再び
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気がつくと、俺はどこか硬い床の上に転がっているようだった。湿った冷たい空気に冷たい床の感触。屋内だろうか。立ち上がろうとしたが何か重たい物が足と腕にまとわりついているようで、寝起きの力の入らない体ではうまくいかなかった。
自分の置かれた状況がはっきりしない理由は2つ。1つは今、恐らく布のようなもので目を塞がれているということ。麻か綿か分からないが、随分ゴワつく布で、かなりキツく結ばれているのだろう。結目が食い込む後頭部までもがズキズキした。
そしてもう1つは、ここに至るまでの記憶が、俺にはほとんどなかったからである。
覚えているのは市街地へと足を運び、竜崎に勧められた紅茶のティールームとやらを見に行ったとき、何者かに襲われたということである。路地に入ったところを突然、頑丈な固いもので頭を殴られた。目の前がチカチカと点滅して、言うことを聞かなくなった体が、鳩の糞にまみれた地面に崩れ落ちる。微かに視界に映ったのはキャスケット帽とマスクで顔を隠した細身の人間が、野球のバットを片手に俺を見下ろしている姿だった。
思い出すと余計に後頭部が痛む気がする。これは布が食い込んでいるだけの痛みではなかったのだ。疼痛を訴える頭を撫でようにも腕は背中側でしっかり固定されてしまっていて、僅かに身じろぐことしか出来なかった。足に至っては動かすとジャラジャラという金属音が響くため、多分鎖のようなものでどこかに縛られているのかもしれない。口の中にはご丁寧に布切れか何かが目一杯に詰められていて、助けを呼ぶのも難しそうだ。
拉致、監禁。頭の中にその2つのワードが駆け巡る。異国の地に到着してすぐバスジャック事件に巻き込まれ、次はこれだ。イギリスという国がそこまで治安が悪い国とは思えなかったが、運が悪いという言葉で片付けるにはあんまりな人生である。
とりあえず、ここから脱出しなければ。一体今度は何の事件に巻き込まれたのか分からないが、まずは目隠しを取りたい。可能ならば腕と足の拘束もだ。どうにか体を持ち上げて上体を起こした瞬間、キィ……と、金属が軋むような微かな音が聞こえた。視覚を塞がれ聴覚に頼っている状態なので、より過敏にその音を捉えたようだ。
ーーひた、ひた、と。
裸足が地面を歩くような、音が。
近付いて……俺の隣で止まった。
「おはよう」
突然、すぐ隣から声がした。低い男の声だ。グッドモーニング、サーという単純な挨拶は今のこの状況では異常な恐怖心をかき立てる。肩が触れ合うような近距離だと容易に想像出来るような、息遣いまでもが鼓膜に届くような囁きだった。
「んん、んん……んー、んんん!」
拘束を解けと言ったつもりだったが俺の口は塞がれているのでもちろん言葉は届かない。何とか強気に挑むべく手足を可能な限りバタつかせたものの、金属音が響くだけで何の効果も得られなかった。再び男が何事かを喋り出す。えらく早口でスラングの多い長文だ、俺の英語力では断片的にしか聞き取れない。「お前は選ばれた」「崇高な行為に立ち会える喜び」「生贄の命」「異端の神を退ける」怪しげな単語が飛び交って、背中に冷たいものが流れていく。サスペンス映画で観るような猟奇的殺人事件のスケープゴートにでも選ばれたのかと、嫌な予感ばかりが頭を支配した。
息を殺して硬直する俺の頭が乱暴に掴まれ目隠しを引き剥がされる。目蓋が引っ張られて痛んだがそれどころではないため懸命に目を凝らした。室内は暗いが、等間隔に何か明かりが灯っている。よくよく見ればそれはロウソクだった。ロウソクは約2メートルほどの感覚で円形に設置され、その中心に俺はいた。隣には細身の男が全裸で立ち竦み頭上を仰いでいる。異様な光景に呼吸すら忘れてしまいそうだった。
「行きます。私は今から行きます。慈悲を。お導きください。私は行きます。行きます。行きます。行きます。行きます。行きます」
男はしきりにそんなことを呟いている。顔は死角になっているため表情どころか人相すらも窺えないがどう見たって正気ではない。背中を向けていた男がこちらを振り向いた。痩せこけた頬に薄笑いを張り付け、両手を持ち上げる。手には、刃渡りのあるナイフを持っていた。
「ん……んん!? んー!! んー!!」
正気ではない! 逃げようにも手足の拘束が邪魔で動けない! ロウソクの揺れる明かりに照らされる鋭い鋼が煌めいている! パニックになる俺の体を男が跨ぎ、イモムシのように蠢く俺を見て、笑った。振りかぶった手が、ナイフが、男の胸の中心にゆっくりと吸い込まれていく。まるでスローモーションのようだった。
耳をつんざく絶叫。引き抜かれ、地面に落ちるナイフが立てる金属音。宙に飛び散る、赤。俺の世界がそれだけになり、そして視界が黒く染まった。
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1510??