヶ月間声も掛けずに燻っていたのは、抱えている仕事の片が付きさえすれば、恐らくまともな食事を口にするようになるだろうと踏んでいたからだ。それにも関わらず、名前は三郎の期待を裏切って、いつまでもおにぎり以外を口にしない。美味しそうに食事をしているところなど一度も見せないことが、三郎にとって誠に不服だった。

「毎日よく食べていられるなと思っただけさ。美味しいか」
「貧相な食事で悪かったですね。何処かの誰かさんみたいに、料理が得意ではないので」

 そういう問題か、と三郎は首を傾げた。得意不得意の問題であれば、炭水化物以外を摂取する選択肢などいくらでもある。おにぎりやパンの主食以外にも、せめてサラダを一緒に食べるとか。それにも関わらず彼女が頑なにコンビニのおにぎりのみを選択して食しているのは、恐らく料理が不得意などという理由ではない。おにぎりを二つ。それ以外の昼食を思い付けない。つまるところ、食にまるで興味がない類の人間ではないかと三郎は憶測している。

「外食は」
「人並み程度には。でも、一人では好き好んで食べに行かないよ」

 毎日ランチに行くと食費も嵩むしね、と名前は眉尻を下げて笑った。彼女が同僚の女性たちと昼食に行かないのは、それが理由だと察しが着いた。三郎の記憶が正しければ、彼女は一人暮らしだ。一方、我が社の同世代の女性陣は実家暮らしが圧倒的多数を占めている。食費倹約、経費削減。三郎もまた一人暮らしであるから、その心掛けについては理解が及ぶ範疇である。同意の意を示すと、名前はほんの少しばかり警戒心を解いたようだった。

「そういう貴方は、何を食べるの」
「……今日は然程凝ったものは準備してないけど、それでも良いならお見せしよう」

 料理が趣味と言ったところで、本職ではない。趣味は趣味だ。しかしそれでも、人に提供すると事前にわかっているのであれば、抜かりなく準備をするのが三郎の仕様模様である。事前準備をせずに披露することは、三郎の本意ではない。しかし彼女の食事を盗み見て、矢も盾も堪らず声を掛けたにも関わらず、自分の食卓事情を隠し立てておくのは公平ではないことも理解していた。少し間があいてから名前が頷くのを見て、三郎は自身の鞄の中から青藍色のランチクロスに包まれた弁当箱を取り出した。

 デスクに置いて、結び目を解く。蓋を開けると、食材たちが今朝用意した状態のままで行儀良く収まっていた。

「何これ、凄い!」
「エディブルフラワー。名前くらいは聞いたことがあるか。食用花さ」

 スイートアリッサム、カレンジュラ、ノースポール、デンファレ。茹でた海老と大葉、玉葱。細切りにしたにんじんときゅうり。それらを白い生春巻きで包むと、食材の色や形が透けて見える。その生春巻きの特性を利用して、ランチボックスの中に色鮮やかな花畑を作った。春巻きの下にはレタスを敷き詰め、隅に市販のチリソースを添え。付け合せには、角切りトマトとオリーブオイルで和えた木綿豆腐を。野菜に偏っていることは解っていた。その為、ハムや炒り卵を挟んだサンドイッチも持参している。

 三郎は食が細い。その為、量より質やコンセプトを重んじる。見た目の繊細さに拘る。これは人の反応を見て楽しむという性格に由来しており、反応を見るための媒体のひとつとして、料理が其処に在ったというだけの話だ。

「お弁当ひとつをこんなに拘って作る人、私初めて見た」
「案さえ浮かべば、存外簡単に作れるものだ。おもしろいだろう」
「おもしろい。美味しそう。それに、鉢屋のセンスが凄く良い」

 殺し文句の三拍子だった。間をおいてから「癪だけど」というおまけを付けられたのは少々頂けないが、自身の料理に関するアイデンティティをこうも真っ向から素直に褒められると、心の奥がむずむずとくすぐられているような心地になる。自身の作品を人に提供すること、食べてもらうこと、感想をもらうこと。料理好きたる者、この三点においては弱い。三郎の料理は一人では成り立たない。相手が居て、反応があって、そこで初めて意味を成す。彼女の言葉ひとつで味気ないオフィスの昼食が色付いたことに、三郎は戸惑いをおぼえた。

「……食の分野に疎い人間じゃなかったんだな」
「何気に酷い言い草だね、それ」

 素敵なものに素敵だと言うくらいの感性はあるよと口を尖らせた名前を前にして、こんな表情もするのかなどと、とりとめのないことを考えていた。この三ヶ月間彼女の観察を行っていたものの、気を許した相手の前でするような拗ねる仕草を見せたのはこれが初めてのような気がする。もしも今日満を持して声を掛けなければ、表情は疎か、言葉すら交わす機会すら無かったかもしれない。

「うわ、上司に呼ばれてたんだった」

 食べ途中のコンビニおにぎりを慌てて口の中に放り込んで、お茶で流す。またね鉢屋と手を振ってひらりと去りゆく彼女から、三郎は暫く目を離せなかった。