知将と捨て犬の話
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返り血に塗れても損なわれない、鬼神が如き武と月光も眩む美貌、とでもいうのだろうか。戦場で拾って来た人間はそれほどまでに強く美しかったが、残念なことに頭が悪く、そして紛れもなく、男であり武人であった。
この日私は曹操から渡された竹簡に目を通しながら逆賊討伐のための策を練っている途中だった。「仲達!」と喧しいほどの音量で人の名を叫ぶ馬鹿の気配にうっと目眩を起こしそうになったが、無視をしたらしたでやれ構えだのやれ話せだのと更に頭を痛めることとなる。仕方がないので室と外とを隔てる欄干から身を乗り出し階下を見下ろすと、やはりそこには麗人が1人、私の室を見上げていた。
「何の用だ、燕京。私は今忙しいぞ」
「なあ今から仲達の室行ってもいいか!?」
「人の話を聞け! 私は貴様と違い忙しいのだ!」
私の声など耳に届いてはいないのではないかと疑う理解力だが、燕京は笑いを返すばかりだ。大きく手を振りながら「仲達愛してる!」などと叫ぶものだから、周囲を歩いている兵たちが振り返って私と燕京とを仰ぎ見る。女のように華奢な見目で更に美しくあるのだからただでさえ目立つというのに、あれはまだ目立つつもりなのか。私が言葉を返すまで鳴り止まない盛大な愛の言葉はそのうち城の中に駆け巡るだろう。すると後からくる好奇な質問が煩わしいので、私は仕方なく室に上がってこいと手で合図を送った。
「仲達! さっき町に降りたときに買ってきたんだけど、どれがいいか分からなかったから適当に選んできたんだ。気にいるといいんだけど」
室に入ると同時に快活な声が捲し立てる。大人しく喋っていればそれは鳥がさえずるような嫋やかな響きのある音であろうが……そういう風に聞こえることは、ない。取り出した小さな紙袋を見るに高価な物か。がさりと音を鳴らしながら袋の中を漁る男の手が取り出したのは墨だった。そういえばそろそろ予備の物がなくなるので調達しようと考えていた頃だ、偶然にしてはよすぎる機である。
「今度墨を買うって言ってただろ? ついでに買ったんだけど、これじゃダメかな?」
座りながらその始終を眺めていた私が手を伸ばすと燕京は素直にそれを渡してくる。黒い小箱の蓋を開けて中を確認すればやはりそれは質のいい漆黒に金の箔が押してあり、思わず私の口から感嘆の息が漏れる。よもやこれほどの物を選んでくるとは思わなんだ。
「ふむ、これはいい色が出そうだな……貴様にしてはよい目利きだ。褒めてやる」
「本当に!? ありがとう!」
この場合恐らく礼を言うのは私であろうが、褒められて尻尾を振る馬鹿はそれに気付かぬようなのでそれ以上は言及せずに墨の入った小箱を机にしまった。
拾ってからというもの、燕京はまるで狗のように私に付いて回るようになった。見えないが、尻尾を振り、邪険にされても纏わり付き、最近では何を思ったか愛してるなどという言葉を覚えてしまったから大変だ。
褒めてくれと言わんばかりの期待の篭った瞳が私を見つめているため諦めて息をつき柔らかい髪に指を通す。これは黙って従っていればかの有名な二喬にも劣らぬほどの美貌であることは間違いなかろう。大きな瞳に通った鼻筋、そして小さな唇。私もそれなりに整った顔立ちではあるが、ここまでくると最早同じ人間とは思えぬほどである。髪を梳くように頭を撫でると燕京の目が細められて、頬や額が掌に押し付けられた。
「仲達、嬉しいか?」
「ん……ああ、まあ、そうだな……ふん。礼を言っておこう」
机に身を乗り出し私の手を甘受する燕京がさも嬉しいというように頭をすり寄せる。甘やかすつもりはないのですぐに手を退けたが、僅かばかりの褒美でもそれなりに上機嫌のようだ。
「さて。私は忙しいのだ、出て行け」
「また夜会いにきていい?」
手を振り外に行けと合図をすると美しい狗はくうと鳴きねだる。「いい子にしていたらな」ふっと笑みを浮かべて告げてやると男はぱっと表情を明るくし、来たときと同じよう大きく手を振って出て行った。
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