私が咄嗟に目を瞑ってからどれくらい経っただろうか。すぐ傍でする彼のせっけんの香りが私を緊張させる。
今、何が起こっているのだろうか。どうして、この状況になっているのだろうか。考えても考えても答えは見つからない。
だけど、一つだけわかることがある。武は今、怒っているということ。理由はわからないけどそれだけはわかる。
きっとさっきの廊下での会話に何か勘違いが起きているに違いない。もう一度しっかり話して、誤解を解こう。
意を決して瞼を開けることにした。
「……っ!」
強く目を瞑っていたせいか、少しぼやけた世界になっていた。その中に映ったのは、私の肩を掴んだままがっくりと頭を落としている武の姿だった。
「……た、たけし。」
彼の名前を呼ぶとピクリと動いて、ふーっと息を吐きながらゆっくりと顔を上げ始めた。
「あ! あのね!!!」
顔を上げた武と目が合ってすぐに私は、口を開いた。
「昨日の夜、獄寺との仕事が終わってから疲れてそのまま倒れて寝ちゃって!! 獄寺と了平さんが運んでくれたの。そして、私の部屋に勝手に入るのは悪いと思って了平さんが自室まで運んで休ませてくれたの!! そして、朝起きたら遅刻しそうな時間で了平さんも床に座って寝ててッ……起こして急いでッ……!!」
武に間違いがないようにちゃんと話したいと思えば思うほど、自分の言葉はおかしくなって早く伝えなきゃと言葉よりも先に気持ちが前に出る。
「だからね! スーツがしわしわだったのも朝了平さんのところから帰ってきたのも……!!」
私は、大バカ者で武が怒っている理由もわからないのに必死に説明しようとしている。彼にとっては、言い訳を言っているように聞こえているかもしれない……だけど、私が口に出してちゃんと言わないと本当のことを伝えられない。
「武がッ……。」
ずっと掴まれていた肩が急に楽になった。武は、するっと手を下ろし頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
「あああああああああー…………!!!」
大きな声を出して、抱えた頭をぐっしゃぐしゃにかき始め、
「うっわー、俺だせーわ!!!」
「た、武……?」
黙り込んでいた彼が次々に言葉を発するもんだから私は、口を開いたまま固まってしまった。
「悪かったな……。」
しゃがんでいる彼が顔を上げ、私を上目で見つめそう言った。
「俺、なんか……焦りすぎてすげーかっこ悪かったわ。そんなことあるはずねーのにな。」
眉間にしわを寄せながら少しだけ恥ずかしそうにしている。
「え……っと。」
「急いでるのに悪いことしたな、ごめんな。」
「わ、私は別に……というか、武怒ってたよね?? え、私今の状況についていけてないんだけど!!」
「わりぃわりぃ。何でもねーって。」
そう言って立ち上がり私の頭をクシャと撫でいつもと変わらない笑顔になった。
「急いで部屋戻って準備して来いよ。」
部屋の戸を開けて私の背中を押し一緒に廊下に出た。そのまま笑顔で武は、「またあとでな」と手を振りながらエレベーターの方へと歩いて行ってしまった。
私が了平さんの側近になってからあまり顔を合わすことがなかった武。よく顔を合わすようになった最近の彼は、学生の頃とは違う一面を見せるようになった。いつの間にかすっかり大人になっていて、男の人になっていた。
ただ無邪気に笑っているだけの昔とは少し違い、笑っているのにどこか余裕がなさそうで私には気づけていない感情を持っているような気がする。今も結局、彼が何を感じて何を思って私の肩を掴んでいたのか分かっていないのだから。次々に変わっていく彼の感情と行動に私は、すっかり置いていかれてしまっている。
そして武は、独りで何かを焦っているように見える。最後は、いつもと変わらない笑顔だったけど、その裏にはきっと何かを隠している。私には、言えない何かを。
少しずつ幼なじみの私たちに距離ができてしまっているのではないかという不安が押し寄せて胸がぎゅっと苦しくなった。
ざわつく心を抑えるように深呼吸をして私も部屋へと駆け足で向かった。
――――――――――――――――――――――――――
部屋について急いでシャワーを浴びて髪を乾かし、軽く化粧をした私は、新しいスーツに着替えて部屋を飛び出し朝食を食べるのを諦めてまっすぐツナのところへと走った。
「し、失礼します!!」
色々なモヤモヤを吹き飛ばそうとプライベートルームからエレベーターを使わずに階段を使い全力で走ってきた私は、息を切らしながらツナの仕事部屋に顔を出した。
「お、おはよう雫ちゃん……。そんなに息切らしてどうしたの!?」
「ちょ……っと、運動がてらに……はぁ……はぁっ、部屋から走ってきた。」
「昨日の夜倒れたって聞いたよ? もう大丈夫なの? 無理しないでよ……。」
「大丈夫!! 頭使いすぎちゃっただけ! ほ、ほら! もうこんなに元気でしょ!!」
身体をバタバタと動かして、ツナに元気アピールをした。それを見たツナは、苦笑いをしながら「わかったよ」とつぶやいた。
「今日は、これと……これと、これをお願いするよ。補助の方は、お兄さんでもう隣の部屋にいると思うから手伝ってもらってね。」
「わかったわ。早く仕事覚えて手伝いなしで熟せるようになるわ。行ってきまーす!」
「なんだか少し、無理しているような気がするけど大丈夫かな……。」
ツナがボソッとつぶやいた声も聞き取らぬまま、たくさんの書類を抱えて私は笑顔でツナの部屋を出た。
―ガチャッ―
「了平さーん、お手伝いお願いしますねー!!」
大きな声を出しながら扉を開け、了平さんの座っているデスクにまっすぐ近づき目の前に書類を乗せた。
「これまたすごい量ではないか。」
山になる紙を見て目を丸くしている了平さんは、その中から一枚を取り出し内容を確認し始めた。
「いつもは、私が了平さんのお仕事手伝ってたのに、今日は逆ですね。」
ハハハと笑いながら了平さんを見ると次々に積まれている書類を手に取り真剣に読んでいた。
「ふむ。確かにこの役職は雫に向いているかもしれんな。お前は、観察力に長けているから誰にどの任務が的確かすぐにわかるようになるだろう。……しかしだな。」
「了平さん?」
書類を見つめながら眉間にしわを寄せ「んんー」と唸り始めた。
「雫も自分で言っていたが、晴の守護者の側近としてやってきたために晴の属性の特長しか知らないということと晴チームの人間についてしか知らないということがネックになると思うのだ。」
「そうなんですよね……。」
「これについては、沢田と要相談という形になるな。他属性との関わりを持たなくては一人でこの役職を熟すのは難しいと思うぞ。」
「あとでツナに相談してみますね。」
「ああ。でも、俺達がサポートするから今は他属性について勉強しながらがんばってくれ。」
「はい!」
了平さんの目の前の書類を半分崩して横にずらし、属性について書かれた本を開いて私も椅子に腰かけた。