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しばらくの間はこの静かな街を拠点とし行動しようと決めた矢先、立ち寄ったバーでよく見知った顔と再会した。まさかこんなところで、と思わなくもなかったが特徴的なフェイスペイントに奇抜なファッションと、それらに負けないインパクトのある鮮やかな髪色をもってして見間違うわけもない。ヒソカだ。先述した通り同業者のおらぬであろう静かな街を選んだのである、よもや偶然ばったり、というわけでもあるまい。さては何かしら目的があって現れたなとタカをくくり話しかけたものの、真偽はともかくどうやら当の本人にその意図はないようで「たまたまだよぉ♥」などと、いかにも胡散臭そうに目を細めうそぶいている。彼の言うことは信用ならない。何度痛い目を見たことか。意味があって謀るだけなら俺にも予想がつくけれど、この男は何のメリットも生まない嘘でも平気でつくのである。慎重すぎるほど慎重に会話を進めるくらいで丁度いいだろう。
そうして今夜もまたバーへ赴けば、やはりいつもの席に件の男はいた。背の高いイスに腰をかけ暗い木目調のカウンターテーブルに肘をつき、入店した俺に気付いたか視線を投げてくる。目敏いというか勘が鋭いというか、少々野生的な感性がある。よせばいいのに引き寄せられるようにつられた俺はノコノコと彼の隣に移動し、一瞥したのちイスを引いた。こうしてこのバーで会うのも何回目やらだ。何も言わずに微笑を浮かべた男が顔をこちらへ向けると、体重が移動しイスが小さく金属音を立てた。お互いに話があったわけでもない。そもそもそれほど口数の多い方でもなかったし、他愛ないお喋りをするほど気の利いた性格でもない。視線の合ったバーテンダーにジントニックを1つ頼み、俺も含み笑いを忍ばせヒソカの方へと顔を向けた。
「よく会うね」
「そうだねぇ♦」
そんなつまらないセリフで口火を切ってみる。何を考えているか計りかねる男は今日も今日とて上機嫌そうだ。何をするでもなくこんな街に滞在して一体何があるというのか。かく言う俺は喧騒を離れ次の目的地を決めるための羽休めなので決して意味のない滞在というわけではない。シェーカーの鳴らす音をBGMにそんなことを考えていると、隣に座るヒソカはおもむろに右手を開き俺にも見えるよう差し出した。意図が分からず視線を落とすとその手が握られ、そのあとすぐに開いて見せる。つい数秒前までは何も乗っていなかったはずの手の平には1枚の銀貨があった。俺は小さな拍手を送る。
「凄いねヒソカ。ホントにマジック、出来るんだ」
「こう見えてマジシャンだからね♦」
素直に褒めればそんな皮肉にも取れるセリフが返された。こう見えて、という言葉が示す通り彼の容姿はマジシャンというよりはピエロに近いものを感じるが、観客を騙し魅了するという点ではむしろ見た目の通りだろう。長身のマジシャンが先ほどとは逆の手を広げ、くるりと手の平を下に向けるとその甲にはコインが乗っている。一体全体いつの間に。どうやって。分からないタネに頭を捻るのは手品の醍醐味だ。彼のマジックにも当然タネや仕掛けがあるのだろうが、俺の目にそれを見破ることは適いそうにない。そして何より、このような娯楽を俺に提供する意味が分からなかった。左の手の甲に現れたコインを右手が覆ったかと思えば離れ、両の手の平を晒される。もちろんそこにコインの姿はない。
「マジックはね、同じネタを何度も見せるべきじゃないのさ♠」
「あー……見破られるリスクが上がるから、だっけ?」
俺が言葉を次げば、ヒソカはいかにもと言わんばかりに唇を吊り上げて笑った。声もなく顔の筋肉のみを歪めて奇妙に笑顔を浮かべる道化師は相変わらず薄気味悪いものの、しかし慣れてしまえば言葉を必要としないこの空間も存外居心地の悪い場所ではない。俺の顔の前に伸びた右手が長い指を折り込み拳を作る。軽く力を込め、再度指を開くと銀貨が握られていた。どうやって、などという野暮な詮索をする気も失せ「すごい」と一言感想を漏らせば、ヒソカは気をよくしたかおもむろにそのコインを親指でピンと弾いた。空中に舞い上がったコインを目で追ったはずなのに次の瞬間には消失し、宙を飛んだそれがヒソカの手に再び落ちることがない。不思議だ。
「僕はタネを明かされない自信があるけどね♠でももう1つ……人は慣れてしまうんだよ♣」
意味深な発言をする男は右手を俺の胸元へ伸ばし、手の中へと指を隠すよう指を折り曲げた。人差し指から順番に小指を曲げ、今度は手の甲を下にし曲げた指を、先程とは逆の動きで元のように伸ばしていく。空っぽのまま空気を握っていたはずの人差し指と中指の間にはコインが挟まっている。何度見ても分からない。興味なさそうに手が軽く左右に振れ、指を離せばカラカラと乾いた音が2つ鳴った。テーブルの上には2枚のコインが慣性で転がり俺とヒソカの間で停止した。
「お見事」
「どうも♦」
そうしてまた拍手すると男はいっそ芝居掛かった仕草で恭しく頭を下げた。鮮やかなオレンジをした髪が視界一杯に広がって、その向こうにある切れ長の瞳と視線が絡む。唇に張り付いたままの微笑と裏腹に眼差しは刺すように鋭いのが、この男が一筋縄ではいかないと証明しているようで恐ろしくもあり、窺い知れない本心を覗き見てみたくもある。
「面白い、凄い、珍しい……そう思えるのは一度だけなんだ♠」
普通は、ね♣と言葉を続ける意図はやはり分からない。牽制のようで独り言のようにも聞こえる言葉は、そもそも俺に言っているのかすらも怪しいものだ。雰囲気のあるバーで薄暗い世界に生きる俺たちが意味ありげに会話をするからこそそう思えるだけで、実際は何の意味も意図もない口から出まかせの可能性だって十分にある。ヒソカは体を起こし、次は趣向を変えるつもりかポケットからトランプを取り出した。ポケットといっても実際にはそのようなものはなく、まるでパントマイムのように取り出すフリをして見せただけなのだが、その手には今までどこにも存在がなかったはずのカードの山が握られているのでこれもマジックなのだろう。手にしたカードを慣れた様子でシャッフルする姿は何とも様になっていて、有り体に言えば似合っている。ここでようやくピエロというよりマジシャンに近付いてきたような気がする。手元に視線を落とさずともカードが吸い付くかのように蠢く鮮やかな手並みは彼の戦い方そのものだ。細く長い指先を見つめていると不意にピタリと動きは止まり、小さく喉を鳴らしたヒソカの手が、トランプを伏せたまま一列に広げ「1枚どうぞ♥」などと笑った。折角なので参加することにして適当に1枚を抜き取り視線をヒソカに向けてみる。
「キミはね、飽きないんだ♠面白いマジックだよね♥」
それだけ言い残し、俺を待つかのように連日バーに居座っていたヒソカは、その日の夜から忽然と姿をくらませた。彼のことなのでまた気が向くなり用があるなりすればフラリと現れるに違いない。羽根を休めるという当初の目的を忘れつつあった俺からすれば意外なことではあるが、何も今更彼の気まぐれには驚くこともない。タネも仕掛けも分かる、見飽きるほどに見たトリックだ。何はともあれハートのAがないトランプではマジックもやりづらいだろうから、受け取ったこれはそのうち返してやろうと思う。
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