「新しい世界へようこそ!」 目の前のピエロはそう言って楽しそうに笑った。 真っ白で何もない部屋。目覚めた私と同じような白。私には何もなかった。過去も、名前も元々なかったかのように空っぽで思い出せない。 「君はね、このサーカスの団員なんだ。それ以外の何者でもないよ」 ピエロは愛おしそうに私にそう言った。ピエロは自分のことを語らない。名前も教えてくれないから、団長と呼ぶことにした。 このサーカスで目覚めて数日後、黒髪に猫の耳と尻尾を生やした青年が私を訪ねてきた。 「アリス、僕のことを覚えてる?」 大体二十代半ばくらいだろうか。 男性にしては少し高めの声の彼は、私の知り合いのようだった。いや、知り合い以上の関係だったのかもしれない。 大切なものを触るような手が、泣き出しそうな顔が、私の中のどこかでひっかかった。美しいと思った。私は彼の知る私ではないことを伝えれば、彼は悲しげに笑うだけだった。 私に過去があればよかったのに、と思ったら、初めて少しだけ涙が出た。 団長に私はアリスという名前なのかを聞けば、「それでもいいよ」と的を得ない答えが返ってきた。このサーカスはそこそこの規模で、様々な人がいた。けれど、特別関わる気にもなれず、交流は持たなかった。他にも私を知っている人間がいたようだけれど、どうでもいい。 今の私には関係ないことだ。 それでも時間は進む。 いつまでも居候してるわけにもいかず、サーカスの団員として出来ることはした。 「君はナイフ投げが上手かったんだ。百発百中でね。ほら、投げてごらん?」 「…無理だと思う」 「いいからいいから」 まさか自分がパフォーマーの一人とは思ってもいなかったが、身体は覚えていたのか、ナイフは綺麗な弧を描いて的に当たった。一度投げてみると、不思議なものでナイフは自分の手にしっくり馴染んだ。 もう少し練習すれば、なんとか仕事は出来そうだ。 私をアリスと呼んだ男は毎日私に会いに来た。他愛ない話をして、最後に必ず「思い出した?」と尋ねる。 「ごめんなさい」と謝れば、彼は悲しそうに笑った。 私は彼に、あえて名前を聞かなかった。聞く必要なんてなかった。 名前を呼んでしまったら、何かが壊れる気がして。 彼に呼ばれるアリスという名前は心地が良い。甘やかされていたい。綺麗なものだけを見ていたい。彼と一緒にいたい。 私は空っぽだったから。ずっと。…ずっと? 「…それでね、そこでお客さんが、」 「ねぇ、…私って、」 どんな人間だった? そう言いかけて口をつぐんだ。 目の前の彼は、やっぱり悲しそうに笑った。 next <<index |