曹丕様と従者の話
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「白火、私は出掛ける。供をしろ」
曹子桓様といえば魏軍では有名なお方である。曹孟徳様のご子息であるから踏襲のこの世では高名となるのは当然のことかもしれないが、しかしながら彼は親の名とはまた別に有名だといえるだろう。文武両道の美丈夫で、そして何より冷静沈着冷血無慈悲。司馬仲達ほどではなかろうが、やることなすこと全てが暴君そのものなのだ、彼は。
「……今、でしょうか?」
「今だ。用意をしろ」
一切こちらの予定は汲まない辺りは流石といえる。一応異論があるのなら聞くだけならば聞いてくれるのだろう、眉間に深く皺を刻み僅かばかり首を傾げてみせるが、用があるからと言っても「それは後に回して私を優先させろ」と返されるのは目に見えている。幼い頃から子桓様にお仕えしている身としては、反論するよりも彼に合わせて予定を変更した方が効率的、そして平和的解決に至ると身を持って知っていた。
「……分かりました、お供いたしましょう。もし人数が欲しいようであられるのならば他にも声をお掛けしますが、」
「いい。貴様と私とで十分だ」
わざわざ問うなどと、愚鈍を演じているつもりか? 更に深く険しい皺を眉間に展開させて主が呻くように付け足して言う。一体何が彼の機嫌を損ねてしまったかは分からなかったが俺はひとまず「いえ……それならばいいのです……」と、小さな声で歯切れも悪く答えた。 何年もお供させて頂いているものの、子桓様のお考えは俺には図りかねる。
戦のない、特にやることもない日には我が家となる拠点を清掃したり、今日のように書をしたためている俺はすぐにそれらを片付け身支度を整えた。あまり長くお待たせすると子桓様の機嫌はもちろん悪くなるし、2人で出掛けるとなるとそれを知った仲達が、やれ供を多くつけろ、やれ早く帰還せよだのと小言を繰り返す元凶となる。子桓様も仲達を寵愛していらっしゃるが、日頃小言が長いことをぼやいておられるので、これに捕まってはいけないのだ。
「白火よ、私は今から茶屋へ向かう」
「茶屋……ですか。これは珍しい」
「そうだ。貴様だけを連れてだ」
「ふむ……」
「意味は分かるな?」
俺よりもやや高い位置にある双眸がそれはそれは恐ろしげな光を宿して睨めつける。普通の人間ならさぞ恐怖に震えることだろう。かくいう俺も慣れたとはいえやはり若干の気後れをしたが、とりあえず頷いてみる。俺だけを連れて茶屋へ行く。それはつまり、気心知れた者と茶が飲みたいということに他ならないはずだ。
「分かっております。戦の前の休息も必要。俺でよろしいのであればお付き合いいたします」
「……分かっておらぬではないか、馬鹿者め」
フン、と不愉快そうに鼻を鳴らした子桓様が呆れた様子で先を歩き出してしまい、俺も急いでそれに続く。何か間違って解釈してしまったようだが、まさかこの解釈が違っているということなのだろうか。「愚かな。私がここまで言っても分からぬか。愚鈍もここまでくればいっそ潔い」やや前を歩む子桓様の薄い唇から、まるで呪い師の呪詛のように悪意の籠った言葉が紡がれている。さてどうしたものかと本格的に冷汗を滲ませながら俺は気の効いた台詞を頭に思い描いたが、どれもこれも主の機嫌を戻すには至らないであろう凡なものしかない。
「し、子桓様、今のは、その、」
「黙れ甲斐性なし」
なんとまあ酷い言い草である。長い脚で早足に行く主君の後をこちらも足早に追いつつ、少し考えたのち、俺は子桓様の腕を引いた。立場に差がある場合下の者が上の者に触れることは普通あり得ないのだが、不思議と子桓様は昔からこういった接触を好む節があったのでやんやと言われることはない。とはいえ誰かに見られたら事なので、いわゆる2人の間での秘密の合図のようなものだ。立場的な問題で言いたいことを言わない俺が、古くからの仲という間柄に甘えて子桓様の耳を借りようという小癪な手である。俺が彼の腕を引くと暴君は足を止めて、先程よりは真摯な態度でこちらへ向き直った。眉根を寄せ、唇を引き結び、不機嫌を全面に表す主君が「何だ」口数少なく応答する。
「いえ、あの……子桓様。茶屋に誘って頂いて、ありがとうございます。2人だけで出るのは久々なので、嬉しく思います……」
何と言えばいいか散々迷った挙句、俺はとりあえずそんなことを言っていた。事実ではあるし、それが本心でもあったが……正直これが今言う言葉かと聞かれれば首を傾げる他はない。選択を誤ったかもしれないと己の稚拙な知才にはやや落ち込んだものの、今更仕方がない。
「………………本当か」
「は?」
少し気まずすぎはしないかと徐々に主君の無言に恐怖を抱きつつ唾液を嚥下したが、ややあって子桓様が小さな声音で何事かを問うてきた。聞こえはしたが意味が分からず間の抜けた返答をすると、どことなく驚いたような表情で彼が繰り返す。
「嬉しく思う、というのは、本当なのか」
ぽかんと口を開けて聞いていた俺だったが、ようやっと意味を理解して「もちろんです」と何度も頷いてみせる。
「……そうか。嬉しいか」
再びくるりと背を向けて子桓様が歩き出して、俺は慌ててそれを追う。先よりも緩やかな歩行速度は俺の歩みに合わせて下さっているようだ。遅れぬよう慎重に歩いていると少し前を一定の間隔で進む子桓様が突然ふっと笑いだした。何事かと思い顔を向けると整った顔立ちの美丈夫と目が合って、
「嬉しいのなら、また誘ってやらんこともない」
つい一寸前まで不機嫌を絵に描いたようようなお顔であったのに随分とまあ楽しそうなそれに変わっておいでだ。そうは思ったが一々それを口にして彼の機嫌を逆撫でする必要もなく、俺もその言葉が純粋に嬉しかったので「光栄です」と返すのだった。
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