曹丕様と従者の話
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 軍議の最中のことだ。中央奥に構える孟徳様の横には子桓様と仲達が座り、元譲殿を初めとした主力となる勇猛果敢な将たちが巨大な円形の卓上を見つめている。子桓様の隣に座る俺は皆の視線を一心に受けながら、なんと答えるべくか懸命に頭を巡らせた。

「いえ、ですから孟徳様、飽くまで可能性の話ではあるのですが……」

「構わん。話せ」

 卓上に広がる地図には次に行う戦の予定地付近が描かれている。漢室に仇なす賊軍の討伐を目的とした戦ではあったが、その地形に俺は、ほんの少しばかりの違和感を覚えただけなのだ。

「この河を越えた先にある拠点ですが……恐らくここは崖下。俺が昔見た地図には、この手前辺りから山を登る道があったはずです」

「ほう。それで?」

「はい。もしこれが本当に崖下であった場合、先行部隊が高地に陣を取り落石を計する可能性があるのでは、と……」

「なるほどな」

 些細な盲点ではあろうが、俺の記憶があっていた場合、この読みは間違いないだろう。進軍途中の河を渡る魏軍を待ち伏せる拠点。それを落とそうと拠点内部に突入したときを狙い拠点もろとも岩石で押し潰す。俺が賊軍の策士であればそうしただろう。

「ならば白火、お前はどう攻略する」

 蓄えられた立派な顎鬚を一撫でしたのち孟徳様にそう問われて俺はまた頭を抱えた。仲達に意見を聞ければ間違いないのだろうが、今意見を問われているのは俺なのでそれも出来まい。

「そうですね……もし許されるのであれば、俺が軍を率いて山の裏側から調査を行えれば、と思います。先に敵先行部隊をどうにかしてしまえば進軍は楽になるし、仮にこの推測が間違いで何事もなかったとしても、邪魔にはならないでしょう」

 俺の答えに仲達の顔がこれ見よがしに顰められた。彼のことだから、そんな危険な拠点があるのならば敵軍の将をそこに追いたて、敵の落石によって皆殺しに、などと恐ろしくも積極的な策を用いたいに違いがない。内心胸が張り詰めるほどの緊張があったが、ややあって孟徳様は「よかろう」唸るようにそう言葉を捻り出した。
 俺が自分で軍を率いるのなど初めてだ。それどころか戦の前線に立つのすら久々であると感じる。普段は孟徳様と仲達たちと本陣で指示を出したり奇襲を蹴散らしたりということに尽力しているため、今回の戦はやや緊張しそうなものである。俺のために軍を編成して下さる孟徳様に礼を述べようと口を開いたとき、俺の隣に腰を降ろし大きく構えていた子桓様が、突然力強く机を叩きつけた。

「父よ……どのようなおつもりか……!」

 隣におられる彼の父に向ける目には凍りつくような冷たさが宿っている。憤怒しているというのは傍目にも分かったのだが、肝心の激昂の理由が分からない。子桓様は腰を上げて今にも殴りかかりそうに拳を握り締め孟徳様を睨めつけていた。

「……何を憤慨しているかは知らんが、よもや白火が出陣することを厭うわけではあるまい。普段本陣にて戦況を操る白火も一将軍、槍術に長けて数多の将兵を屠っておるのはお前も知っておろう」

「それは勿論です。しかし父よ、常日頃から後衛に留まる者を単独部隊で敵陣に行かせるのは危険が大きすぎるのでは」

「何を言うておる。子桓、初陣にてお前が敵陣へ突っ込んだのは13のときであったはずだ」

「それは……」

 言葉に押し負け子桓様が唇を噛み締めて黙りこくる。己の意見は言うことがあっても他将軍の身を案じる発言をするなど彼にしては非常に珍しいことだ。机を囲む将軍の内にもそれを理解している者が多いようで、あからさまに怪訝な色を浮かべる者や、隣の者へ耳打ちする者もいる。それらに目を配ることもなく子桓様は一つ息を吐き出して、それから静かに椅子へと腰を降ろした。多少熱くなることがあろうともすぐに冷静さを取り戻すのが子桓様の長所である。

「……ならば父よ。私は単騎で白火の率いる部隊と共に崖上へ行かせてもらう」

「し、子桓様それは、」

「黙れ白火」

 慌てて止めようとしたが冷たい声に一蹴されては口を閉ざす他はない。よりにもよって、多くの戦で敵陣の真中へ斬り込む子桓様が俺の部隊に来ようとは。元譲殿に続く主力が裏側に回ることなど、あってはならないことだろうし、それは常軌を逸した判断といえうる内容だ。俺も仲達も咄嗟に嗜める言葉を紡ごうとしたが、そうするよりも先に孟徳様が「構わん。但し何があろうとも援軍は送れぬことは承知しておくのだ」事もなさげにそう言った。まるで子桓様の発言を予期していたかのような返しとその早さに流石に子桓様も俺も仲達も口を継ぐんで眉を顰めた。元より顔の険しいお二方はどうにも険悪な様子ではあったが、それを見てもなおくつくつと笑い声をあげる元譲殿は肝の座った方である。
 失われた片目は見えないが、残された瞳は獣のように輝いているのだから、彼のお方こそ大将軍と呼ぶに相応しい器をお持ちになる方だろう。

「白火が出陣すると聞いて、曹丕殿が黙っているとは考えられん。なに、前線は俺と淵がいれば問題あるまい。あとは若さある者の好きに動くべき……そうであろう、孟徳?」

 にいと口を吊り上げる元譲殿に孟徳様も頷いて見せる。よもやこの2人、地図に記載されていない道のことを知っていたのではあるまいか。どうにも掌で躍らされている感の否めない軍議に気付いたのは俺だけでなく、子桓様もそのようだった。普段から深く眉間に刻まれた皺が更に深くなり俺の背筋まで寒くなる。恐らく孟徳様は、俺や誰かが先のことを指摘しなかった場合、自ら子桓様に調査へ行かせようとしていたのだろう。それが単騎か少数部隊かは最早分からぬことではあったが、しかし曹孟徳という男、まさに鬼才であると言えた。
 一通り話は終えたものの、俺はどうやら子桓様含む少数部隊と共に裏山からの調査へ向かうらしい。自分より立場の高いお方を率いるというのは中々に重圧だったが、孟徳様のお言葉であれば成す他はない。将軍の配置や役割を紙に記している途中、口を閉ざしていた子桓様が唐突に俺の名を呼んだ。条件反射で返事をすると実に不愉快そうな、子桓様の整ったお顔がこちらを見下ろしており、俺はそれ以上言葉を発することも出来ずに萎縮する。

「誤解のないよう先に言っておくが……白火よ、私は別に貴様の身を案じて追従を申し出たのではない。虐殺の危険性がある場所へ私の部下を赴かせるのを嫌ったまでよ。そこの所を勘違いしてくれるな」

「……はい」

 もちろんそれは分かっていることではあったが、こうして改めて口に出されると少し気分が落ち込むのは、やはり俺は何だかんだで子桓様を慕っているためだろう。不甲斐ない俺に呆れて手をお貸し下さることはままあることだったが、早く子桓様のお役に立てるようにならねばと焦ることもある。元譲殿の笑いを含んだ「素直でないのは孟徳譲りか」という言葉の意図は察しきれなかったが、横で威圧感を披露し続ける我が主に忠誠を誓う俺は、そうしたことを今一度自分の肝に銘じて筆を走らせた。

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