選択権のない話
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 長曾我部元親という男を、僕は侮っていたのかもしれない。否、決して侮っていたわけでも、ましてや過小評価していたわけでもなく、あの冷徹な兄をも警戒させる粗忽な危険因子であるその男には極力関わることのないよう、常に気を張っていたつもりだった。だというのに、告白をされたあの日以来、僕の周囲には必ず長曾我部元親の影がある。ある時は早朝、校門の前で僕を待っていた。幸い日直だった兄上はその場にいなかったものの、万が一兄上が共にいたのであれば巻き起こる紛争は免れない。そしてある時は休み時間、図書室へ本の返却に行く僕の肩を後ろから叩いたりもした。移動教室ですれ違えば廊下に立ち塞がり、全く他愛のない、僕にする必要もないであろう雑談を繰り広げることも少なくなかった。完全にマークされている。バスケットボールの試合中、自分の隣にピッタリと張り付きこちらのプレイを妨害するような、そんな執念すら感じるほどだ。これまでのやり取りは兄上に知られていないため責が飛んだことはないものの、そんな幸運がいつまでも続くとは思えない。それに兄上の目に留まらずとも、学園で一二を争う不良と名高い長曾我部元親に僕が目を付けられているという事実は、同級生の口を介しまことしやかに校内へ広がりつつある。どうにかしなければ。何とかして長曾我部元親と距離を置かなければ。それも、兄上の耳に入る前にだ。日に日に上がる長曾我部との遭遇率に焦燥感が募り、授業に身が入らないなどということは絶対にあってはならない。成績が落ちれば間違いなく兄はそれらに勘付くだろう。
 終業のチャイムが鳴り、教室を出たその足で僕は図書室へと向かう。1年の教室が並ぶ直線の廊下を抜け、東棟にある図書室へ繋がる渡り廊下を足早に抜ける。1つ下の階にある図書室へ行くには10分の休み時間は短すぎるが、それでも今の僕には気を紛らわすための本が必要だった。これは本の虫の性分とも呼べるだろうか。廊下の角を遠目に窺い、長曾我部の影がないことを確認し抜ける。念のため背後も振り返った。いない。これなら今日は遭遇することはなさそうだ、と。そう思いほっと胸を撫で下ろして、階段の手すりに手をかけ足を踏み出したとき、そこにあるはずの床の感触がなかった。たかだか20センチやそこらの段差だ、足を下ろせばすぐに床を踏む感触が足裏に伝わるはずなのに、僕の足は着地すべき地面を失い、体が下へ向け大きく傾いた。心臓がキュウッと絞り上げられたように縮みヒッと息が漏れる。階段を踏み外した。咄嗟にそう理解した。手すりに添えた手に力を込めるも驚愕するばかりで力が入らない。それどころか反対の手に持つ本を落とすまいと気もそぞろなため、もはや傾く体を止める術がなかった。日常とは違う不自然に遅い時間の流れが僕の視界に映る風景を切り取っていく。誰もいない階段。窓の向こうの鮮やかな晴天。2メートルほど下にある踊り場。あそこに落ちたらまずいとは理解しつつも僕の体はそこに向かって落下する。頭を打つかもしれない。せめて背中から落ちなければ。今更冷静になっても遅いのに。体を強打することを覚悟し、歯を食い縛り目をきつく瞑った。ドン、という衝撃が来るとばかり思っていた。しかし僕の体はそれ以上重力に引きずり落とされることはなく、その代わり、腹に何か太いものが巻き付き食い込む感覚に襲われた。酸素が押し出されウッと声が漏れる。鳩尾の下辺りを締め付けるそれが、落下しつつある僕の体を支えてくれたらしい。手から滑り落ちた文庫本が遥か下の床へと落ちる音が吹き抜けの階段に高く響き、そろりと目を開ける。表紙カバーがめくれた文庫本は哀れに床に転がっていて、自分の体があれと同じことになっていないことに安堵した。早鐘のように鳴る心臓が胸を破って飛び出してきそうだ。視線を落とせば僕の腹には、手甲ともつかぬ独特のアクセサリーを纏う太い腕が巻き付いている。かろうじて右足の爪先が階段に触れているだけの状態で、この腕が僕の体重を受け止めて転落を防いだようだった。

「オイ、大丈夫か?」

 まるで大海原を航海した船乗りのような、潮で焼けたような少し高い声が僕の耳元で心配そうに言った。ここ数日で随分聞き慣れた声だ、それが誰のものかなど確認せずとも、火を見るよりも明らかだ。

「長曾我部元親……、先輩」

「おう! 驚いたぜ、まさか転げ落ちるアンタを引っ掴む日が来るなんてなァ!」

 冗談めかして豪快に笑いながら、長曾我部は階段の踊り場へと僕の体を引っ張り上げる。僕は確かに同世代の中でも発達が乏しく小柄な方ではあるが、それでも人1人を片腕で支えながら、その重量と自分の体重とを、手すりを掴む右手1本のみで支えるなど常軌を逸している。いつか兄上が言った体力馬鹿という侮蔑は、彼のこういう面を指しているのかもしれない。ようやく文字通り地に足ついた心地で、僕は長曾我部元親と向き直った。右の足首が微かな痛みを感じているのはひねったからだろうか。あまり運動が得意ではないとはいえ、よもや階段で足を踏み外し捻挫するとは。転落して骨折、なんてことにならなかっただけマシかもしれない。軽い捻挫なら隠すことも出来ようが骨折ともなるとそうはいかない。事は兄上に知れたら大目玉である。息を整え、随分とよれた襟やカーディガンをすぐさま直す。これも兄上に見られたら身なりを正せと叱責されるに違いないからだ。

「で、怪我はねえかい? 足だの何だのをひねったってんなら、保健室まで……いや、保健室はダメか。逆に危ねえや」

 頭をかきながら、長曾我部は1人話を続けている。僕としても保健医の明智教諭の異常な言動は少々信頼に欠けるため、仮に大怪我をしたとしてもなるべくならば行きたくはない。
 長曾我部元親関わってはならぬ。先程から兄上のその言葉が脳内でぐるりぐるりと輪を描いて走り続けていて、僕は声を出せずにいる。人として、お礼くらい言った方がいいのでは……しかしここで礼を述べたら、きっとそれが会話の切り口になってしまうだろう。そうなれば兄上の言いつけを、僕はまた破ることになるのだ。兄上の逆鱗に触れることだけは絶対に、何としても避けたい。でも紛いなりにも助けてもらった手前、何も言わずに去るわけにもいかない。どうすればいい。もしもここに兄上がいたならば、常のように「行くぞ、纏」と、有無を言わさず誘導してくれるのに。兄上に付き従うことに慣れた僕にとって、この状況はあまりにも変則的だ。拳を握り締め、唇を噛み締め、小刻みに震えて思案に耽る僕を見下ろし訝しむ長曾我部が「お、おい。どうした? どこか痛めたのか?」勝手に勘違いして心配の声をあげている。何だってこの男は僕にこれほど執着するのか。自分を毛嫌いする男の弟で、兄に言われるがまま等しく自分を毛嫌いする僕の、一体何を気に入ったというのか。僕に好意を抱いた男が、よりによって兄上が嫌う男だったなんて。僕に選択肢などないというのに。

「あ……兄上には……言わないで……」

 口から漏れた言葉は感謝でも何でもなく、そんな言葉だった。自らの保身ばかりを考え蚊の鳴くような、震える声を絞り出した僕の頭を、長曾我部は笑いながら撫でた。

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190816