年の瀬が訪れていることに気づかされたのが、年末特番を観ている時だなんて、所帯染みているにも程がある。リモコンをいくら操作しても、テレビ画面の片隅に現在の時刻が表示されていて、既に翌年が目前に迫っている事を改めて実感した。

 あと数分で今年が去年になって、来年が今年になる。ハチくんが腕によりをかけて作ってくれた年越し蕎麦を食べながら、一緒の炬燵に入ってテレビを見ているこの瞬間だって、あと数分で「去年の出来事」になってしまうというのだから、年の境目というものが不思議でならない。今と数分後の距離はこんなにも近いのに、その間に大きな節目が訪れるなんて、わたしはどういう心構えでそれを迎えたら良いのだろう。

 特別普段と違うことと言えば、ハチくんと一緒に年越し用の温かい蕎麦を食べているということだけだ。来年をどういう年にしようとか、今年はどんな年だったかとか、節目らしいことなんて何も考えていないことに気付かされた。

「……わたし、来年もハチくんでいっぱいの一年間にしたいなぁ。ハチくんと一緒に居る時が人生で一番幸せな時間だって思うから、来年も再来年も一緒に過ごせる時間がどんどん増えていったらいいなって思うんだ」

 年末年始を愛しい人と過ごしているのに、日常と同じように時が過ぎてしまうことを少し寂しく思って、わたしは「今まで」と「これから」に意識を向ける。

 そもそもわたしの人生は、彼の存在無しに語ることができない。今年一年間を振り返っても、これまでの人生を振り返っても、彼のことばかり考えていた気がする。

 例えば、可愛い下着を買ったら、ハチくんに見せたくなる。美味しい食べ物を見つけたら、次はハチくんを誘ってその店にまた行きたいと思う。綺麗な風景を見たら、ハチくんにも見せたいなぁと思ってしまう。心が弾むたびに、それを彼と分け合いたくなる。ハチくんと一緒に居ることができたら、何処で何をしたって、一瞬の内に幸せな時間に変化する。彼はわたしにとって、幸福の主成分だ。

 砂時計をひっくり返した時、同じ砂がそれを刻むというのに、わたしと彼の間では違う三分間が流れている。一分でも良い、一秒でも良い。わたしと彼の日常が交わる瞬間を、増やしていけたら良いなと思う。そう伝えたら、彼も同じ気持ちだと頷いてくれたから、またひとつ気持ちが交わったのだと嬉しくなった。

「年が明ける瞬間、お前の傍に行っても良いか」
「どういう意味?ハチくんは今もわたしの傍に居てくれてるよ」
「違うんだ。もっと、おれと名前の間に空間がなくなるくらい、傍に行きたい」

 炬燵と蕎麦という、色気も飾り気もない空間が、彼の言葉で一気に色付いた。今宵とて、大晦日と名が付くだけのただの一夜に過ぎない。けれど、ハチくんがそこに居るということだけで、わたしの日常は一瞬にして輝きを放つのだから、わたしの中で彼が如何に特別かを思い知らされて頬が熱い。

 同じようにほんのりと頬を染めた彼が、わたしとの距離をじわりじわりと詰めてくる。それがもどかしくて、わたしの方から一気に彼の方に近付くと、両手を広げて抱きとめてくれた。

「名前で始まって、名前で終わる。今年はそういう一年間だったし、来年もそんな一年にしたいっていう願いを、年が変わる瞬間に込めたくなったんだ」

 駄目か、と問われる。駄目なわけないと返すと、まるで朝日のような優しい笑顔が咲いた。

 ハチくんの腕の中で、目を瞑る。テレビから流れるカウントダウンの声。それが最後の1を数える瞬間、わたしと彼はそっと唇を重ねた。年が変わる瞬間、わたしと彼の距離が一番近くなるなんて。年が明けたら、わたしは世界で一番幸せな女の子になれるのだろうなと、小さく思った。






空間論
(蕎麦と炬燵と、ふたり)




H26.12.31