「烝くん、烝くんっ!!」
揺れる船の一室。
俺と同じ、黒い忍装束を着た女性が繰り返し俺の名前を呼んでいる。
俺の手をきつく握りしめるその手は思っていたより小さくて、
(…当たり前か。俺とは十近くも離れているんだ)
この小さな手を、羅刹なんかよりずっと綺麗な紅い瞳から涙を流す彼女を、もう守ることのできない自分がどうしようもなく情けなかった。
(…いっそ、変若水に手を出してしまおうか)
いや、そんなことをしたら余計泣かせてしまうだろう。
分かっている。
しかし、彼女の傍を離れたくない自分がいるのも事実で。
「………玲」
か細い声で彼女の名を紡ぐ。
動かない体に鞭打って、握られていないほうの手を玲の頬に伸ばした。
「すすむ、く…」
「…泣かないでくれ。
どうしたらいいのか、わからなくなる」
…本当は、今すぐにでも起き上がって抱きしめたい。
だが、今の自分には彼女の涙を拭うので精一杯だ。
「…俺らしくないと、思うだろうが…」
呟くように言えば、涙で濡れたその目を俺に向ける。
「…もし、来世と言うものがあるのなら」
その言葉に、玲の頬を伝う雫が増える。
気付いたのだろう。
別れの時が、もうすぐだという事を。
「嫌だよ、烝くん」
「…また、君と巡り会いたいと思う」
「らしくないこと言わないでよっ」
「…だからそれまで、待っていて、くれ」
「烝くん!!」
「…玲、…愛して、いる」
もう一度涙を拭って頬を撫でると、俺はゆっくりと目を閉じた。
………
「…烝くん」
「…ん…、」
目を開くと、真っ先に視界に映ったのは玲さんの顔。
一瞬、何故俺の部屋に…と混乱する。
数拍おいて、下校中に玲さんと会い、そのまま俺の家に来ることになったことを思い出した。
そして部屋で勉強していたら眠くなってしまい、半ば強制的に膝枕をされて気付いたら眠っていたのだ。
「さっき土方さんから連絡があってね、今日近藤さん家で食事会するから烝くんも来いって」
「…そう、ですか」
(…夢、か)
ぼうっとする頭で、先程の夢を思い出す。
夢にしては、やけにリアルだった。
身体に走る痛み。
きつく握られた手。
そしてそれを握る、玲さんによく似た女性の頬の感触。
(…いや、似ているなんてものじゃない)
あの人は、紛れもなく玲さんだった。
物心ついた時から傍にいた、3つ年上の玲さん。
幼い頃からずっと慕ってきて、少し前にようやく恋人になることができた。
…そんな彼女を、この俺が見間違えるわけがない。
「よく寝てたねぇ。いつもは一言声掛ければすぐ起きるのに」
「…夢を、見ていたんです」
「夢?」
きょとんと、赤みがかった目を俺に向ける玲さん。
こんな話をしてもいいのだろうかと迷っている間にも彼女は興味津々にこちらを見てくる。
俺は小さくため息をつき、しぶしぶ話し始めた。
「…俺は死にかけていて、玲さんに似た忍装束の女性が、俺の手を握って、ずっと泣いていたんです」
「なんて夢見てるのよ…」
「自分でもそう思います…。でも、体の重さとか痛みとか、やけにリアルで…」
そう言いながら身体を起こすと、玲さんが「そういえば、」と人差し指を自分の顎に当てた。
「そういう夢って前世の記憶だったりするって大学の先輩に聞いたことがあるよ」
「前世…?」
「そう。前に私も妙にリアルな夢を見たことがあってね。君菊姉さ…その先輩に言ったら、そうじゃないかって」
「…玲さんは、どんな夢を見たんですか?」
「えーと…、烝くんの夢に出てきた人と同じで忍装束着ててね、京都で情報屋やってたの。で、あの有名な新選組と暮らしてたような…」
「しんせん、ぐみ…」
新選組。
その名前に、頭の奥のほうがじわりと痛む。
何かが思い出せそうで、しかしそれが何なのかわからなくて、気持ちが悪い。
(…一体…、俺は何を忘れているというんだ…)
分からない。
だが、早く思い出さなくてはいけない気がしてならない。
痛む頭に手をやり黙り込んでいると、眉間に彼女の細い指が当てられた。
「っ、」
「烝くん、土方さんみたいになってるよ。どうしたの?頭痛い?」
「…いえ、大丈夫です。すみません、そろそろ行きましょうか。もしかしたら皆もう集まっているかもしれない」
俺の眉間からそっと手を離させて立ち上がると、時計を確認した玲さんも焦り出す。
「え、あっもうこんな時間!?そうだね、急ごう」
「家には戻らなくていいんですか?」
「大丈夫大丈夫。今日は食べてくるって連絡はしたし、どうせいつものメンバーしかいないから服も気にすることないしね」
そう言いながら俺に続いて玲さんも腰を上げ、それぞれコートとマフラーを持って部屋を出た。
近藤さんの家に向かう途中も、先程の夢が頭から離れなかった。
妙な頭痛も、胸のもやもやも、一向に晴れてくれない。
(…なんなんだ、この感じ)
もう少し、もう少しで思い出せそうなのに、何かが足りない。
考えても考えても分からなくて、なんだかイライラしてきた。
「烝くん!」
「っ!!!!」
突然目の前に現れた玲さんに、不意をつかれた俺は思い切り後ずさった。
「ど、どうしたんですか?」
「烝くんのがどうしたのさ。さっきから呼んでるのに全然返事しないんだもん」
「あ……」
俺としたことが、全く聞こえなかった。
周りに聡いのが俺の取り柄だというのに…。
「すみません、玲さん…」
「いいよ。しっかし、烝くんがぼーっとするなんてらしくないねぇ」
白い息を吐きながらそう言って笑う彼女に、また頭痛が酷くなった。
「ーっ、」
「えっ、烝くん!?」
じくりじくりと、脳を直接刺激されるような痛みが走る。
頭を押さえながら、俺はまた思考を巡らせていた。
(…らしく、ない)
夢の中でも言われたその言葉。
(…それ以前にも、言われたことがなかっただろうか)
こんな寒い冬の夜に、二人で歩きながら。
俺より『年下』の彼女に。
「ーあっ、烝くん雪だよ!」
「あぁ…、通りで寒いはずだな。早めに切り上げて屯所に戻るか?」
「ううん、雪が落ちてくる所見るの好きだからいい。それに、まだ烝くんと一緒にいたいしね」
「っ、…玲」
「あっ照れた!えへへ一本取ったりー!」
「玲!」
「はいはい。…ふふ、綺麗だねぇ…」
「………」
「っ、ど、どしたの烝くん、急に手なんか掴んじゃって…」
「お前が離れて歩くからだ。…悪いか。いい歳した男が恋人と手を繋ぎたいと思っては」
「…烝くん熱でもあるんじゃないの」
「うるさい」
「…ふふ、こんな街中でこんなことするなんて、らしくないじゃない?」
「……」
「でも、そんな烝くんも好きだなぁ」
「…そうか」
(…なんて馬鹿なんだ、俺は)
あんな夢を見ておきながら、いや、こんなにも彼女を想っていながら、思い出すのにこんなにも時間がかかってしまうなんて。
先程まで俺の頭を襲っていた痛みは、気づけば跡形もなく消えており、ゆるりと顔を上げれば、心配そうに俺を覗き込む彼女が写る。
あの頃と変わらない、愛おしい存在。
「…烝、くん…?」
彼女は、覚えているのだろうか。
覚えていないだろうな、夢の話をしても反応は薄かった。
(…それでも、構わない)
彼女があの頃のことを覚えていなくてもいい。
今はただ、彼女を抱きしめたくて仕方がない。
最期に、そうしてやれなかった代わりに。
「、うわっ!」
腕を掴んで引き寄せ、自分の腕に彼女を閉じ込める。
あの頃よりも少し華奢な身体に、愛おしさが募った。
「…玲、」
「ど、どしたの、いつもは恥ずかしがってさん付けなのに…」
突然の行動に驚く彼女に構わず、俺は抱きしめる力を強める。
そして、耳元で呟くように言葉を紡いだ。
「…すまない。随分と、待たせてしまった」
「へ…?」
「…俺の方が先に死んだのに、今は俺が年下だなんて少し不思議だな」
「烝くん、何言っ…、ぁ」
訝しげに俺の名を呼んだあと、小さく声を上げる。
少し体を離して覗き込めば、昔と変わらない綺麗な紅い瞳いっぱいに涙を溜めていた。
「す、すむ、くっ…」
「…いつもの余裕はどうしたんだ」
「だって、」
ぼろぼろと大粒の涙を流す彼女の頬を一度拭い、また強く抱きしめる。
今度は、背中に彼女の腕が回るのを感じた。
「…本当は、あの時もこうしたかったんだが…、身体が動いてくれなかった」
「烝くん…っ」
「記憶はなくても、魂は覚えているんだろうな。その証拠に、またお前と巡り会えた」
「…っ、ふ、」
「…もう一度、言わせてくれ。…愛している」
時を越えて、また君と
(言い逃げなんてずるいよって、ずっと思ってたの)
(貴方が海に溶けた後も、ずっと言いたかったの)
(…私も、愛してる)
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