心地の良い風が髪を撫ぜる。つい先日までは冬の張り詰めた空気が身を包んでいたというのに、ここ数日は気候が一変して穏やかな日が続いていた。先程のような風は、この土地に春がやって来たことを我々に告げてくれる。恐らくもうすぐ、開花し始めた桜も満開になるだろう。

 こうして代わる代わる訪れる四季は、いつの時代も変わらず、人々によって愛でられている。そんな四季の象徴の一つである春風を、もっと感じていたかった。

 思い立ったら即行動とは、よく言ったものだ。この際だから、もう家中の窓を全て開けて風通しを良くしてしまおう。僕と瓜二つの顔を持つ誰かさんが聞いたら、「相変わらず君は大雑把だな」と笑われてしまうかもしれない。けれど、こんなに過ごしやすい気候なのに部屋の中に外気を取り入れないことは、非常に勿体無いと僕は思うのだ。


「……あれ?」


 早速廊下に出て、窓を開ける。すると穏やかな風に乗って、小さな歌声が耳に届いた。微かな声に意識を研ぎ澄ませると、より鮮明に聴こえてくる鼻歌交じりの歌声。艷やかで繊細な声は、僕の耳を擽った。

 それは、この家に住んでいるもう一人の女性、僕の恋人のものだった。

 窓を開けた途端に歌が聴こえはじめたということは、彼女も僕と同様に、窓辺で春の風を楽しんでいるのかもしれない。

 そう思えば、途端に彼女への愛しさが込み上げてきた。彼女は今、一体何を思って、この風に身を任せているのだろう。脳裏に過ぎる想いがもしも彼女と一緒なら、この焦がれる気持ちを共有したい。そのような身勝手な衝動に駆られて、僕は奥の部屋へと歩を進めた。


「名前」


 部屋の前で小さく二回ノックをして、声を掛ける。部屋の中から「はあい」と間伸びした彼女らしい返答が帰ってきたのを確認して、部屋のドアノブに手を伸ばし、静かに音を立てて回す。そのままそろりと部屋の内部を伺ったところで、窓際の渕に腰を下ろして歌を口遊む名前の姿を視界に捉えた。


「何、歌ってるの?」
「愛の歌」


 ゆっくりと部屋に足を踏み入れ、部屋の片隅に置かれた椅子に腰かける。そして心惹かれるままに彼女に問えば、返答はあまりに抽象的だった。

 彼女は昔から、どこか不思議な雰囲気を持っている。まるで何にも捕われていないかのように身軽で、周囲の喧騒を気にも留めず、ゆったりと我が道を進むマイペース。どれだけ時が経っても彼女の中の本質が変わらないことを、僕はほんの少し嬉しく思う。

 思わず口元を綻ばせれば、彼女も口元に手を当てて、おかしそうにくすくすと笑った。


「雷蔵のことが好きだな、今雷蔵は何を考えてるのかなーって思ってたの。そしたら、本当に雷蔵が現れるんだもん。驚いた」


 驚いたのはこちらの方だ。以心伝心。その言葉が一番、しっくりとくる。彼女の元に来てみれば、彼女も僕と全く同じことを考えていただなんて。


「実は僕も、同じことを思ってたんだ」
「雷蔵も?」
「窓を開けたら歌が聴こえた」


 名前が一体何を思って歌っているのか考えたら、途端に君に会いたくなってしまって。君は一体、どうして愛の歌を?

 そう問いかければ、彼女の瞳がほんの一瞬、揺らぐのを見た。常に我が道を貫く彼女が安定性を失う、不確定要素。思い当たる節がたった一つ、ある。


「皆のことを、考えてたの」


 ああ、やはり彼女は――

 まるで溶けて交じり合ってしまうかのような、僕と彼女の融和的関係。それは決して、一日二日という短い期間で培ってきたものではない。

 遠い昔。山奥に聳え立つ学び舎で、僕らは忍という道を志していた。戦が絶えず、忍者と呼ばれる人間たちが水面下で活躍していた時代。それは死別という哀しい別れの絶えない時代であったが、僕らは何にも代え難い仲間を得ることができた。名前という、かけがえのない存在と出会うことができた。

 これは一体、何の巡り合わせだろうか。あの時代を生きた不破雷蔵の記憶を持ったまま、僕はこの時代に「不破雷蔵」として生まれてきた。そして再び、当時愛してやまなかった彼女と巡り合って、再び恋に落ちた。

 輪廻転生と呼ぶべきか。この摩訶不思議な現象に名前をつけてしまうことが、果たして正しいのか僕にはわからない。言葉にできるほど単純に整理できる出来事ではなく、僕の中で様々な想いが複雑に絡み合う。

 かつて星空の下で夢を語り合った、仲間たち。僕と瓜二つの顔で学園生活を過ごした変装名人。一度関わったことは最後までやり通すのが人として当然だと述べる、真っ直ぐな奴。一見緩く見えるが、何事に対しても要領良くこなせる器量をもつ彼。知識の豊富さに長けている、けれどそれは努力の賜物である秀才。

 僕も彼女も、彼らにもう一度会いたくて堪らない。


「会いたいね、皆に」
「会えるよ、私たちが逢えたんだから」





陽だまり
(転生という非現実な事実が、どうか彼らにも巡っていますように)





H24.9.24