夫は時折、遠い目をする。
 そんな目をするのは決まって、遥か彼方の空を眺め、広大な大地を見渡し、そして肌身離さず持ち歩いているオカリナを吹くときだ。

 夕陽で黄金色に染まった草原に腰を下ろし、夫が静かにオカリナを吹く背中を、私はいつも少し離れた場所から眺めている。
 さわさわと草葉を揺らす穏やかな風に乗り、美しい音の調べが世界に流れていく様が、そしてその背中が、金色に縁取られた横顔が、私の目にはどうしてなのか、ひどく孤独なものに映り、堪らなくなる。
 夫が、夫という存在が、まるで世界にひとりきりのようで。
 その姿を見るたびに、この人はひとつの場所に縛られていてはいけない人だったのではないかと思う。夫には他に帰るべき場所があったのではないかと。今の私は、かつて旅人だった夫を理不尽に縛りつけるだけの存在だろうかと。
 夫が私と一緒になったことは間違ったことだったのかもしれない。
 そして夫も、そんな現状を悔いているのではないか。

 共に居る時間が長くなるたびに、私のその思いは益々深まっていった。

 だからその話が夫に回ってきたとき、非常に大袈裟なことだが、これは天命なのではないかと確信した。

 まだ出来て間もないこの村の特産品として作った剣を、ハイラル王家へと献上しに行くという。そしてその役目は、腕も立ち旅慣れもしている私の夫へと回ってきたのだ。
 これはチャンスだ。これを契機に、夫を解放してあげよう。私は前々から考えていたからこそ直ぐに決心し、早朝から旅立つことになり、旅支度をしてエポナに跨った夫を見上げて言った。
 もう自由になっても、いいんですよ。
 夫は静かに目を見開いて、それから何かを考える素振りを見せ、やがて微かにだが首を縦に振った。頷いた、のだと思う。
 そんな夫が冷たいとは思わない。夫は優しい人だということを、私は知っている。優しいからこそ、この村から、私から離れられなかったのだ。
 私は夫を愛していたが、だからこそ何かに未練を持ったまま無理に傍に居て欲しくはなかった。
 それに、これではまるで浮気をされているようではないか。夫が、夫なりに私を愛しているのも知っていたが、過去に比重を置かれては妻として、いや女としての立場がないし――何より夫の足枷になりたくはない。
 私は夫が大切にしているオカリナに刻まれている紋章が、ハイラル王家ものであるということを知っていた。
 そして夫がこれから向かう先はハイラル城だ。
 だからこれでよかったのだと思う。そう思うことにした。

 もう会うこともないだろう。
 私はこれが今生の別れのつもりで、村を去っていく夫の姿を見送った。
 その際に私の頬を伝った涙は、これまでの夫婦としての生活と、これから旅立つ夫への手向けだ。



 それから数日が経った。
 夫は――何事もなく献上品を届けて、村へと戻ってきた。
 村長への報告を済ませ『家』へと帰ってきた夫に、私は詰め寄った。
 なぜ戻ってきたんです?
 私は夫がもう戻ってこないと思っていた。だからこそ、そう尋ねずにはいられなかった。
 どうか許して欲しい。
 夫は私の問いには答えずに、許しを請うた。
 一体、何を?
 問い返せば、夫はまるで神に祈るように、もしくは懺悔するように、両手で私の手をそっと包み込んだ。大きな手……何度も魔物から私や村を守ってくれた手だ。私はただただ瞠目した。そして夫は静かに語り出す。
 僕は不甲斐ない夫だ。君を愛する心に嘘はないが、過去への拘りも捨てることが出来ないでいた。村での生活は楽しかったし、何より君が傍に居てくれたから幸せでもあった。けど、心のどこかでそんな生活に馴染みきれない自分もいたんだ。孤独だが、輝かしくもあった過去への拘りが、そうさせたんだな。馬鹿な男だ。だから君が自由になってもいいと言ってくれたとき、僕は頷いてしまった。でも僕は直ぐに気付いてしまったんだ。自由になってしまった僕には、もう行くべき場所も帰れる場所も他にはないんだと。そして君がおかえりなさいと言ってくれる場所こそが、本当に帰るべき場所だったんだと。そう思ってしまった時点で、僕はすでに旅人としての資格を持っていなかった。もはや僕が求めていた過去には何の価値もなかった。そこに残るのは、本当の孤独だ。寂しいという気持ちを、知っていたはずなのに、僕は再び自分から孤独になろうとした。でもそれは過ちだと気付いた。気付けた。だから僕は恥知らずにも、ここに……君の元へと戻ってきてしまったんだ。
 私の手を包む夫の両手が小さく震えていた。そうしてこれが夫の告解であることに、ようやく私は気付いた。
 僕の過去を全て語ることは出来ない。だけど全て振り切ってきたつもりだ。僕が過去に拘っていた最たる理由であるオカリナも、あるべきところへと返して来た。僕は今度こそ、真実、君の夫としてこの村で生きて、死んでいく。だからどうか、これからも僕が君の傍で生きていくことを、君の夫であることを許してくれないだろうか。
 夫の震える両手の上に、私は残されていた片方の手のひらを乗せた。寂しいこの人の心を癒せるように、そう願いを込めて精一杯微笑んだ。

 私の夫は、あなただけです。
 これまでも、そしてこれからも――。



 夫は時折、遠い目をする。
 そんな目をするのは決まって、平穏な村で元気に遊び回る我が子を視界に収め、そして隣にいる私の姿を確認したときだ。
 そして微笑みながら、こう呟くのだ。

 親愛なる友よ。君がどこにいるのかは今も分からない。でも僕はもう、君を探そうとは思わない。
 僕はようやく君がいなくても大丈夫な、本当の勇者になれたよ、と。



12/04/02


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