ただいま 男はいつも、暗闇と静寂の中で目を覚ます。 ゆっくりと瞳を開けた先には、見慣れた黒色の天井。 なにか、夢を見ていたような気がする。ベッドから身を起こしながら、ぼんやりと考える。 それは、珍しいというより、本来ありえないことのはずだった。 スネイプはいつも、眠る前に必ず自ら調合した睡眠薬を呷る。 持病の不眠症はその一因だが、なにより夢を見ることが嫌いだった。 夢は、自らの心をあまりに素直に映しすぎる――。 杖を軽く振って身支度を整え、寝室から研究室へとつながる扉を開ける。 薬品の調合器具が並ぶ棚からティーセットを引っ張り出し、水の入った鍋を火にかける。 ”バケーション中につき、お食事はご自分で!”――ティーカップにうっすらと刻まれた文字は、図々しくもかれこれ3週間余りそこに居座り続けている。 一体いつからそんな制度ができたのか、ホグワーツ付きの屋敷しもべたちが長期休暇に合わせて城から姿を消すようになってからというもの、朝食はもっぱら紅茶だけで済ませるようになってしまった。 まあ、元来朝に食欲のある方ではないのだが。 本来食事の呼び出し口になる銀食器が、何の役にも立たず薬品棚の貴重なスペースを占領しているのが、気に食わないところではある。 紅茶に口をつけ、事務机に積み重なった羊皮紙の山から数枚を取り上げる。 毎日のように魔法省や外部機関から届く、魔法薬の調合依頼書。 金を稼ぐことには興味はなかったが、その報酬の多くが貴重な試料や調合材料とあっては、仕事を断る理由は無く。 休暇中は暇を持て余すだろうと思い依頼を受けるだけ受けた結果、こうしてタスクが文字通り山積するに至る。 日々少しずつ片づけて、これでも最初よりはマシな量になったのではあるが。 それにしても――。 羊皮紙に何度か視線を走らせたはいいものの、その内容が一向に頭に入ってこないことに気付いたスネイプは、小さくため息をついて羊皮紙の束を机に放りだす。 なぜかは知らないが、今日は妙に気力というものが湧いてこない。それどころか、私室に閉じこもって調合に励むことが、ひどく憂鬱にさえも感じられたのだ。 どこから湧き上がったとも知れぬよくわからないエネルギーを持て余して、スネイプはグイと紅茶を呷った。 階上へとつながる階段を登る、コツ、コツという靴音が石壁に反響する。 季節を問わず冷気の立ち込める地下と打って変わって、湿度の高いむわりとした空気がスネイプを出迎える。 私室にいるときは気付かなかった――というより気付きようがなかったのだが、今日は一段と暑い。 夏らしさ溢れる夏、とでも言おうか、真っ青な空から刺すような日差しがホグワーツを照り付けている。 なんの気の迷いか地上へふらりと現れたスネイプを暗闇へと送り返さんとばかりのその陽気に、スネイプは小さくため息を漏らした。 誰もいない校舎。 外はこんなにもうだるように暑いというのに、それでいて奇妙な静寂を湛えている。 暑さにあてられたせいか、当て所なく彷徨い歩いた先、辿りついたのは湖。 すぐに、その岸辺に立ち並ぶ小舟が眼に入る。 新入生の歓迎に備えて、これから対岸へと渡されるのだろう。 小さなさざ波にゆらゆらと揺れるその様を見つめ、ふと目線を上げる。 と――、その先に、一隻の小舟。 なぜあんなところに舟が。スネイプは思わず眉を顰める。 岸辺の群れから一人離れ湖の中ほどに小さく浮かぶその姿が見間違いではないことを確認し、すぐに舟をこちらに呼び寄せるように杖を一振り。 たまたま漂流してしまったのだろうか、――この穏やかな湖で。 不可解だ。 湖面をゆっくりと滑る舟が徐々にこちらへと近づき、スネイプはふと其処に乗客がいたことに気が付いた。 腕を組んで頭の下に敷き、寝そべる小さな影。 「お前――」 なぜこんなところに。 小舟の中で小さく寝息を立てるその姿が誰のものか認識したスネイプだったが、そのせいで状況が余計に掴めない。 それから大きくため息をついて気を取り直し、小舟に彼女と共に収まる本を手に取る。 その厚さと硬さを確認してから、少し袖を上げ、彼女の方に向き直る。それから、その頭めがけてそれを振り下ろした。 「っっったあああッ〜〜〜!」 途端に跳ね起きた***は急いで周りを見渡して、ようやく呆れたように此方を見下ろす男の存在に気が付く。 そのスネイプの姿を捕えて数秒の静止。 それから***のぽかんと空いた口が驚いたように縦に少し開き、さらにまた数秒かけて口元が笑みを形作る。 「す、スネイプ先生〜〜っ!」 喜びを爆発させるように小舟から身を乗り出した***は、そのままバランスが崩れるのも気にせずスネイプの胸に飛びこ――めなかった。 代わりに、***をかわしてすい、と一歩下がったスネイプの足元に倒れこむ。 「もう君の『先生』ではない」 君は数年前に卒業しただろう、と窘めると、むぐ、と返事らしからぬ返事。 「此処で何をしていたのかね」 冷たくこちらを見下ろして尋問するようにそう尋ねるスネイプの姿に、***は少し唇を尖らせながら土埃まみれの顔を上げる。 「…天体観察です」 「…今は昼だが」 顔と服を手で払う***にそう指摘すると、***は気まずそうに少し目を逸らす。 「夜だったんです…。寝オチする前は」 「つまり、小舟の上で眠りこけて流されるがままだったと?」 まあ、そうなりますかね、とやはりばつが悪そうに目を伏せて答える***に、スネイプは呆れたように溜息をもらす。 「――で、何故ホグワーツに?」 これが、一番重要な部分だった。 その質問を聞いて、***はぴくんと顔を上げる。す、と人差し指を伸ばして指した先はスネイプの右手。 それです、それ、と興奮気味につんつんと指し示しているのは、其処に握られていたままだった***の本で。 表紙に刻まれた文字は、『宙の極限を見つめる』。 「つまり――?」 いまだ首をかしげるスネイプの言葉を引き継ぐように、***は満面の笑みで、こう宣言したのだった。 「――なんと私は!今年から!天文学の教授になったのです!」 「…有り得ん」 それが、***の宣言を聞いたスネイプの第一声だった。 なんでですか!、と憤慨したように頬を膨らませる***に、その態度がいかんのだ、と冷たく言い放つ。 「まだ年端もいかない子供だろう、貴様は」 教師には向かん、とすげなく言うと、***はむっとしたままじっとスネイプの方を見つめ、それからスネイプに背を向けるように湖の方へと視線を向けて。 「先生は、きっと喜んでくれると思ってました」 少し微笑んで、それでいて少し傷ついたようにも見えるその横顔をちらりと見やり、スネイプは直ぐに視線を逸らす。 「今まで、どこにいたのかね」 詰問しているような口調にならないように、できるだけ何気なく、注意深くそう尋ねる。 ***は少し逡巡するように視線を落とず。それから口を開いて、言えません、と小さく答えた。 思わぬ返答に、スネイプは、そうか、とだけ返す。 どこで何をしていたのか、よからぬ想像が頭いっぱいに広がり、スネイプはそれを振り払うように息を深く吐いて。 長かった――、と言葉を紡ぐ。 「――君からの手紙が途絶えてから」 心配していた、と正直に吐き出すと、***が少し驚いたように、そして心なしか嬉しそうに、顔を上げた。 「君が言いたくないのなら、無理に聞き出しはしまいが」 その言葉の端ににじむ色は不服そのもので、その意味するところを感じ取った***はおずおずと声を掛ける。 「もしかして教授…、私が教授のこと忘れてたと思ってます?」 その表現が気に食わなかったのだろうか、スネイプはその言葉を聞いて眉根を寄せ、ふいと目線を外す。 その様子に、***は思わずぷふ、と小さく噴き出した。 それから、教授ならいいか、と小さく呟いて。 「手紙は、出したくても出せなかったんです」 どういう意味だ、と訝しげなスネイプに、***はふう、と息を吐いてから言葉を続けた。 「…私、神秘部に在籍してたんです」 これ、絶対秘密ですよ!と念を押す***の言葉を受け流しつつ、スネイプの頭にその言葉が響き渡る。 神秘部。 「そう、か」 道理で***の知り合いに掛け合ってもその行方がしれないはずだ。 愕然としながら、スネイプは今まで阿保にしか見えなかったかつての教え子を見下ろして。 「な、なにか顔についてます?」 わたわたと顔を拭うその様子に、判断を決めかねるようにやはり小さくため息を漏らした。 ともかく、とスネイプは先ほどから地べたに座り込んだままの***へと手を差し伸べる。 「土産話は執務室で聞かせてもらおうか」 ここは暑くて敵わん、と言葉を続けると、***の小さな、少し汚れた手がこちらをぎゅ、と握り返して。 ここ数年抱えたままだったあらゆる心配が杞憂に終わった反動だろうか。 ぐいと***の身体を持ち上げて、そのまま腕の中に引き寄せる。 久しぶりに抱きしめるその身体は依然小さくて、それでいて柔らかみは少し増したような感触。 それから、突然のことに戸惑った様子の彼女の額に一つキスを落として。 「教授のお部屋、久しぶりです」 少しわくわくしているような、それでいて恥ずかしそうなその様子に、スネイプは小さく笑みを零す。 「変わり映えしないがな」 「それでいいんです!」 きっぱりと答えた***は、あ、そうだ、とスネイプを見上げる。 「教授、何か私に言い忘れてることがありますよ!」 「……?」 首をかしげるスネイプに、ほら早く、と***は急かすようにぴょんぴょん跳ねてみせる。 「あー、教授採用おめでとう」 「そうじゃなくて…!」 わたし、久しぶりに帰ってきたんですよ!ホグワーツに!とぷりぷり言う***に、スネイプは漸く***の意図するところを理解して。 少し気恥ずかしくもある言葉を、待ちわびる***に少し躊躇いながら口にする。 「…おかえり」 ――ああ、彼女は帰ってきたのだ。 スネイプの言葉を聞いて、向日葵のようにまぶしく輝くその笑顔を見つめ、スネイプはもう一度胸の中で繰り返す。 ――おかえり、***。 |