鉢屋三郎の手に、恋をしている。勇気を振り絞れば触れられそうな位置でゆらゆらと揺れているのに、いつまでも距離を埋められないのがもどかしい。

 片手で悠々と顔を覆えてしまう程に大きくて、一度覆えば次の瞬間、先程までとは全く異なった面の皮を携えている。私にはそれが、何の変哲もないただの両手だとは到底思えない。種も仕掛けもない普通の手だと何度言われても信じることができないのは、私が疑り深いせいだろうか。

 考えれば考える程、私の視線はそこに集中する。何でも容易に絡め取って、くるくると弄んでしまいそうな長い指が十本。器用なその手は、彼自身を体現しているようにも見える。彼にとってその両腕は至極当たり前の代物なのかもしれないが、私には努力の賜物だとしか思えない。私にとってそれは魅惑の塊であり、興味を唆られる対象だった。

(三郎の手の魅力に気付いたのが、冬だったら良かったのになあ……)

 これほどまでに季節を恨めしいと思ったことが、果たして今まであっただろうか。例えば雪の降る季節であったなら、あの凍てつくような寒さを利用して、彼に触れることができるのに。じりじりと焼け付くような陽射しを前に、身を寄せる理由など見当も付かなくて、小さく息を吐いた。あの手に触れてみたくて、触れられたくて仕方がない。どうにか抑え込もうと躍起になっても、その気持ちは揺らぐことなく、どんどん大きくなっていく一方だ。

 気温が著しく高い、初夏。学園の中で一番背の高い、定刻を知らせる鐘が吊るされているあの塔も、今日は陽炎で揺らいで見える。頂上まで見上げれば、炎天から降り注ぐ強烈な光に目が眩む。太陽の光に堪らず目を細めつつ、それでもぼんやりと空を眺めていると、真っ白な入道雲が堂々と空に浮かんでいるのが見えた。あれが学園の上に差し掛かる頃には、この辺の天気も一変して、激しい雨が降るかもしれない。雨が降ったら、この猛烈な気温も少しは和らぐだろうか。それでもきっと、彼の手に自ら触りに行くほど寒くなってはくれないのだろうなと、溜め息をついた。

「そんな風に悩ましげな表情をされると、一体何がそんなに君の思考を支配しているのか気になって、妬けてしまうな」
「あ、そんな顔してた?」
「してた。それに、溜め息が二回」

 まさか数えられていたなんて思わなかった。そして、思いのほか相手の表情の変化に敏感なところが、流石三郎だなあと思う。ごめんごめんと平謝りを繰り返せば、怪訝そうにじとりと睨まれた。部屋の片隅で白状しろとばかりに姿勢を正されて、咄嗟に良い言葉が浮かばない。その結果、困ったように視線を宙に彷徨わせることしかできなかった。

 この暑い中、あなたに触れてみたいと思ってしまった。なんて、本人を目の前にして言葉にできるわけがない。私の脳内を支配するのは、いつだって彼だけだ。表情の機微には敏感なくせに、肝心なところが本人に伝わっていないのは、私がいつも言葉にするのを躊躇ってしまうせいだった。

「ほら、吐け。吐いてしまえ。吐いたら気が楽になるぞ」
「年頃の女の子をつかまえて、吐け吐けって三回も言うのはどうなの」
「数えているなんて、名前も趣味が悪い」
「三郎だって数えてたくせに」
「さて、どうだったかな」

 まるで私だけが性格が悪いとでも言いたげな様子に、先程の言葉を思い返して悪態をつく。すると三郎は、悪戯気に笑みを深めて、とぼけるように首を傾げた。からかうような仕草でさえ私の視線を奪う三郎は、正しく視線泥棒だと思う。私の視線を見事に奪って返さない。一つ一つの仕草が脳内に焼きついて離れず、私を弄ぶ。挙句に机に頬杖をついて楽しそうにくつくつと笑うのだから、性根が悪いのはどちらだと問い質したくなった。

「問題。今、名前の傍にいるのは誰でしょう」
「……鉢屋三郎」
「その通り。なんだ、わかってるじゃないか」

 突然出題された質問に難なく答えると、三郎はどこか満足そうに首を縦に振った。意図が掴めない不可解な質問に、対する私は疑問符を浮かべる。彼は今、何かを確認して、何かに満足した。私にとって重要なのは、その「何か」の正体だ。仮にそれが質問通り、私の傍に居るのが三郎であることだったとしたら。推測はあくまでも推し量っているに過ぎないことは、充分わかっている。それでも、相変わらず三郎は私の中を着々と侵略して、脳内における領土を拡大させていく。

 唐突に、三郎の手が私の頭上に伸ばされた。質問といい行動といい、意図がわからず咄嗟に身を硬くする。けれど、何も心配する必要なんてなかった。彼は私の髪を一房手にとって、するりと梳いた。あんなにも恋焦がれた彼の指先が、私の髪に触れたのだ。

「なあ、今この瞬間に君の傍に居るのはこの私だ。何を考えていたのかは知らないが、名前の中を満たすのは私であるべきだとは思わないか」
「なにそれ、どういう意味?」
「今は私だけに集中してくれと、そう言いたいだけさ。例え夏の太陽のような強い光の源であろうとも、君の視線を奪うのは私が許さない」

 三郎の視線が私を射抜いて、目が離せない。耳の奥で何度もその言葉が反復して、視線を奪われて、ゆるゆると髪を梳かれる。そのまま引き寄せられるように抱きとめられたかと思えば、私の唇に彼のそれが重なった。私の五感は呆気なく、全て鉢屋三郎で満たされてしまった。

 彼と一緒に過ごすこの時間の中で、私が空を仰ぎ見たのはたった一瞬だ。思い返せばそれ以外はずっと三郎のことを考えていたのに、そのたった一瞬ですら、視線を此方に向けて欲しいと彼は言う。先程其方に目を向けたのは、あなたに触れる口実を探していたからだよなんて、既に私の中が彼でいっぱいだということを肯定しているようで悔しい。三郎の余裕のない姿をもう少しだけ見ていたいから、その事実は秘密にしておこうと心に決めた。








レモネードでめくらまし様に参加させて頂きました。




H26.10.13