程なくして、ぱたぱたと扉に駆け寄る足音が耳に届く。夜分遅くに家を訪ねてきた者に対して、警戒心もなく扉を開いてしまう彼女。危機感が無さすぎるのではないかと咄嗟に思ったものの、扉が開いて名前の顔を視界に捉えた瞬間、途轍もなく腕の中に閉じ込めてしまいたくなった。自転車に乗って数十分。漸く名前の家に辿り着いたという歓喜と、彼女がまだ夢の中に身を投じていなかったという事実。いざ本人を目の前にしてみたら、もう形振り構ってなんていられない。

「おっ前、電話越しであんな可愛いこと言うなよ」
「わ! は、ハチくん?」

 腕を掴んで引き寄せてみれば、彼女の身を包む甘い香りがふわりと鼻を擽った。柔らかいタオル地のルームウェアを纏った名前を抱きとめて、肩口に顔を埋める。堪らず上擦った声をあげた彼女を逃がしてやるはずもなく、彼女の存在を確かめるように両腕に力を込める。そのまま名前の名前を何度か呼ぶと、また困ったように笑われた。

「会いにきてくれたんだね。夜中にごめんね」
「謝らなくて良い。俺が放っておけなかっただけだから」

 返事はなかった。だが、どうしたら良いか分からずに宙を彷徨っていた彼女の両手が、静かに俺の背に回された。

「なあ、寝るときいつも俺のこと考えてるって……」
「本人を目の前にしてそれを聞かれるの、恥ずかしいよ。ねえ、忘れて?声を聞けただけで充分満足できたんだよ、私」

 事の発端である電話の内容を、確認するように問い掛ける。すると、彼女の顔がまるで熟れた果実のように赤く染まった。頬を紅潮させて恥じらう姿をこの至近距離で目の当たりにすることができたのは、実に喜ばしいことであり、天にも昇る気持ちになった。

 だが一方で、名前の言葉は聞き捨てならない。受話器越しに紡がれた甘美な言葉は、未だ耳に残って離れない。声を聞けるだけで満足だなんて、そんなことは許さない。忘れてなんてやるものか。本当はもっと、いつだって連絡してくれて構わないのに。

「忘れるかよ」

 お前はもっと、俺を頼って良いんだよ。名前の小さな我儘くらいじゃ、俺は困らないから。

 諭すようにそう伝えると、恥じらう表情を隠すように俯いていた彼女が、驚いたように目を丸くして顔を上げた。彼女からの電話を受けて、迷う暇もなく此処に飛んで来たのは、気遣い屋で強がりな名前に伝えたい事ができたからだ。そして、それを自身の体で証明して見せたかった。有言実行する男だと、心から信頼して欲しかった。幸い体力にはそれなりの自信があったし、自転車で数十分という距離は然程苦にならない。会いに来ようと思えば、いつだって来ることができる。寂しいと思ったら、直ぐに呼んでくれて構わない。勿論他の事だって、もっと気軽に何でも言葉にしてくれて構わないのだと、彼女に伝えたかった。

「俺のことを思い出したら、何時だって電話してほしい」
「でも」
「名前が素直に甘えてくれた方が、俺が安心するからさ」

 始終戸惑った表情を浮かべる名前。困惑して視線を彷徨わせる彼女に笑いかけると、漸く視線が絡んだ。

「うん、わかった。ハチくんに逢いたくなったら、電話する」

 恐らくいつものように、曖昧な笑顔を返されるものだと思っていた。困ったように微笑んで、「ハチくんがそう言うなら」と俺の願いを受け入れるだろう。丸のまま受け入れて、だけど後日、やっぱり電話を掛ける前に延々と悩んでしまう。気遣い屋の性質は、そう簡単に甘えてなどくれない。そう思っていたのに、彼女が不意に鮮やかに笑うものだから、目を見張った。

 本人が聞いたら、大袈裟だと言われてしまうかもしれない。それでも構わない。好きな人が笑ってくれる。笑顔一つでこんなにも嬉しくなるものなのかと、胸がいっぱいになった。

「……今日は私が眠れるまで、傍にいてほしいな。なんて言ったら、ハチくんどうする?」

 出来ることなら彼女の隣で、いつまでも笑顔を眺めていたい。問いかけながら再び不安気な表情を見せた彼女を目の前にして、そう思う。今日は彼女が眠りに落ちるまで、ゆっくり話をしよう。彼女の日常の話を沢山聞いて、目の前の女の子が普段何を考えているのか、耳を傾けてみたい。眉尻を下げた微笑みではなく、彼女の晴れやかな笑顔を目にする機会をもっともっと増やすことを当面の目標にしよう。

 二つ返事で了承し、お土産だと称してコンビニの袋を手渡せば、彼女の顔は再び綻んだ。





はにかみを数えて
(彼女の笑顔がこんなにも原動力に繋がるだなんて、)




Title:確かに恋だった


H26.5.9