雨あがりの土のにおいが鼻を掠めた。園庭の隅にできた水たまりを覗き込んで、口角を上げる。すると、口元を緩める私の顔がそこに映る。その表情を暫く確認した後、みるみる内に、笑顔を作る前と同様の顰めっ面に戻っていった。

 いくら口元で作り笑いを試みても、瞳が色を帯びていなければ直ちに見抜かれてしまう。”目は口ほどに物を言う”とはよく言ったものであるが、私の場合、感情が顕著に瞳に現れてしまうらしい。それを指摘されてから、私は雨があがるたびに水たまりを探して、こうして密かに百面相を繰り広げていた。

「何してるの?水たまりとにらめっこ?」
「……勘ちゃんが言ったんじゃない、目が笑ってないって。だから、笑顔の練習」

 いくら学園の庭が広いと言っても、所詮塀に囲まれた箱庭である。雨あがりに毎回笑顔の練習を試みていれば、例え公言していなくとも、全く誰にも発見されないというのは無理に等しい。

 秘密の特訓を一番に発見したのが私の弱点を指摘した張本人だなんて悔しい限りだけれど、彼は決して他人に言いふらしたりなんてしなかった。それこそが、彼の言動に悪意がないということを示しているのだと思う。私はそういう風に勝手に納得して、「悪意がなければ見られてもいいか」なんて、彼が毎度練習の様子を覗きに来るのを嫌がる素振りは一度も見せない。雨あがりの土のにおいに包まれて、二人で水たまりを覗き込むこの時間に、ほんの少し絆されてしまったのかもしれない。

「律儀だなあ、名前も。いい加減表情を作るのは諦めて、他の能力を磨けばいいじゃん。俺だったらそうするけどな。苦手を克服するなんて、効率が悪いとは思わない?」
「私、苦手なことがあるのは許せない質なの。知ってるくせに」

 うん、知ってる。そう言って、彼は頭の後ろで腕を組んでへらりと笑った。全く感情の読めない笑顔。胡散臭いと一括りにすればそれまでだけれど、恐らく私にそう思われるのを意図して、敢えてそういう笑顔を作っている。これだから、心理戦や社交術にかけては、同じ五年でも彼の右に出る者はいない。

「はい、あげる」
「……何、これ」

 不意に左手を掴まれて、そこに何かを乗せられた。疑問符を浮かべながら、手の平に乗せられた物に視線を送る。桃色、黄緑、水色。色とりどりのそれは、星型を模した砂糖菓子だった。

「金平糖。甘いもの嫌い?」
「……嫌いじゃないけど、どうしてこれを私に?」
「なら良かった。適度の息抜きは必要だっていうのが、我が学級委員長委員会の教えだからさ。うちの後輩は二人とも真面目だから、根を詰めてそうな時に渡せるようにって甘いものを持ち歩いてるんだよ」

 彼は手にしていた巾着袋から更に金平糖を取り出すと、自らもそれを口に含んで見せる。相手に食べ物を渡した時に、自分も同じものを食して見せれば、警戒心を解くことができる。その行為は忍術において定石中の定石である。同じ学園で同様の流派の忍術を学んでいる以上、教科書通りの行動は見抜きやすい。下級生でも理解できるその行動は、まるで私が強い警戒心を抱いているように見えると、暗に伝えられているように感じた。

(私、勘ちゃんには結構気を許してるんだけどな)

 そうでなければ、こうやってわざわざ彼に見つかるような場所で笑顔の練習なんてするわけないじゃない。なんて、心の中で密かに寂しく思う。いたたまれなくなって、手の平に乗せられた金平糖を一粒だけ口に含んだ。

「あ、美味しい」

 片方の手の平に数え切れない個数が乗る程度には、小さなお菓子だ。それにも関わらず、たった一粒口にしただけで、香りと味があっという間に口内に広がった。ころりころりと舌の上で転がしては、溶ける。ほのかな甘さが口内で溶けていく。砂糖菓子特有の甘味は、あっという間に私を夢中にさせた。薄れていく味が名残惜しくて、次々と金平糖を口に運ぶ手が止まらなくなった。

「水面、見て」
「え、今?」
「そう」

 口に含んでいたものがすっかり溶けきって、次の金平糖を食べようとしていた最中の事だった。私が黙々とお菓子を食べている姿を眺めていた彼が、不意に水たまりを指差した。唐突に何事かと首を傾げてみるも、彼は読めない笑顔を一向に崩さない。一方で私は、自分で思っていたよりもずっと、彼と並んで二人で水面を覗き込むという行為を気に入っているらしかった。

 促されるままに視線を送る。当然、そこにはいつもの二人の姿が映し出されると思っていた。何の予兆もなく変化が現れることなど、有り得ない。笑顔を作るコツを何一つ掴めていないのだから、瞳が色を帯びることなど有り得ない。

 しかし、普段の光景にたった一つの金平糖という要素が加わっただけで、思いもよらぬ変化が導き出されたものだから、驚いた。突然手元にやってきた星型のお菓子は、曇ってどんよりと暗くなった私の心を照らす光のようだった。

「あれ、ちゃんと笑ってる」
「作ろうとするから失敗するんだよ」

 水たまりに映っていたのは、水面越しに私を見つめる彼と、顔を綻ばせている自分の姿だった。笑顔を作ろうと必死に水たまりの傍で百面相を繰り広げている間は、どれだけ努力で補おうとしても引きつった表情しか浮かべることができなかった。それにも関わらず、彼に手渡されたお菓子を食べた途端、突如そこに笑顔が生まれた。

 一体どんな手段を使ったのかと彼を横目で見遣る。すると、満足そうに口元を緩める彼の姿がそこにあった。

「言ったろ、他の能力を磨けば良いのにって」

 彼曰く、根を詰めれば詰める程、目元に力が入ってしまうらしい。気合いを入れ直す度にそこに力が加わって、更に目が笑ってないという現象が引き起こってしまっていた様だった。秘密の特訓を度々覗きに来ていた彼は、当の本人である私よりも先にその癖に気付いたと言う。

 少し息抜きをしてみたら、案外柔らかい表情を出せるのではないか。そう考えた彼は、後輩にするのと同じように私にお菓子を与えてみた。そしてそれが、案外上手くいった。それだけのことだよと、勘ちゃんはサラリと言ってのけた。

「名前の場合、気を張りすぎるより出来るだけ気楽に過ごす事を意識した方が、良い表情になると思う」
「……なんというか、ありがとう」
「どういたしまして。どうしたの、珍しく素直じゃん」

 特訓に明け暮れていたのが却って逆効果だったという衝撃。そして、いくら彼の観察眼が優れているといっても、先天的な癖に気付く程に私の表情と様子を眺めていたのかという気恥かしさが、同時に襲ってきた。

 それでもどうにか気恥かしさを誤魔化してお礼を告げると、相変わらず彼は一言多い。加えてこの喰えない笑顔ときたものだから、少々癪のように感じたが、先程の彼の言動に関心したというのが今の私の大部分を占めていた。

「私は苦手なことがあると努力でどうにか補おうとする質だけど、勘ちゃんは分析する質なんだなーって思ったら、ちょっと驚いただけだよ。すごいね、勘ちゃん」

 珍しく素直だなんて言われたので、ついでに言ってしまおう。力まずに笑えたのは、勘ちゃんのおかげだ。たまにはこんな風に珍しい日があっても、良いと思う。一つも飾らずに、捻くれずに、真正面から言葉を発してみても良いと思う。

 そもそも傍観癖のある彼が、私に助言をすること自体珍しいのだ。その上、笑顔になるという目標を達成したので、雨上がりの秘密の特訓は本日で幕を閉じることとなるだろう。そんな希少度の高い一日で、更に秘密の特訓の最終日を迎えたとなれば、言いたい事は素直に言葉にしてみた方が後々後悔しないで済むはずだ。

「でも、もう秘密の特訓は今日で終わりだね。勘ちゃんと一緒に水たまりを覗き込んだりできなくなっちゃうのは少し寂しい気もするなぁ」

 言った。言ってしまった。最後まで言い切ってから顔を上げると、対する彼は面食らった顔でこちらを見ている。顔から火が出そうという言葉は、正に今の私のためにあるのだと思う。彼と過ごすこの時間を、密かに気に入っていた。ただそれだけのことを伝えただけなのに、驚く程に頬が熱い。

 思えば、雨を好きになったのは、彼のおかげかもしれない。雨が降ると、密かに気持ちが弾んでしまう。雨あがりの特訓は、私が彼を唯一独占できる時間だった。私と彼が並んでいる姿が、水たまりに映る。それを二人で覗き込んで、表情の作り方を研究したり、とりとめのない話をしたりするのが好きだった。事前に約束をしていなくても、雨が止むことは集合の合図で、彼は必ず私を探してくれる。それが堪らなく嬉しかった。

 勿論、当初の目的を達成したことは、大変喜ばしいことだ。忍の道を志す以上、感情の伴わない笑顔を浮かべられないようでは話にならない。笑顔になる突破口を見出せたことは、私にとって非常に重要な出来事だ。

嬉しい反面、名残惜しくなる日がくるなんて、これまで考えもしなかった。

「俺が積極的に首を突っ込むのは、面白そうなことに対してだけだよ」

 一時の間を挟んで、彼がぽつりと言ったのを、聞き逃す筈がない。言われてみれば、彼はそういう質だ。面白い事は好きだが、厄介事は極力遠ざけて傍観する節がある。遠くから眺めて、推し量る。それは彼が行事の際に審判を担う学級委員長委員会に所属しているからかもしれないが、それを抜きにしても、世渡り上手で要領が良い。

 笑顔が作れないという私の悩みは、彼にとって厄介事の括りには入らなかったのだろうか。解決できるかわからない他人の悩み事なんて、実に厄介極まりない。しかし、雨があがると彼はいつも私を探してくれた。一緒になって水たまりを覗きながら、隣に座り込む私の表情や様子をじっくりと観察してくれた。その上、私の癖に気が付いて、分析して、試してみる程度には、私の悩みに踏み込んでくれた。勘ちゃん曰く、彼が積極的に首を突っ込むのは面白そうなことに対してだけらしい。これはつまり、彼が私に多少なりとも興味を持ってくれていると推察しても、良いのだろうか。

「俺だったらお前のことをもっと笑顔にしてあげられると思うんだけど、どう?もう暫く一緒に居てみようか。名前にとっても、得な話だと思わない?」

 願ってもない提案に、耳を疑う。対する彼は、楽しそうに此方に視線を向けていた。彼の言葉に心がほのかに暖まって、微笑みが溢れる。こんな時にまで損得勘定を持ち出すなんて、本当に彼らしい。

 勘ちゃんが私のことを隣で見ていてくれたように、私も彼のことをもっと近くで見ていたい。そんな風に思って頷けば、彼の瞳がほんの少し喜びの色を帯びた気がした。





雨明けの星
(彼との距離が縮まる度に、もっと彼を知りたいと思う)



H26.6.14