一喜一憂するのに疲れる。彼がわたしに向ける言動はただの戯れに過ぎないと解っているのに、心臓がばくばくと煩いのが、惚れた弱味を握られているような気になって悔しかった。傷つけ合える程に、ぶつけ合える程にお互いを愛することができたら、この距離感も少しは変化するかもしれない。けれど、今の関係性を壊すのが怖くて、その気がないふりをするので精一杯だ。

 彼に対して何かしらの感情をぶつけてみるといった行為が、怖くて怖くてたまらない。感情をぶつけたら、最後。儚く散ってゆく気がする。好意は時折、不安と恐怖を生みだすものなのだと、その時私は初めて思い知った。

「嗚呼、お前の白い肌には茜の色がよく映える」
「立花先輩、私の顔を弄ぶのは止めて頂きたい」
「平凡な顔付きも、時には愛でたくなるというものだろう。飾れば飾る程、華やかになっていくというのは、実に愉快極まりない」

 紅を施している時に口元を動かすなと窘められて、それ以上の反論など許してもらえなかった。鮮やかな茜色を小指にとって、私の唇の上を行ったり来たり。上唇、下唇。隅から隅まで彼の指に触れられて、その感覚を唇が鮮明に覚えていく。

 次に何かがこの唇に触れたとき、私はきっとこの人の小指の感触を思い出す。一人悶々と過ごすことになると解ってはいたけれど、彼が私に触れるのを止めなければならないという理性より、このままずっと触れていてほしいという気持ちの方が優っていた。身体が彼を覚えるのを許してしまうのは、やはり惚れた弱味だ。

(それでも、心地良いと思ってしまうから、狡い)

 立花先輩と共に過ごす時間に、空間に、溺れている。まるで底がない海の中に落とされた鉛だ。一度足をとられたら、最後。深く沈んで、這い上がることができない。底がないから、留まることを知らず、どこまでも落ち続けるだけ。

「ふむ、悪くない。しかし、私の好みではない」
「人を掴まえて有無を言わさず化粧を施しておいて、最初の言葉がそれですか」
「おや、名前は褒めてほしかったのか。それは察しが悪くてすまなかったな」
「……性格悪い」

 小気味良さそうに笑みを浮かべた立花先輩をじとりと睨むと、より一層笑みを深められた。少々揺さぶったところで、彼のすまし顔は崩れることを知らない。それどころか、毒付いた事ですら彼を悦ばせている。私とて、毒など重ねたくない。彼は私と遊んでいるつもりだということも、重々承知している。しかし、それを差し引いたとしても、人の気も知らないで一方的にからかわれるのが癪に障って仕方がない。

「御自身で最後まで仕上げておいて、好みではないと仰るのだから、貴方の好みから私は余程かけ離れているのでしょうね」

 距離感なんてもう知るか。包み隠さず言ってしまえ。そう思った。

 隠すことなど、到底できそうにない。惚れ込んだ人に身を委ねて尚、好みではないと言われた惨めな私の姿を、精々面白おかしく笑ってくれたら良い。ひどく繊細で、踏み込んだ途端に拒絶されてしまいそうな、彼との距離。一瞬でも油断をしたら足元を掬い上げられる、油断のならない会話。立花先輩はいつも優位に立っていて、私と言葉を交えて遊ぼうとする。彼が興味を示してくれるのは、私の反応が加虐心を擽っているに過ぎない。

 例えば、私がこうやって素直に傷ついて見せたら、彼の中での私への興味は消え失せるに違いない。張り合いのない奴だと思われるだけ。もう、それでも良い。惚れた弱味など、握られてたまるか。全てを甘んじて受けると思ったら、大間違いだ。

――しかし、痛んだのは私の胸の方だった。

 言葉は時に刃物と成り得る。相手に刃を向けているつもりで、実は自分の心を抉っているというのも、よく耳にする類の話だ。しかし、まさか自分自身がその状態に陥るだなんて、誰が予想できようか。

「誰がこれで終いだと言った」

 頭上で凛とした声がして、反射的に顔を上げる。先程まで微笑みを携えていたはずの先輩が、不意に表情を消した。今まで私が恐れていたのは、彼からの興味が無くなることだったのに、自らそれを促進する行動をとってしまったことを益々自覚して、切ない。

「最後は紅というのが、化粧の定石でしょう。それとも、まだ何かされるおつもりですか」

 目を外らせない。彼のとる行動が不安で、怖くて、だけどこのまま去って行ってほしくなくて、身動き一つとることができなかった。瞳に吸い込まれそうになる程、視線が絡み合う。次の瞬間、立花先輩の艶やかな髪が、彼の動きに合わせて揺れた。

「怖いのなら、目を瞑っていることだ」
「怖くなんて、」

 怖い怖い怖い怖い!もう嘘なんてつけない、不安で堪らない。嫌われたくない、無関心になんてならないでほしい。そしてどうか、貴方に好みではないなんて言われて、張り裂けそうになっている私の好意に気付いて。

 怖くなんてないと、啖呵を切ることはできなかった。成り行きを見守ることなど出来なくて、彼が道を示した通り、固く目を瞑る。それを合図に、立花先輩が動く気配がした。下から上に向かって、彼の冷たい指先が私の首筋を撫でる。堪らず身体をびくりと跳ねさせた私を余所に、その指は耳の近くをするりと辿る。そのまま頬に手を添えられた。指先はあんなに冷たかったのに、手の平はほんのりとあたたかい。その温度に安堵しつつも、強ばらせた身体の力を抜くことはできない。心の柔らかい部分を、直に触られているような気分だ。

 これで終いではないと、彼は言った。仕上げは一体どこにある。拠り所のない不安な時間など、早く過ぎてしまえ。

「本当に視界を閉ざすとは、私は余程信頼されているのだな」
「は……?」
「私以外の者の前では、断じてしないと誓っておくれ」

 大いに真剣に目を閉じる私を前に、くつくつと笑いを噛み殺す立花先輩の声。どういう意味だ、と問い正す隙など与えられなかった。先程までの底知れぬ不安など拭い去るように、彩られた茜色の上に、柔らかいものが優しく触れた。彼の吐息を間近に感じて、それが彼の唇であることに気付く。驚いて目を開くと、同時に小さく音をたてて、名残惜しそうに唇が離された。

「ほら。頬がほんのりと色付いて、私好みになった」

 決して怖がらせるつもりなどなかったのだと、彼はすまなそうに微笑む。対する私といえば、彼が称した通り、触れ合った唇の熱に浮かされて意識があやふやになっていた。放心状態。混乱を通り越して、思考がうまく働いてくれない。頬に添えられたままの彼の手が、徐々に私と同じ温度になっていく。その感覚だけを、肌で感じた。

「お前が可愛らしい反応ばかりするものだから、私にだけそれを向けてほしいと、少々独占してしまいたくなったのだ」

 思わぬ収穫だったがな、とぽつりと呟いた後、再び甘やかすように唇を奪われる。立花仙蔵に関する不安は、当の本人でしか拭い去ることができない。そして彼もまた、天邪鬼の私の本当の気持ちは、当の私に問い掛けたり、反応を逐一確認する以外に知る術はないのだと、その時私は認識を改めた。





戯れとうそつき
(そんなふたりの、色事)




Title:然様ならば、其処でお別れ。様よりお借りしました。



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