まどろんでいる。長年慣れ親しんだ自室の香りと、柔らかい布団に包まれて。自分のベッドで眠る瞬間というものは、何にも代え難い幸福の時間のひとつだ。名前は昔から眠るのが好きで、それを邪魔されることが何より嫌いだった。

 干したての布団が気持ちいい。窓から差し込む日の光が、温度が、欲求を掻きたてる。昼寝と洒落込むにはあまりに好条件を提示されすぎていて、名前の思考回路は睡眠欲に支配されつつあった。もう何も考えられない。このまま睡魔に身を委ねて、後のことは未来の自分に一任しよう。両親は昼過ぎから外出の予定だったはずなので、今自分が寝てしまっても、夜までに起きてしまえば怒られる心配はない。好条件が揃っている。揃いすぎている。

「またこんな時間に昼寝?主も懲りないよねー。この前だって歌仙に叱られたばかりなのにさ」
「……加州?」

 頭上から聞き覚えのある声が聞こえて、反射的に名前呼べば、俺以外の誰に見えるのさと不満が返ってきた。深紅の瞳と視線が絡む。黒い装束に差し色の赤い襟巻き。部屋の片隅に置かれた椅子に腰をかけ、軽く足を組んでいる。その姿は、名前の自室とは無縁の存在であるはずだった。何故加州が此処に居る。否、それ以前の問題だ。此処は何処だ。

 夢見心地な思考を無理やり現実に戻して、布団から飛び起きる。ベッドのスプリングがぎしりと音をたてた。審神者は普段温厚な質だ。取り乱す姿など、自分の刀には見せない。それ故に乱暴に身を起こした姿はあまりに珍しく、不服そうに様子を見ていた加州が、途端に狐につままれたような顔でぽかんと此方を眺めてきた。目を白黒させて呆気にとられる審神者を前に、同じく驚いた様子の加州がどうしたのと声を掛けてくる。聞きたいのは名前の方だった。一体どういうことだ。

 名前の記憶と一寸の違いもない程、部屋は完璧に再現されていた。それは二階の角部屋で、他の部屋に比べると小さく作られている。窓辺に木目調のベッドが置かれ、対角線の壁に沿うように本棚と机が並んでいる。簡素だが、名前にとってはこの世界中の何処よりも落ち着く空間だった。部屋を包む香りも、温度も、全てがあの頃のままだ。首をかしげる加州をそのままに、名前はベッドから床に足をおろした。一歩、また一歩と踏み出す。たどたどしい足取りで漸く本棚まで辿り着いて、見上げる。名前の好きだった小説と漫画が、教科書や参考書が、並んでいる。

「……俺、気がついたら此処に居たんだ。一瞬何がなんだかわかんなかったけど、主が寝ちゃいそうなのを見たら、早く起こさなきゃーって。このまま寝かせちゃったら、主が俺の手の届かない場所に行っちゃうような気がしてさ」

 変だよね、主は俺に黙って何処かに行っちゃったりしないってわかってるのに。そう言って困ったようにはにかむ加州の勘の鋭さに、名前は感謝しなければならなかった。

 己の追憶に取り込まれてしまったのだろうか。それとも刀を顕現する要領で、この空間まで蘇らせてしまったのだろうか。審神者がこの家を離れて、もう三年という月日が経っている。過去に己が暮らしていた家がその頃の状態のまま、実体を持って目の前に現れるなんて、この部屋で生活していた頃の名前には想像もつかないファンタジーだ。

 解っていることは、三つ。名前は実家に二度と帰れないはずだったこと。名前が把握している時間軸では、実家はもう存在していないこと。そして睡魔に襲われていた先程まで、本丸の記憶がすっかり消え失せていたこと。

(末恐ろしいにも程がある……。あのまま眠っていたら、私は記憶を失ったまま何事もなかったかのようにこの家で生活を始めていたかもしれない)

 名前が知らないところで、何かが動き始めている。そこまで考えが至って、名前は全身に汗をかくような不気味さに襲われた。

 加州清光は審神者の一番刀である。それ故に、審神者の様子の変化に聡い。普段穏やかに事を運ぶ審神者の不穏な様子を、加州は眉を顰めて見守っていた。加州が審神者と共に此処に居るのは、彼女の意中の範囲ではないということが、彼女の様子から手に取るようにわかった。

 ふたりが暮らしている本丸は、彼女の霊力によって守護されている。それ故に、清らかな空気が常に流れていて、加州は審神者の全てに包まれているような心地になる。それがたまらなく特別で大切で、護りたいと思っている。恐らく加州だけではない。他の刀たちもあの空間を帰る場所とし、彼女の意思を護ることで彼女に守護されるという不思議な関係を気に入って、尊ぶ。此処に彼らは居ない。加州と審神者の、ふたりきりだ。ならば此度の使命は、彼女の身を守り抜き、彼らの待つ本丸へ無事に帰すことだ。

「ありがとね。このまま眠ってしまったら、本丸に帰れないところだった」
「やばい。寝入り端の主を起こして感謝されるなんて、今日は槍でも降るんじゃ」
「お礼を言った私が愚かだった。撤回します」
「うそうそ、ごめんってばー!主に感謝されて、俺、超感激してるんだからね!」

 いつものように軽口を叩き合って、狂わされていた互いの調子が戻ってきたことを確認する。こうでなくては始まらない。冷静さを失ってしまっては、勝てるものも勝てなくなる。

「さて、加州。私の追憶からの脱出ゲーム、貴方も付き合ってくれるかしら」
「あんたを連れて帰るのが俺の役目、ってね。しっかり護ってあげるから期待しててよ」

 頼りにしてるからね。そう言って微笑む審神者を見て、加州は嬉しそうにはにかんだ。