He became a woman.56.
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大学生はあらゆる講義で、提出課題として小論文を書く機会がやたらめったらに存在する。もちろん文系たる僕は論文自体は苦手ではないし比較的得意な方であると胸を張って主張出来るのだが、とはいえ先述した通りやたらめったらあるのでなにぶん時間がかかるのだ。次の時限までに発生する暇な時間や恋人が帰るまでの時間を費やしコツコツ進めてはいたものの、課題が6つも7つも言い渡されると流石に憂鬱になる。それに加え、教授からは更に「期末論文はスピーチとグループディスカッションを行うから、半端なものを出したらグループ全員、単位あげません。各自私用にうつつを抜かして足を引っ張らないように。特に今ぐっすりお休み中の長谷川、お前だよ。隣、起こしてやれ」と宣告され、肩肘をついたまま口を開けて眠りこけるハセケンの肩を揺らす僕も含め、クラスメイトたちは文字通りの戦々恐々たる面持ちだった。丸谷教授は人当たりのいい優しい教授ではあるけれど、確実に有言を実行する厳格な人だ。教授の苛烈な発言を受け、いつも単位を落としがちで滑り込みセーフを基本のスタンスとしている友人は半べそをかきながら、帰り道、丸谷教授について「おばさんみたいな鬼」と評していたので、もしかしたら僕よりも彼の方が事態の緊急性は高いかもしれない。
中等教育において言語学の読解力の導入としての教材の在り方という難解なテーマについて頭をひねりながら、夕食の付け合わせにとサラダ用のトマトを切っているときだった。柔らかい果実を掴む左手の人差し指に突然刺すような痛みが走り、あっと叫んだ僕は反射的にトマトから手を離していた。包丁を置き確認した指先にはトマトの果汁とも違う赤い液体が滲み、指の腹までを細く伝っている。やってしまった。考え事をしていたせいで手元が疎かになり、切ってしまったのだ。いくら不器用とはいえ今まで包丁で指を切るなどという失敗はしたことがなくて、はじめての経験に動揺し、傷を洗うことすら忘れ佇んでしまった。見たところ深くはないが傷の長さは1センチほどで、ちょうど皮膚の薄い関節の節目を切ったようだ。自分の個性で切ったときと大差ない痛々しい傷にひとまず息を吐き、落ち着いてから、薬入れの中に保管されている絆創膏を傷口に巻きつけた。包丁は念のため洗い、血のついていそうなトマトはもったいないので僕の皿に移しておく。綺麗な方は消太くん用だ。
我ながらカッコ悪い失敗だった。消太くんには知られたくないなと思っていると、今度はタイミングよく玄関のドアが開く音が聞こえてくる。慌てて、しかし慎重に残りのトマトを切ってレタスの上へ移し、人差し指を手の平に隠すよう軽く手を握り込んで恋人が来るのを待った。
「ただいま」
ドアから顔を覗かせた消太くんが僕の姿を確認して帰宅を報せてくれる。僕よりも早く家を出て僕よりも遅く帰る消太くんの顔はどことなく疲労が滲み、朝見たときよりも少しくたびれている。
「おかえり、消太くん。今日もお疲れ様」
近寄ってそう声をかけると長身の彼が微かに笑みを浮かべたように唇を歪め、僕のこめかみに頬を擦りつけた。朝はしたシャンプーの匂いは1日が終わる頃には消えてしまっているけれど、くしゃくしゃの長い髪からは消太くんのいい匂いがする。外ではクールな年上の男性なのに、一歩家に足を踏み入れるといつもこれだ。甘えん坊の恋人が穏やかな声音で「ただいま」と、先ほどもした挨拶を繰り返す。彼のこんなに甘くて優しい声を聞けるのはきっと僕だけなのだろうと思うとニヤニヤ笑いが禁じ得ない。自分のものとは違う広い背中に手を伸ばし、ヒゲの生えた肉の薄い頬へキスをした。チクリと刺すような痛みはあるものの慣れるとくすぐったいその感触が存外クセになってしまって、僕はついついキスを繰り返してしまう。消太くんの手が僕の腰を撫で、脇腹をなぞって肩へ到達した。つい今しがた指を切った手前、それ以上手を触られたくないなと思う僕の意思など露知らず、節くれだち傷も多い彼の手が僕の腕をさすり手の平へ辿り着いてしまった。僕はもう大人なのに、包丁で指を切ったなどとカミングアウトするのは恥ずかしすぎる。唇を押しつけながら僕の手を絡め取った消太くんの手がそれを撫で、目ざとい彼はすぐに違和感に気付いたようだった。黒い瞳がチラリと繋いだ手を窺って、指に巻かれたばかりの絆創膏を視界に捉えると「指どうした?」と、即座に問いかけた。
「えーっと……切っちゃった……」
「包丁?」
「うん。あ、サラダに血はついてないから大丈夫だよ」
「どうだっていいよ。深いのか?」
「ううん、全然。ちょっと切っただけだから、あんまり痛くないよ」
そうか、と呟いた消太くんはそれきり口を閉ざしてしまった。片手で僕の腰を抱き寄せながら、もう片方の手では熱心に指を撫でている。あまり気持ちを言葉にすることのない消太くんはそのくせとても心配性で、僕が怪我や病気をすると思った以上に心配してくれるのが常だった。嬉しいような申し訳ないような、複雑な気持ちではあるもののやっぱり嬉しさは隠しきれなくて、僕は繋いだ手をギュッと握りしめた。長い前髪の隙間から消太くんの黒い目がチラリとこちらを見る。
「心配してくれてありがとう、消太くん。大好き」
心配性で案外世話焼きな恋人は微かに口の端を持ちあげて笑ってから、思い出したように僕にキスをしてくれた。
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170505
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