異国の地で
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 この世には犯罪が溢れていて、罪のない市民が巻き添えになることは少なくない。それらの悲しい事件を少しでも減らすべく尽力していた俺が初めて彼と言葉を交わしたのは、遥か遠く、日本からイギリスの地に降り立った直後に巻き込まれた、ロンドン・ヒースロー空港から市街地へ向かうバスの中でのことだった。
 右も左も分からぬ場所に降り立った俺を襲った最低なバスジャック事件で、奇しくも海外研修初日の警察官であった俺は他の乗客を助けるべく自ら人質を志願した。拳銃を頭に突きつけられる恐怖は筆舌に尽くし難かったが、現地警察が寄越した無線機でやり取りをすることに成功した。そのとき、ネゴシエイトしたのがLという人間だった。

『私はLです。貴方の名前を教えてください』

 機械で加工された声は男とも女とも分からなかったが、妙な緊張感はなく、非常に冷静な言葉だったのを覚えている。風の噂にちらりと聞いた、世界三大探偵の1人、L。都市伝説のような存在の彼がよもや俺と言葉を交えるとは夢にも思っていなかったが、幸か不幸か、額に触れる重厚な金属の冷たい感触は、常に現実を突きつけていた。

 自分の名前、国籍、乗客の数、犯人の要求。実行犯の目が据わった男に促されるまま俺は拙い英語を用いてLと会話した。乗客のうち2名は年端もいかぬ子供で、何とか交渉の末子供だけは先に解放することが出来たのは幸いだったと思う。
 数発の威嚇射撃のあと再び銃が胸に突きつけられ、要求を飲まねば交渉している俺自身を射殺すると告げられたときは、本当に生きた心地がしなかった。

 隙をついて投げ入れられた発煙弾に乗じて突入したM.P.Sに救助され事なきを得た俺は、地元警察に保護されながら、Lの代理人を名乗る謎の老紳士から渡された携帯電話を震えの残る手で耳に押し当てた。先ほどまで散々聞いていた機械の声ではなく、生の、成人男性の肉声が流れ込んできた。

『平丸彼方さん。日本警察の方ですね。ネゴシエイトにご協力いただき感謝します。こんな言い方は失礼でしょうが、交渉役の人質として捕らえられたのが貴方でよかった。きっと他の一般人では、もっと時間がかかっていたはずですから』

 流暢な日本語だった。恐らく彼は、俺の英語力がギリギリ一般会話をこなせるレベルと判断し、配慮してくれたのだと思う。話自体は長旅を終えた直後に数時間も頭に拳銃を突き立てられた人間にかけるにはあんまりな内容ではあったが、そうして賛賞されたことは素直に嬉しかった。緊張の糸が切れ付近にあった縁石に座り込みながら、どうにか掠れた声で「助けてくれてありがとうございました」と答えた。伏せていた職業を言い当てられたことも、きっと地元警察で調査が行われたのだろうとしか思わなかった。

 彼と2度目に言葉を交わしたのはそのすぐ後だった。ホテルに着いてまず警察庁へイギリスへの到着とバスジャック事件に巻き込まれた旨を連絡し、ようやく取れた自由時間で夕食を済まそうとしているときだ。
 近場のレストランに入ると客はまばらで、時計を見て納得する。すっかり夕飯時を過ぎていた。
 だいぶ席が空いていたため4人テーブルに座って適当なものを注文し終えると、不意に目の前に人が座った。もちろん俺は1人だ。先に言った通り店内はほとんど空席で、選び放題と言っていい。あまり失礼にならないよう遠慮気味にちらりと相手を窺うと、そいつは男のようだった。伸びっぱなしという言葉が相応しい黒髪とギョロリとした大きな目。全体的な色は白いが痩せた男で、服装は至ってシンプル。イギリス人と呼ぶには少々ミステリアスで、日本人と呼ぶには纏う雰囲気がキツい印象だ。だが少なくとも、こんな時間に食事に来るタイプの人間には見えなかった。

「こんばんは平丸さん。相席してもいいですか?」

 顔を俯けそっと窺い見ていた俺は、名を呼ばれて慌てて顔を上げた。名前を知られている。そして俺はこの声を聞いたことがある。つい先ほど、絶体絶命の窮地にいた俺たちバスの乗客を救った男の声。まさか彼は……。

「はじめまして。私はLです。竜崎、と呼んでいただけると助かります」

 引いたイスの上にしゃがむようにして座った男がにいと笑う。それが俺とLの、初めての顔合わせだった。

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1510??