彼が其処に在籍していた形跡など、ひとつも残されていなかった。まるで最初から其処に居なかったかのように、衣類や髪紐、髪の毛の一本たりとも残さない。予兆などなかったと人は言う。鉢屋三郎は霞隠れの術の如く、忽然と学園から姿を消してしまった。

 例え春夏秋冬如何の季節であれど、月が満ちれば、共にそれを眺める。忍びの世界に身を投じる以上、満月は天敵と成り得る。しかし、互いの姿を視界に捉えることのできる月明かりを、三郎と名前は団子や饅頭を頬張りながら愛でた。ふたりが何処に居ようとも、月は必ず其処に在る。常闇の中で、唯一ふたりを照らしてくれる。帰る場所を見失いそうになった時だって、互いの隣がそれであると、ふたりは月を見上げる度に気付き直すことができた。そんな愛すべき対象である月が、彼を攫って行ってしまうとは。一体これはどんな御伽噺だろうか。

 二日前の満月の晩。団子の包みを両手に抱えて、名前は学園の片隅に在る桜の木の傍に向かった。この季節特有の強風が、名前のしなやかな髪の間を吹き抜けて、咲き始めたばかりの桜の花弁を次々と散らしていく。冬の鋭く冷たい空気が押し流されて、暖かく緩やかな季節がなだれ込んでくる。空気だけではない。雪が溶けて生命が芽吹くこの季節に、心まで軽くなったようだ。桜の下に三郎の姿を見付けて、名前は追い風に身を任せるように駆け出した。

「鉢屋先輩!」
「名前」

 此方に気付いた三郎に向かって勢い良く飛び込むと、咄嗟に両腕を伸ばした彼に抱き留められた。日頃ゆるりと立ち振舞っているせいか、鉢屋三郎の体躯は精力的なそれとは程遠く、線の細い印象を抱きがちである。しかし、勢い付いた名前を零すことなく受け止めた彼の両腕は逞しく、衣類越しに触れた広い肩は、名前の丸みを帯びた女性的な体つきとはまるで異なっていた。決して大柄ではない。だが、無駄無く鍛え上げられた彼の身体は、名前には至極頼もしく感じられた。

「今宵は少々風が強いが、おそらく今季初の桜吹雪だろう。良い月夜だ」
「月見の他にも、夜桜が楽しめてしまうなんて一石二鳥ですね。次の満月の頃には、満開になるでしょうか」

 桜の花弁が舞う夜空を仰ぎ見て、三郎は名前を腕に閉じ込めたまま、満足そうに目を細めて笑う。そんな彼の様子を見上げた名前は、華やいだ声で次の月見の話を持ち上げた。

「さあ、どうかな。桜の時期は案外短いから、次までには散ってしまっているかもしれないぞ」

 夜の闇と、月や星の光。ただそれだけが強く主張し合っていた空間に、桜という色彩が加わる。一年中月の満ち欠けを眺めていたふたりにとって、それは季節を感じさせられる幻想的な風景だった。

 三郎が言う通り、桜の季節はあっと言う間に過ぎ去ってしまう。この堂々たる大木も、今でこそ春の象徴として学園を活気付けているが、季節が巡れば他の木々に紛れて目立たなくなり、次に春が訪れるまで徐々に存在感が薄れていくのだろう。風物詩とはそういうものだと頭では解っていても、この光景が一年に一度しか眺められない代物だと改めて気付かされて、名前はほんのり寂しい気持ちになった。

「それでは今日は思う存分、桜と満月を楽しまなければなりませんね」

 緩んだ彼の両腕から抜け出した名前は、それまでしっかりと抱えていた包みを片手に持ち直して、もう片方の手で紐を解く。すると、中から香ばしい醤油の匂いと共に、磯部団子が二串顔を覗かせた。それを微笑んで三郎に差し出すと、彼もまた、寂しさの帯びた戸惑いの表情を浮かべている。彼も散りゆく桜が尊く思えて、名残惜しくなってしまったのだろうかと、名前は首を傾げた。どうしたのと声を掛けると、意を決したように彼が言った。

「残念ながら、私は次の満月を君と一緒に楽しむことができない」

 一陣の風によって音を立てながら乱れた桜は、名前の心中そのものだった。目を丸くして固まった名前とは相反して、彼は差し出された団子をひょいと手に取る。

「どういう意味?」
「言葉通りの意味さ」

 何事もないようにさらりと言って、三郎は団子を口に含んだ。寸前まで珍しく悩ましげな表情をしていたのに、言ってしまえば後に引けないと観念したのか、彼は名前の追求に何の迷いもなく答えを示す。

「つまるところ、私はもうすぐ此処を離れてしまうということだ」

 名前とて、覚悟していなかったわけではない。桜の季節は、出会いの季節であり、別れの季節でもあることを、この五年間幾度も体験してきた。最上級生が学園を卒業していくのは、自然の摂理と同義だ。先に入学した者から順に、此処を去って行く。三郎も名前も例外ではない。名前も同様に、来年の今頃にはこの学園を去ることになる。

 別れが近付いてきていることなど解っていたにも関わらず驚いたのは、彼の口からそれを直接聞くことになるとは思っていなかったからだ。鉢屋三郎は周りの誰にも気付かれることなく、いつの間にか姿を消して、そのまま卒業して行くと思っていた。そう正直に話すと、当の本人は愉快そうに笑みを深めた。

「流石、君は私をよく分かっているな。その通り。何も告げずに去るつもりだった」
「では、今宵私にそれを教えてくださったのは何故ですか」
「置いて行きたくないと思ってしまったからだよ」

 秘密主義で警戒心の強い三郎が、学園を出ても尚連れて行きたいと思う程の人物は、果たして学園内に居ただろうか。名前は一瞬、彼と同級の不破雷蔵の姿を連想した。最上級生の進路を問いかけてはならないのは、暗黙の了解だ。その為、彼らの進む先を名前は知らない。一体誰を、と反射的に訊ねる。すると、三郎の人差し指が此方を示した。

「他の誰でもない。君だ」

 はらりと涙が溢れる。ずっと三郎と一緒に居たいという願いは、叶うことのないものだと思っていた。学園を出たら、次に会うのは戦場かもしれない。そんな結末なら、三郎とはもう二度と再会するべきではないとさえ思った。彼と敵対して命の遣り取りをするなんて、想像しただけで心が張り裂けそうだ。だから、卒業が永遠の別れであることが、名前の中での三郎との最善だった。それが彼の言葉によって覆されたのだから、涙が止まらなくても不思議ではない。そんな名前の目尻を指で拭って、彼は続けた。

「名前が卒業する年の、桜が咲いた満月の夜。此処へ君を迎えに来よう」
「来年の春……」

 余裕綽々に述べた三郎の言葉を反覆すると、彼は頷いて名前の頭を優しく撫でた。自分の全てを受け止められているような心地に、これからの人生で今以上に幸せを感じることはないかもしれないと思うほど、心が満たされていく。

「もしも君が、私と生涯を共にしたいと思ってくれるなら。その時は、再び此処に来ておくれ」
「求婚の返事を、貴方は一年も待つつもりなの」
「私と過ごす人生も、そうでない人生も、君には時間をかけて選ぶ権利がある。君の可能性を狭めようとする者は、例え私自身であろうとも許すことができないのさ」






忍たま卒業企画様に参加させて頂きました。




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