タイトル鍾会×鄧艾の弟
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 初めてそいつに逢ったのは夏に差し掛かる少し前、まだ宵の口に外出するには肌寒い季節だった。成すべきことを片した私は資料の保管されている室から数冊の読み慣れた兵法書を持ち出し寝る前の軽い読み物にでもと、明日一日を有効的に過ごすための計画を立てながら室へと戻る。陽が落ちるまでの刻は長くなりつつあるが、それでも月明かりだけではやや足元の覚束ない闇に呑まれた通路をゆく。
 私の室は鄧艾の室を過ぎねばならぬ。朝方ならば床が軋むように足音を鳴らし歩くのだが、流石に夜間にそれをするほど私は愚かではなかったし、正直寝る前にあのような旧式の顔など見たくはない。故に鄧艾の室の扉が開いたのを見て私は思わず眉間に皺が寄った。今日はついていないものだと仕方なくデカいから邪魔だと適当な悪態を吐こうと思ったのだが、扉の奥の闇から現れたのは、私と背丈の変わらない男であった。年は私より少し下だろうか。まだあどけなさの残る柔らかそうな頬に、玉を嵌め込んだような力強い瞳が印象的な男だった。夜着に身を包み背中まである黒髪は結われることなく乾燥した風に僅かばかり揺れていた。見掛けない顔だと、私はすぐに気が付いた。

「何者だ。ここで何をしている?」

 不信感を露わにそう問うと、私を見つめていた男がはっとしたように辺りを見回し、その後すぐに姿勢を正し拱手して見せる。「このような姿で失礼します」透き通るような落ち着いた美しい声音だった。緊張した面持ちで私へ視線を投げ何事かを繋げようと口を開くと、しかしそれから言葉が出る前に、闇の中から巨大な手がぬるりと伸び男の頭を撫でた。

「……鄧艾殿」

「鍾会殿か、すまない。士遠、道を開けて差し上げろ。この通路は狭いのだ」

「はい」

「おい、待て」

 鄧艾の言葉通り男は扉へと寄り道を開ける。確かにそこを通りたい私にすればそれは重要なことであったが、そんなことよりも、目の前の男が気になって仕方がなかった。女とは思えぬ容姿とはいえ、それなりに身なりを整えればそれこそ美姫として通りそうなこの見知らぬ男が、何故鄧艾のようなむさ苦しい男の室にいるのか。もしや男色なのかと様々な思いを抱きつつ声を掛ける。線の細い男が再び私を見て、それから何かを訴えるように鄧艾の顔へ視線を向けた。

「どうなされたか、鍾会殿?」

「どうもこうもあるか。一体こいつは何者だ? 見知らぬ顔だが、何故ここにいる。こちらの棟にはそれなりの階級の人間しかいないはずだろう」

「いや、誠申し訳ない。予定では今日の正午過ぎに司馬懿殿にお目通りするはずだったのだが……」

 鄧艾は何とも苦々しげな表情で頭を掻いた。出来れば内密に願いたいのだが、と小声で付け加えるところを見ると、何らかの後ろめたさを感じているのだろう。鄧艾の後に続くように、今度は童顔の男が話し出した。

「鍾会殿、で御座いましたか。聡明と名を轟かす貴殿であれば小耳に挟んでおいでかもしれませんが、西方の川が先日の豪雨で氾濫し、こちら側まで来るには山を越え迂回せねばなりませんでした。このような刻になって到着したものの司馬懿様へ謁見を望む訳にもいかず、ならばせめて兄へ報告をと、取次ぎの者に頼みこちらへ参ったのです」

 書を読み上げるかのように滔々と流れる声はどこか義務的ではあったが、確かに司馬昭と鄧艾が今日の昼頃にそんな話をしていたことを思い出す。あの時仕官するだのどうだのと言っていたのはこの男のことだったのか。突如現れた男の正体に納得し、そうかと呟いて私はその場を後にした。ただ正体の分からぬ者をのさばらせておくことが気に食わなかっただけで、別段この男自体に興味はない。足を踏み出す度に小さく軋む木張りの床を踏み締めて歩くと背後から「また明朝、お会いするのを楽しみにしております」と律儀な挨拶が投げられた。旧式の弟も旧式というわけだ。

 翌朝、私や司馬師、司馬昭といった発言力ある者が集められた軍議の場で、例の男が紹介された。朝日に照らされる頬は白磁のように白く、きめ細かく、その場にいる司馬懿と鄧艾を除いた全ての人間の口を塞がらなくしてみせた。

「…………おいおい。士遠……って言ったか? お前、本当に鄧艾の弟なのか?」

 見えねーよ、と司馬昭が呟く。それはそうだ、昨夜鄧艾の室からこの男が出て来た所を見ていなければ、私とて同じことを言っていたはずだ。月明かりに見たよりもずっと意思の強そうな黒い宝玉は光を浴びて爛々と輝いていたし、宵の闇ではっきりとは判断出来なかった唇も緩やかな弧を描いて微笑を湛えている。昨日見た緊張を孕んだ表情など、とても想像は付かなかっただろう。

「司馬昭殿が疑うのも無理はありません。自分と士遠は母が違うので、昔から似ていない兄弟と言われておりました」

 片やむさ苦しい大男、片や華奢な優男。顔の造形も骨格も、何から何まで似通わないこの赤の他人のような2人を、よもや兄弟と思うまい。特に父親に良く似た司馬師と、兄ほどではなくとも父親と兄に似た司馬昭からは想像するのも難いであろう。

「この度の戦は僕にとっての初陣。皆様の足を引っ張らぬよう尽力しますので、ご指導ご鞭撻をよろしくお願いします」

「そういう堅いとこは兄貴そっくりなんだなー」

「昭よ、お前も兄を見習いよく働くのだぞ」

「はいはい、分かってますよ父上」

 司馬懿と司馬昭のお決まりのやり取りののち、ようやく本格的に、次に行う戦の軍議に取り掛かった。烏合の衆を根こそぎ狩るための戦は多くの策を用いずともすぐに始末が出来ると踏んだ司馬懿は、この男にしてはごく簡単な戦略と布陣のみを言い渡し、軍議はそのままお開きとなった。実際の所書簡で事足りるこれにわざわざ将軍全員を呼び出したのは、士遠とやらの顔見せの意味が強いのだろう。士官してすぐに将として出陣する旧式の弟は即座に司馬昭と夏侯覇に捕まりその処遇について質問攻めに遇っているようだ。色々と声を掛けようとも思ったが我先にと食いつく馬鹿と同じになるのも癪だったので、私はさっさと自室へと引き返した。

「全く、馬鹿馬鹿しい……」

 昨日預かっていた竹簡と先程受けた竹簡とを新たに編み直し整理して棚へ並べる。本来なら小間使いにでもやらせるようなことではあるが、私は人に私物を触られたくないのでそのような人間は使わない。いくつもの竹簡をしまい、書簡を紐で纏め、提出する物と片す物を分けていた頃だ。「鍾会殿、いらっしゃられますか」扉の向こうからそんな声が聞こえた。凛と張ったよく通る、それでいて聞き慣れない声。扉の向こう側には紛れもなく士遠の気配が満ちていて、私は手に持っていた竹簡を机の上に置いて、入れと一言声をかけた。
 扉を開いてすぐ、顔を出した男が拱手してみせる。律儀なのも悪くはないと思うが会う度にそんなことをされても面倒なので適当に手を挙げ遮ると、気付いた男は静かに頭を戻した。ここに現れることは分かっていたので一時作業を中断し、机に備え付けられている椅子に腰を降ろす。微かな足音を鳴らしながら、客人も室に足を進めた。

「鍾会殿、先程司馬懿様にご紹介を預かった、」

「士遠だろう、知っている。そして鄧艾の腹違いの弟というのも既に承知している。いちいち一から十まで話す必要はない」

「……失礼致しました」

 流石にここまで露骨にしつこいという旨を強調すれば、この鈍い男も些か勘付いたようである。兄譲りの鈍さには舌を巻く思いではあるが、その兄よりは察しが良いのかもしれない。

「お前は私の下につく。次の戦……お前にとっては初陣だが、お前は私の言葉通りに動けばいい。貴様の兄のように余計な真似をすることは許さん」

「承知しました」

「あとその芝居掛かった仰々しい態度もやめろ。折角あの男と違う美しい見目だというのに、お前が何かする度に鄧艾を思い出して不愉快だ」

 承知しました、と士遠がまた拱手をする。最早これは癖なのかもしれぬと、私はやや呆れ混じりに再び言おうとした言葉を腹の奥へとしまい込んだ。言うべきことは全て言い終えたのでさっさと室を出て行って貰おうと手で追い払う仕草をしようと思ったのだが、男は顔を俯かせたまま中々元に戻らない。人の室で気分でも悪くしたのかと思わず眉間に皺が寄ったが「……おい、士遠。顔を上げろ」そろりと恐る恐る上げられた顔に、私は静かに息を飲み込んだ。

「し、失礼しました……」

 やや下を向いたまま男が早口に謝罪する。その頬はつい先程までの白磁ではなく、桃の花のように朱がさしていた。伏し目がちに瞬く目元と、髪に隠れて見えづらい耳なぞは特に赤い。怒りを抱いてというよりは、どこか泣き出しそうな不安定な色である。

「どうした。顔が赤いが」

 早く室を出て行けと言えば良かったのに、私の口はそんな言葉を発している。己の意思と無関係に動く唇を忌々しく思い噛み締めていると、男は自分に対して不快感を表しているのだと勘違いしたのだろう。慌てた様子で首を横に振った後、ほんの僅か逡巡してから口を開いた。

「申し訳、ありません……慣れていませんでしたので、その……美しい、と、言われることに……」

 それほど人目を惹く容姿ならそれこそ腐るほど言われていそうなものであったが、そもそも人の少ない田舎で育った男だ。世辞でも誠でも、率直にそうと言われることに慣れていないのかもしれない。言葉一つで頬を赤らめ瞳を潤ませるなど生娘のようだと思いはしたが、何を思ったか私の手は、顔を隠すために掲げられていた華奢な腕を下ろさせ、淡く色付く柔らかな頬に触れてしまった。女とは違うがしっとりと吸い付くような心地良さに、思わず親指で唇をなぞってしまう。頬と同じく赤く色を付けた唇は少し乾燥してはいたが、それでも男の無骨な唇とはまるで違った。下唇を端から緩やかに摩ると士遠の眉がひくりと一瞬寄せられた。親指の腹に伝わる感触が心地良い。
 くすぐったさを堪えるように唇が引き結ばれて、鍾会殿、と掠れるように小さな声が私を呼び戻した。

「あ……あの……鍾会殿、一体……?」

 赤らんだ顔のまま訝しげにそう問い掛ける士遠の声は細い。この鈍そうな男のことだ、私に試されているとでも思っているのだろう。

「気にするな。美しい物には触れてみたいと思うのが人というもの……それ以外に理由などない」

 触り心地の良い肌から手を離すと、士遠は唇を噛み締めてから何度目かの拱手をする。赤い顔を隠すように深々と頭を落とし足早に室を出る様はさながら脱兎というに相応しかった。音を鳴らして閉まる扉を見つめながら自分の右手を握る。何故自分があのような、女を口説くかのような行動を取ったのかは分からない。それでも掌には熱い肌と柔らかい唇の感触が残っていて、私は何ともなしにその親指を舐めてみたが、美姫に触れた指はただ塩辛いだけだった。

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