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飽和水溶液
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 風呂は好きだった。湯船に浸かれば汗と疲れを洗い流して1日の全てをリセットしてくれる。自分の心音と揺蕩う水面の弾ける音のみが繰り返される静かな空間。いつか見たアニメで色っぽい女性のキャラクターが「風呂は心の洗濯よ」と言っていたが、幼心にも全くその通りだと思った。温かくて心地いい。しかし俺の憩いの時間は、彼との仲が深まるにつれ薄らいでいた。
 全てを思い出すのはいつもこの蒸気に満ち閉鎖された四角い部屋で、苦悩も劣情も激昂も嘆願も、全てがこの浴槽の中に溶かされている。温かい水蒸気すら胸を侵食し息苦しい。心地よかったはずの空間が今ではすっかり悪夢を呼び起こすきっかけとなり、湯船に浸かれば浸かるほどに意識が遠くなってくる。

「乃亜……」

 脳裏に過ぎった彼の名前を口にすると、それはシンと静まる浴室内に、ベルのように喧しく浸透した。反響が自らの鼓膜を震わせる。洪水をやり過ごした方舟の名前は、排他的で選民思考の乃亜にはおよそ似つかわしい。彼と触れ合い知るにつれ俺の中で徐々に広がる、リアルとバーチャルの差。そしてその差が開けば開くほど、距離を詰めよう溝を埋めようとがむしゃらに俺を引き寄せる彼の細腕に、恐怖と歓喜を覚えるのもまた事実だ。
 指先をほんの僅かばかり動かすだけでちゃぷりと湯が揺れる。波打つ湯に映る俺の顔は歪で、自分の顔を思い出せそうにない。指先1つで容易に波立たせ荒れる様子はまるで、俺の体や心や精神にまとわり付く彼のように思えた。力を抜き、緩やかに湯船へと体を沈めた。胸が、肩が、首が、顎が、ゆっくりと沈んでいく。鼻まで浸かると呼吸が出来ず、それでも俺は沈み続ける。
 浅い浴槽で足を曲げ、仰向けのまま見上げる浴室の天井は白かった。蛍光灯の鋭い光が俺を包む水に乱反射して全てが白く、キラキラと輝いている。呼吸など必要がないほど彼に愛され愛でられて、俺はいつか死んでしまいそうだ。
 愛してるよ、乃亜。でも飽和水溶液に、俺はなれない。

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100223